日本ブラームス協会による対談(2)

日本ブラームス協会発行の会誌「赤いはりねずみ」(1998、第28号)より、
森安芳樹先生の対談の部分を抜き出してこちらに掲載させていただきました。

 音楽性と技術  4・6の和音の使い方  シューマンが駄目にした指

 プログラムの組み方   ピアニストさまざま

 

 
故・森安芳樹先生対談・補遺
坂本政明 
「赤いはりねずみ」第10号(1980年)に、協会の会員有志と故森安先生とのインタビューの記録が掲載されている。そのときテープから起こした文章は大変なボリュームでとても全部を載せきれなかったので、溜島会員が荒編集して公表する部分を決めた。当時会誌の編集にかかわっていた筆者(坂本)の手許には、したがってテープの全記録が保存されていたので、あとで公表されない部分を「私家版」としてまとめ、そのコピーを希望した何人かの会員に配布したことがあった。    赤いはりねずみ(第10号1980年) のインタビューはこちら


 今回、先生がこんなに早く遠くへ逝ってしまわれるとは予想もしていなかったし、ショックも大きかった。そこでその貴重な未公開の部分を、それ自体興味深いものであるので、先生の考え方やお人柄などを知る豊富な話題を皆さまにお伝えしたいと考えた。迫悼の気持ちもこめて。
 できれば会誌第10号の63ぺ一ジ以降を傍らに置いてこの記録をお読みいただくのが最良であるが、そうでなくても充分に会員のご関心に応えることができると思う。

 改めてこの対談の日時、場所、われわれ側のメンバーをもう一度記すと、1980年6月22日、場所は先生のご自宅、きき手は赤岩幸一、岡田博美、坂本政明(文中の略称S)、武井俊子(のちに退会)、溜島信行(略称T)、先生の略称はM。
 このとき先生はまだ40歳をちょっと過ぎたころであった。 


 
音楽性と技術


T: よくピアニストで一日に6、7時間さらう人はいますけど、自分の音を聴く練習のために果たして何時間かけたか、ということになると音はきこえているが実は聴いていない、という場合が多いんじやないかと思うんです。本当に自分の音を聴くことができる様なら大変なことだと思いますね。
 
M: ええ、自分の音を聴くようにすることは大変なことです。子供の場合は絶対駄目ですね。子供に何かやらせようと思うとどんどん駆け出してしまう。客観性というものがまるきりないですからね。そのくせ録音しておいてあとで間かせるとケラケラ笑っている(笑)。
 
T: そういう意味では、いい演秦家になるためにはいい耳を持っていなければならない、ということですね。
 
M: ええ、それはもう絶対です。耳といってもただ聴き分けるだけの耳でなくて二ュアンスのこまかいバランスを聴く耳ですね
 
T: そういうのは小さい時からの環境のもってゆき方で育てることができるものでしょうか。
 
M: そう、まあ万事に注意深い子供(生徒)だったらね。
 
T: 演奏家がなにを言いたいかがこっちの胸に伝わってくる演奏というのは充実感があって思い出に残るものですけど、演奏する側とか指導する側が自己主張を聴衆にはっきり伝えるということは随分難しくて苦労の多いことと思うのですが。
 
M: 教えている立場でいうと、生徒が自分の主張をはっきり持って巣立ちした後でないとね。いい演奏ということで私思うのですが、演奏家というものは結局ある意味では生涯正確さとの戦いですよ。正確さというのは楽譜にだけでなくありとあらゆる意味にです。ベートーベンなんか曲を書く時、ある音から次にくる音を書くまで何度も消したり書いたり探します。自分が納得するまで曲が完成しない。それと同じことで、表現でもこうしたほうが楽だけれどでもこうしたい、っていうのがあってまたそうしようと思うと必ず自分の技術の限界にぶつかるというジレンマがある。しかしそういうときフッと向こう側に突き出ることがある。長い年月をかけて求めていたものが手に入ったそういうものは人に伝わるし、非常に説得力を持ちますね。
 
T: 演秦家というものは、まあほかの芸術家もそうでしょうけれど雲の上に突き出るまでの苦しみは大変だと思いますが、そうした抜け出たときの喜ぴはまた格別と思います。
 
M: まあ、自分の好きなことをやっていてそれで苦しむのですから。むしろ苦労しているという意識でなく、やること自体に喜びをみつけなけれぱいけないと思います。技術的なことで苦しい、たとえぱ薬指が人さし指の様によく動かないとか、小指が親指ほど強くないとか、そういう具体的苦しみという点ではこの子(岡田君)などは一番苦労が少ないと思う。ブラームスなどは薬指のところをどうしても強い音で弾きたい、という根強い願望があるとすればたとえできなくてもそこでこういう音を出したいという気持ちのほうが引っ張って行きますね。
 


 
4・6の和音の使い方


S: ブラームスのピアノ曲の和音というのはベートーベンとかシューマンにない独特の美しい響きがありますね。Op.117などは特にそう思うのですが。
 
M: ありますね。それと和音の重ね方で気がついたのですが、3音重複ということをやる。これを沢山重ねますと非常に厚ぼったい響きになって嫌いな人はこれをとてもいやがる。和声学では3音重複は特殊な場合の例として古典では使いますがブラームスの場合これが頻繁に出てくる。(第1交響曲の3楽章のトリオの部分をピアノで弾く)これはよくない、とクララ・シューマンが言ってたらしい。音が鳴りにくい原因に3音重複もその一つだけど4・6の和音を沢山使うというのがある。これは響きが不安定になる。ところがこの4・6の使い方の如何で作曲家のうまいか下手かの別れ目になるんです。そのうまさと言ったらブラームスが第一級でしょう。シューマンもよく4・6を使いますが、彼のは聴いていてときどき下手に聞こえます。ブラームスはうまい。いまおっしやったOp.117などもそれと同じことを何回もやっています。
 
S: それとよくオクターブを使いますね。
 
M: オクターブでもナマで出るよりもその中に3度とか6度とかが混ざって出てくる。だから女性とか手の小さい人は非常にハンディキャップとなっています。この場合も和音を鳴らすだけでは何の意味もないわけで、この音が強くてこの昔は弱いとかバランスの間題です。その音が鳴ったというだけではピッチがあるだけで音楽としては使いものにならない。その音に届くだけでは充分でなく余裕をもってしっかり届かせるというのがブラームスには絶対不可欠です。オクターブの中に3度とか6度が入っているとオクターブを押している指の力が取られてしまうんです。オクターブの中に音が詰まっていても中に音がないときと同じだけの音を出さなければならない。そのように弾かない限りいい響きにはならない。(第2協秦曲第1楽章、73小節のところを弾く)だからかなり大きな手で10度かそれ以上届く手を少し縮めて使う状態でないとね。
 
T: ピアノのテクニックをブラームスがそういう形でとらえようとした、というのは当時リストとかショパンとちがって独学で入って行ったことと関係があるのでしょうか。
 
M: ただね、ブラームスを教えていた先生というのは相当偉い人だったと思います。マルクスゼンといって、当時としては最高の見識を持った音楽家で、バッハやベートーベンに関する権威でもあったし、自分でも民謡の主題による100の変奏曲を作曲した人で、ブラームスに対しても非常に厳しかったそうです。いわゆる専門のピアニストには習ってないが技術の作り方でも音楽に即したやり方をしたと思います。ブラームスがクララの所に居たときはいろいろ直されたでしょうが、普通の経歴で習いに来た人と違うのである意味では我流だったでしょう。ただ我流も一流になったら一つの個性だし、独創性ということにもなる。どこまでが我流かと悪口を言ってよいか分からない。ホロヴィッツだって我流が偉くなったようなものですよ。作曲家というのは人から習うのでなく、自ら何かを出せるような個性を持っていなければ駄目です。
 
T: 付加価値をつけてゆくようでなけれぱ、ということですね。ところでベートーベンなど見ていますと、ピアノ・ソナタをシンフォニーをつくるテストのような形でトライアルしてそこでうまくいったら応用する、という風だったと思うんですが、ブラームスの場合ピアノ音楽と他のジャンルとの関連はどうなっているのでしょうか。
 
M: そうですね。ブラームスの場合いつもピアノで考えて作っていたと思います。少なくともピアノにさわらないまでもシンフォニーでも室内楽でも作る時ピアノの音があって書いたと思いますね。音の重ね方なんかにしても。
 
T: 室内楽の中でピアノの部分というのは非常に重要視されていると思いますが。
 
M: それは大変なものですね。それと、なんというか和声の感じ方というのは4声体でないということ。つねに5声とか6声とかです。だからピアノ主体にするとヴィオラが大変で、内声をダブルでこすっているものだから音程がとれないでヒイヒイ言ってますね。弦が3人なのにどうしても4声ほしい。それにピアノがつく訳ですからね。またオルガンの厚みのある響きを彼は好きだったと思います。その厚みのあるシンフォニックなスタイルで1番のピアノソナタなんか書いているので、果たしてピアノから考えたものかどうか疑問で、でも発想のもとになっているのはピアノだと思います。よくシューマンの曲にクワジ・オーボエと書いてありますが、ピアノ以外の曲にクワジ・ピアノ・フォルテと書いてあることはない。ところがバイオリンの人があると言った。バイオリン協奏曲にあると。だからピアノの上ではたやすくてもバイオリンとなると難しい。
 


 
シューマンが駄目にした指


T: ブラームスの音楽は他のロマン派の作家のようなきらびやかなパッセージでなく、いぶし銀のように音を殺して作っていますが、技術的には非常に難しいもの、パガニーニ・バリエーションやエクササイズなど書いていますね。つまり他のロマン派以上に技術の極限までつきつめる、という発想ではないでしょうか。
 
M: これは、ブラームスの人柄から考えると多少そんな気はしますね。パガニーニの場合ピアニストに対する挑戦です。弾けるものなら弾いてご覧、と言わんばかりの書き方ですね。演奏家というのは苦労して一つの曲を仕上げますが、そのとき効果のある結果を望む、とお思いでしょう。ところがあんまり簡単なものをうまく弾けても面自くないんです。ひょっとすると、本番であそこを間違えるかも知れない、という気持ちがあってハラハラしなからリスクに挑戦して、それがうまく行ったときバカ当たりみたいに感じる痛快さ、これは演奏家なら誰しも感じると思う。大変な苦労だし、自分でも出来る確信はない。100%出来るとは言えないがそのスリルを楽しむ、という所が演奏家にはあります。腕の見せどころがないと張り合いがない。だからブラームスの2番のソナタなんか誰でも弾きたがる訳です。
 
T: そういう意味では多少サディスティックなものがあるのですね。
 
M: ブラームスの人のわるい、冗談好きの性格とともに、彼は非常に頭のいい人だから人間の心理の機微をよく読んでいたと思いますよ。こう書いておけぱ、人は目の色を変えて取り組むだろうくらいのことは考えていたと思います。
 
T: ところでエクササイズをやってからパガニーニに入ればあまりむつかしいと思わずにやっていけるのですか。ブラームスを弾くときは背伸びしてでなく、相当の技術と余裕をもって当たらなければいけない、ということでしょうか。
 
M: そうですね。あのエクササイズを全部やるというのは人間の忍耐力を越えていますからね。それをやってからパガニーニを、と言ってたら10年仕事になってしまう。それと、下手な人が弾くと汚くなってしまう(笑)。騒音と変わりないことに。ですからブラームスにすれば自分の曲をあんな風にきたなく弾かれて平気だったか、だったらもう少しやさしくして妥協できなかったか、と思ったりします。学校で教えていますとね、そんな手の硬い女の子かなんかが来てスピッツがキャンキャンいうような音で和音をたたく、鼓膜に釘でも打たれるようにブラームスを間かされるようなものです。ああいう曲は熊のような手でガンと弾かなけれぱ駄目です。底鳴りがしなくてはね。
 
S: そういうことに関連して、シューマンは指を駄目にしたそうですが、あれは練習方法が悪かったということですか。
 
M: それはですね、シューマンという人は熱中しすぎることと関係がある。ピアノ曲を番くとなったら作品番号で1〜23までそればかり。それがすんだら歌ばかり。人が止めろと言っても自分の気がすむまでやる。だから、ピアニストになるという変な気を起こしたときに滅茶苦茶にさらったでしょう。皆さん薬指を駄目にしたと思っているらしいですけれどほんとは中指です。みんな薬指は弱いからそう思うけれどほんとは中指です。ある程度齢をとって指が固くなっているところへ拷問みたいなことをやって早くうまくなろうとしたのですね。でもシューマンが指を悪くしたんでわれわれには良かった。ピアノを弾いていたらあれだけの名曲が残ったかどうか疑間ですね。
 
T: 話しは変わりますけど、このごろ若い人たちが、演奏家のレベルが昔より上がってきていると、言いますけれど、幻のゴドウスキーのショパンやリストのレコードなど聴くと、今でも唖然とするような粒の揃ったすばらしい演奏をしている。昔のレベルとしても相当なものだったのではないでしょうか。
 
M: 現在技術が進歩したと皆さんおっしやいますが、そんなことはありませんよ。ラフマニノフのレコードを聴いてもお分かりのように、彼らの弾いているRG技術水準に達している人というのはわれわれの時代でもあまりいません。ただ、あれからプロコフィエフとかスクリアビンとかの曲ができて、弾く曲が非常に多くなってきたために、研究してどの曲にも合うようなテクニックは何か、ということで教育的に無駄なくそういうことができるようになってきた。その結果ある程度誰にも出来るようになり、昔独学でやった人よりはうまく弾けるようになっただけで、神様級に弾ける人と比べたら技術の面でもそれに適う人はそういないでしょう。
 
T: そうでしょうね。
 
M: たとえば、昔の人は古典でテクニックをこしらえる。先ず指のテクニックからね。ところが今の人は和音が多いから指だけのテクニックの訓練に時間をかけない。だからバリバリのピアニストでさえ指が弱い。カッチェンのレコードを聴いてもブラームスなどで親指を押さえておいて他の指で弾く所なんか何も間こえない。指の訓練がしっかりできていないからです。オクターブを速く弾いたりするのはうまいかも知れないが指一本一本の訓練という点ではかなりの遜色があると思いますよ。
 
T: 当時と今とでは教材とかメトード自体が違って、今のに合わせてスピードを速く弾けるとか。
 
M: ええありますね。指使いの改良もあります。これにはブラームスも与って力もありますし、昔は全然考えもしなっかたような指使いで弾くとかいうことも関係する。確かに進歩はしているが天才的に弾ける適性を持った人というのは昔も今もあまり変わりがないですね。
 


 
プログラムの組み方


T: 音楽は、いいものはどのレパートリーだっていい筈なんですが、日本人はどうも昔から作曲家と演奏家とを結びつけて誰々はベートーベン弾きだとか、誰のバッハとかレッテル化するのが好きで、これはまあレコード会社のせいもありますが演奏家にとって迷惑な話だと思うんです。
 
M: そうなると、自分の弾きたいものが弾けなくなってしまうでしょう。何々弾きってことにされる。吉田秀和先生の本でしたか、ある人がハンガリー出身だものだから、アメリカに行って明けても暮れてもバルトークとリストばかり弾かされたって。ハンガリーに生まれなけれぱよかったってね。(笑)
 
T: それでは日本人はどうなる、って言いたくなる。
 
M: 井口先生は言うんです。ドイツ人だからベートーベンがうまい、なんてそれはドイツ人の勝手な考えで、ドイツ人にしか分からないような音楽だったら大したものじやないよって。ベートーベンが偉いのはドイツ人だけではなく世界中の人間に分かる音楽を書いたからそうなんだ、とよく言ってました。そんなちっぽけなベートーベンでは駄目だってね。
 
T: 井口先生はフランスでイーヴ・ナットにショパンとかシューマンを沢山習っていらしたのに日本に帰ってすぐベートーベン、ベートーベンって騒がれて随分迷惑したって本に書いてますね。
 
M: いやあ、先生はご自分じゃあ何でも得意のつもりでしたし、そう思いたいってことは確かです。だから古典から現代までピアノ音楽は全部弾くってやっておられたでしょう。たとえ何か特別上手なものを持っていても、いろいろの所から栄養をとってさらによくなるんで、初めから私はこれだと決めてそれしかやらなかったらそれきりです。適性があるということは間違いないですけどね。
 
S: ところで、演奏会のブログラム・ビルディング見てますと、非常に体系的で筋が通っているし知性を感じさせるものがある反面、何でも自分がさらったものを全部やろうとする人がいる。それと、いつも不思議に思うのは大抵バッハやモーツァルトを最初に置いて大曲を後半にもってくる。年代順とか最後の曲の拍手を期待する効果ということもあると思いますが、バッハやモーツァルトこそ少しの疵でも影響が大きいのですから、指が慣れてから後のほうでやるべきだと思うんです。先日マックス・エッガーさんの演秦会に行ったら冒頭にブラームスの3番のソナタ、次に小品をいくつか、休憩後にショパンの3番のソナタというプロで、こちらも緊張感をもって聴くことができ、とてもいい演秦でした。何故こういう順序でプロを組む人が少ないのでしょう。
 
M: それは、あまり頭のよくない演奏家が沢山いるからでしょう。プログラム作りは一番面白いことで、どれとどれをどういう順序で弾こうかと何度も考えて決めるんですが、中にはどこかのメニューをそのまま写してきて、お子様ランチみたいに必ず古典から現代に至る、という順序で、大きな音のする曲、速い曲は後にしますね。ところがそうすると都合が悪い。いいモーツァルトやいいバッハはめったに聴けない。しかもああいう音の少ない曲は演奏家も気が立っていますからね、初めは固くなった状態で弾く訳で、とても恐ろしいし、もっと気持ちがほぐれた時に弾くといいんで。それと何人もの作曲家を組み込むにしても一晩に4人以上というのはどうもね。3人までがいいとこです。
  

 
ピアニストさまざま


M: ピアノに限らず人間の能力についてですが、例えぱ、ある伴奏者が急に病気になって代役を勤めなければならない、だけど自分の力では無理かも知れない。しかしそれをやったとしたらすごく格好がいい、でかしたい、とむちやくちやにおさらいをしてくる。火事場の馬鹿力みたいなもので。
 
T: 馬鹿力が出せるというのは潜在的に実力があるからでしょう。元がなけれぱね。
 
M: やはりギーゼキングみたいな人ならね。話しはちがいますが、たとえば数学の天才なんかにあるでしょう。何十桁の掛け算を一瞬にして、あるいは10秒くらいで答えを出してしまう。まるで人間技というより電流の通じ方とか昆虫の触角とかを連想させる。いまのギーゼキングのようなのは。ガウスとかアンペールの伝記を読むと凄いですね。
 
S: 先生はそういう本もお読みになるんですか。
 
M: まあ、たまにはね。いろんな逸話を読むのも楽しいですよ。ブラームスがクロイツェル・ソナタを半音動かして弾いた、というような話しはね。そう言えばブラームスが不正確なピアニストだったことは確かなようです。自分の弾けない所はゆっくり弾くし、きたない音も平気で出す。最後まで精密にやったというのは眉唾らしい。と言ってもブラームスは下手ではないですよ。下手じやないけど今言ったように精密機械のようなことを自分に課したり、そうなろうとも思っていない。彼がピアニストとして活躍した頃のプログラムは凄いですよ。自ら書いたプログラムのスケッチが残っていますけど、凄い。まあ譜面を見て弾いたでしょうけれど。今のわれわれの感覚からすれば二晩くらいの分量を一晩で弾いている。演奏に対して昔の人は私たちがレコードで聴くようには精密さを要求しているわけではない。だからそこまで神経をつかって弾いたかどうかは分かりません。
 
T: 彼が2番のコンチェルトとかパガニーニ・バリエーションを書けるということは自分でも相当弾けたということでしょう。自分で初演してるくらいですから。
 
M: いわゆる、初見が利くかどうかが間題ですね。われわれも職業ですから早く読めなくては困る。少なくとも週刊誌や新聞を読む程度には読めないとね。
 
S: サンサーンスなんか初見がすごく利いたらしいですね。ヴァーグナーのスコアを見てすぐピアノで弾いたって、同席したハンス・フォン・ビューローが感心したという。
 
M: サンサーンスはピアノがすごくうまくて細かいとこもきちんと弾いたらしい。但し、自分で3度のスケールなんか難しいものを書いて、上の方半分しか弾かない、というようなことを平気でやっていますよ。自分は本職のピアニストではないからって気楽に扱ってね。でも逆にいいこともあるんです。本職でない人がピアノを弾くとすごくうまく見える。本職の人はうまくやらなくてはいけないという意識があるでしょう。それで却って出来ない。私も桐朋で副科長を長いことやっていましたが、篠崎アヤ子なんかとてもうまかった。私が主任をしていた頃グレード制といってね、グレード10まであった。しかし篠崎アヤ子にはグレード11というものを作ろうと言っていた。グレード11になると試験の課題曲になる。ベートーベンの109とかシューマンの協奏曲とか。
 
T: ピアノ科並ですね。
 
M: ピアノ科よりうまい(笑)。ピアノのうまい人というのはピアニスティックにうまい点もあるから11なんだけどそれ以外のこともある。別の形で音楽をしっかりりつかまえているから、ピアノを弾いた時なんとなく自由にやれる。
 
T: さて、ピアノの音とかテクニックで言いますと、私も以前ギレリスを聴いたのですが、すごかったのを覚えています。シューマンの1番のソナタでしたが、左手のバスの三連音符では小指に鋼の筋でも入っているのかしら、あるいは指二本重ねて弾いているのかと。手は見えないけど腰を抜かさんばかりにたまげました。またスカルラッティのトッカータでの同連打の鋭い音とかシューマンのフィナーレの和音のかたまりに頭をガーンとやられたような気分でした。しかし音としてはそうでしたけれど、音楽としてやはり偉大だったと思ったのはバックハウスでした。その響きは今も頭に残っています。話しは戻りますが、ギレリスのとき私はサインをもらおうと終わったあと楽屋へ行ってサインする手を見ましたらそれほど小指は太くない。これはやはり腕の重みとか、全体的・になにか素晴らしいものがあるのかなと思いました。
 
M: 結局そういうことです。弛緩が完全で、全部の重みがストンと一瞬にでるという……。
 
T: ホロヴィッツなんかもそうですね。
 
M: ギレリスの手はピアニストの手としては非常にいいんです。特にブラームスやベートーベンを弾くのに一番いい格好していますね。手の甲が大きいんです。私はね、はっきり言いますど、実際に音を出してみないで力をどうかけるかなどと考えない。あくまで何処にどう力をかけるかは出てきた音が決めることであってその音に関係なしに何かやるというのは好かない。いくら馬鹿力があり握り潰すくらい強くてもそれがピアノを弾くとき役に立つか否か分からない。
 
T: それから演奏家の自主性というか信念というかそこら辺のことですが、かなり有名なピアニストでしたか、外国の誰かが弾いたのを聴いたことがないという理由でその曲を弾かない人がいる。また、演奏の解釈についても、どこの有名な先生がこう弾いた、とか殆どのレコードで聴くとこう演奏している、というように自らの信条を持たない人がいます。自分の信念でチャレンジする人が少ない。
 
M: そうですね、それどころか、レコードを吹き込む人があるレコードの猿真似をやるんです。何故それが分かるかというと、そんな馬鹿な譜面の読み間違いか勘違いを何人もの人がやるかしらと思うからですよ。ホロヴィッツでも時に勘違いをやることがある。するとその勘遵いをそっくり鵜呑みにして別の人がレコードでその嘘っぱちを弾く。あえて嘘っぱちというのは、そこでそんな音が鳴るというのは音楽の理論からしておかしい。そんなことは有り得ないからです。人間だから勘違いはある。ただそれを猿真似してほかのレコードでやる。ブラームスの1番のラプソディーで生徒がよく見間違いをする所がある。でも、大家がうっかりして弾いたからといってそれでいいと思わないで、自分で楽譜をよく読むことが大切です。
 
T: 曲を最初にトライした人は自分のイデェがあってやっていたと思う。それがグレン・グールドみたいに極端にひねって考える人はまあいいとして、それをまた第2、第3の人が真似して行ったらどうなるでしょう。
 
M: だからその曲をほんとうに弾きたいのでなければ弾かなければいい。自分が好きでこの曲はこう弾いてみたいという気持ちが起こるまで弾かなければいい。
 
T: いま、たまたまグレン・グールドの名前が出たので言いますと、「皇帝」の第一楽章とか後期のソナタをああいうテンポで弾くというのは、もしほかの人だったらものすごく勇気が要ることで、普通の日本人にはできないと思う。周りがみんなこういうテンポで弾いているのに自分だけ違う、というのは。
 
M: まあそこまで行くと羞恥心の問題でしょう。それはエキセントリックと言うよりいい加減ということ。世間では、彼は徹底的な嗜好と独自の特異なセンスによってああいうことをやるのだと思われている。しかしそれは譜面をよく読んでいない、ということにもなる。ヒンデミットの曲なんかも同じです。でなければヒンデミットのソナタは余程下らない音楽だと思うから自分では無視して変えてやれ、という意固地なところがある。グールドが弾くバッハのイギリス組曲など全部聴いてみると、彼が熱中している割には無駄が多すぎる。あまり熱中していなくて指先だけで弾いているようなのは馬鹿らしい。奇異なものだけが目につく。反対に彼が熱中して非常に輿味をもってやっているところはすぐ分かりますね。そういうときは如何にグロテスクなことをやってもなんとなく説得力がある。そこであまりはっきりは言えないのですけれど、大体演奏家はどっちかと言うと保守的のように思います。作曲家とか画家とかと違って演奏家や俳優というのはひとの作ったものをやるのである意味では保守的です。自分でなにか作り出すエネルギーで言えば作曲家なんかに及ばない。グールドみたいな人がああいうことをやるのならむしろ自分で創作するほうがいい。あれだけ才能があるのだったらむしろ自分で才能をそっちに発揮したらいい。
 
T: それからピアニストで演奏中にいろいろ癖のある人がありますね。アシュケナージなんかも。
 
M: そういえばありますね。カッチェンなどもむかしナマで聴きましたけれど彼はひどい。ウィンクするんです。そんなにしなくてもピアノは弾けるでしょうとね。しかし彼のテクニックはすごい。遠いオクターブなんか見事。ところが、こまかい個所になると音が聞こえない。浮いてしまって……。それでつまらなくなった。どう考えてもカッチェンは一流ではないですね。歌っているとか音楽的だという人もいるけれど、心から出てきた歌というより表面的な手段によって唱って聞かせるだけで、心そのものが唱っているようには思えない。
 

(終)

 以上は補遺としてまとめたので半端な終わり方となったが、対談の締めくくりとしては本文(会誌第10号81ぺ一ジ)の末尾の文をお読みいただくことが望ましい。会誌の本文と上記の記録とを適当につなげて理解していただき、全体として興味深い内容を味わっていただけれぱ幸いである。(S)