日本ブラームス協会による対談(1)

日本ブラームス協会発行の会誌「赤いはりねずみ」(1980、第10号)より、
森安芳樹先生の対談の部分を抜き出してこちらに掲載させていただきました。

  当り前のことを徹底的にやる   自分の音をよく聴く為にも体を動かさない  音楽性と技術

  ブラームスの音の響き    4・6の和音の使い方はブラームスが第1級

 シューマンが駄目にした指は実は中指であった    楽譜の版について     ブラームスの速度指示

 ブラームスとの出会い       ピアノ教育のあるべき姿        井口基成先生のこと

 留学の効果       プログラムの組み方        暗譜について            バックハウスの想い出

 

 
インタビュー:森安芳樹先生に聞く


(聞き手)赤岩幸一、岡田博美、坂本政明、武井俊子、溜島信行
(とき)昭和55年6月22日(日)
(ところ)森安先生宅

初夏のたそがれ、岡田君の案内で久我山の先生のお宅に伺う。当日の午前中に岡田君と東響(指揮・秋山和慶)によるチャイコフスキーの協奏曲第1番のオケ合せが東響の練習所で行われたが、これは同君の今回のコンクール優勝を祝して出身地富山市主催により同市で行われる予定の演奏会に備えてのリハーサルであった。
 

森安先生について。
嘗ては演奏家としても活躍しておられたが、近年は教育に専念され、既にその門下から「小森谷泉」(昭和50年)、また「岡田博美」(昭和54年)と二人もコンクール優勝者を輩出し、その教授法は高く評価されている。
現在、桐朋学園大学音楽学部・助教授。

 この第10号に載せられなかった部分の補筆(第28号)はこちら


 
溜島: 今日のオケ合せ是非聴きたかったのですが楽団側から企業秘密とかで断られてしまって富山まで行くことも出来ないので、とっても残念に思っていたところなんてす。
 
森安: いやオケがちっともさらっていないから聴かれては困るんですよ。速い所で四苦八苦していましたよ。もしよろしかったら今日のオケ合せで手直ししたいところがありますので、ここでレッスンしますけれど。
 
一同: うわあ!それは素晴らしい。ぜひお願いします。
 
先生がオケパートをお弾きになり、至近距離でのそれはそれは追力のある名演でした。特に第2楽章のトリオのオクターブの歯切れの良さ、第3楽章のオケとのかけ合いの粒の揃ったパッサージ、それに唖然とする様な速さのコーダのオクターブ等々で読者の皆様には申し訳ありません。
 

 
当り前のことを徹底的にやる


溜島: 門下生から2人もコンクールの優勝者を出された先生の教育方針というか、どの様な点に力を入れて教えていらっしやるか、その辺りから伺いたいのですが。
 
森安: やっぱり才能のある子供が来ないことには。それと長い期間一緒に過さなければなりませんので、気心がよく合うということでしょう。特別変ったことは何もしていませんけれどね、ただ当り前のことは非常に沢山やります
 
溜島: 例えば?
 
森安: ごく当り前のことですよ。譜面を忠実に弾くとか、ごまかさないとか、そういったことを徹底的にやるだけてす。多少結果がよかったとすれぱ徹底させてやったからかもしれない。例えばパガニーニバリエーションなんか、私は学校に勤め出してから長いのですが、或る時期朝5時半に学校に行っていたんですよ。1週間に30人位生徒をみますからね。1日に10人近くやるわけですね。自分が全然指を動かせませんでしょ。だから朝5時半位からやってきてウォーミングアップにパガニーニバリエ一ションをやるんです。それとショパンのエチュードを半ダース位と。そうすると大体1時間半位で出来る。それを7年間位ずうっと週に3回位づつやったことがあります。パガニーニが弾ければ他のものは大概苦労はないから。やっぱり7年も同じことをやっていますと多少コツの様なものが分って来まして教える時に皆が必ず出来ない所、歯の立たをい所がどこかがすぐ分る訳ですね。具体的にそういう所が言えるから、そういう意味では彼(岡田君)は得をした訳ですね。
 
武井: 第1バリエーションの所の3度とか6度はどうやってマスターすることができるのですか。
 
森安: これも全く当り前のことなんですが、6度の場合は手の小さい人には無理かもしれませんが、とにかくゆっくりと回数弾くしかないですね。ゴドウスキーは3度を自分の思う通りに弾ける様になるまでに17年かけたと云われてますから、左手でも右手でも3度のエチュードは長い期間かけてやっていると出来ることもありますが、でもある程度才能がなければダメですが。
2番のコンチュルトに出てくる3度のスケールなんか弾ける時は弾けるかもしれないが、いつも絶えず弾ける状態にしておくのは大変なことですね。だからこれはやっぱり積み重ねの問題で特に変ったことをするのではなくて、その積み重ねが出来るか出来ないかです。とにかくピアノの様に技術が非常に大きなパーセンテージを占める楽器の場合は毎日毎日のトレーニングを欠かさないでやることが大切です。ただ根気がない人間が多いですから。(笑)でもブラームスの様にシンフォニーを20年もいじくり回した根気のある人がお手本なんだから。(笑)それ考えればね。
 


 
自分の音をよく聴く為にも体を動かさない


溜島: 本選で岡囲君の演奏を聴きながら感じたのですが、あれだけエキサイトしたコンクールの異常な雰囲気の中で、この様にコントロールされた完壁な演奏が出来るのは人並以上にズバ抜けて自分の演奏を集中して聴くことの出来る耳を持っているからだと思ったのですが、自分の音を聴くというのは難しいことなんでしようね。
 
森安: そうですね。難しいことをやらされているのだけれど、これを楽にやらなければならない訳でしょ。結局楽に出来れば出来る程自分を客観的に見ることが出来るのだから自分の演奏を出来るだけ他人の演奏の様に聴く、その為には姿勢がよくなければならない。体をやたらに動かすとそれだけ無駄な動きが多くなる。第一、耳をじっと傾けるということは耳の位置を動かさずに体をじっとしているということなんですから。音源に体を揺らして近づけたり遠ざかったりしていたらとてもじゃないけれど自分の出している音のバランスなど聴きとれるものでない。それも毛筋ほどのバランスですからね。だってこうやってかがみ込んだら、上から鳴る音がみんな頭の、つまり耳の上を通り越すんですからね。ある時は伸び上ったりまたある時はもぐり込んで、……そんなことをしていたら、いつでも冷静な判断は出来ないでしょう。ですから偉いと云われる人は皆しゃんとして弾く。構えからして全然違います。もう姿勢を見たらその人がどの位弾けるが分りますね。特にパガニーニの様な場合は上がることが絶対許されないのでオリンピックの射撃みたいをものでしょ。だとすると自分のやっている動作を鳥が高い所から見る様に最大限にじっとしていることが大事ですね。出来る限り必要な動作に全部注ぎ込んで無駄な動作を一切排除することが出来ればそれが一番いい姿勢ということです。偉大なスポーツマン見ても必ず無駄がない。ですから生徒には無駄な動作をしない様にやかましく言う訳です。技術とはそういうものです。
 


 
音楽性と技術


武井: 曲を手掛ける時は最初頭の中に自分の音楽を造っておいてそれをまとめ上げてゆくのでしょうね。
 
森安: そうなんです。つまり「楽譜をみた時にこの曲はこういう風に弾きたいというものがハッキリしていればいる程、楽である。」とネイガウスが云っているでしょ。目的がハッキリしていればいる程手段がハッキリしてくる。実はあの本を園部さんに頼んで訳してもらったのは私なんですよ。
 
武井: ああ、そうですか。私とっても感激したんです。
 
森安: 皆暗中模索して試行錯誤しながら、なかなか目的地に到達しないという勉強を生徒たちがしますから目的意識をハッキリさせることが大切です。結局音楽を離れた技術は無意味なんです。但し裏を云えば技術なくして音楽があるということはあり得ないと思っています。だから音楽性はあるんだけれど技術の面で弱点をもっている子供にはランドフスカが云ったそうですけど「あなた、ハープシコードを心で弾くのではありませんよ。指で弾くんです。」逆に技術をもっている生徒にはその反対のことを云いますけれどね。一つの紙の表と裏の様なもので、それぞれ別々に存在しているものではありませんからね。
 
溜島: 評論家の中によく、「あの人は技術的には完壁だが、音楽的にはどうも、…」と簡単に割切る人がいて私はそういう云い方にとても抵抗を感じるのです。
 
森安: だから、そういうのを語る時には偉い人の話を聴くとよく分るのです。例えば「ベートーヴェンのOp.111を弾く時トリルの能力が非常に劣る人だったら音楽的にも、ちゃんと弾けない筈だ。」とゼルキンが云っています。ネイガウスの本にも、「私がいつも弾き間違いばかりしてブラームスのパガニーニの3度や6度みたいな難物を自分がごまかしてばかりいるのなら、私から何の音楽性も発生しない。」と書かれています。だから内容と技術は離れているものではないですね。
 


 
ブラームスの音の響き


武井: 話は変りますがブラームスのピアノ作品は他の作曲家と較ぺてハーモニーとか、いろいろな点で難しいと思うのですが……。
 
森安: そうですね。どこから手をつけたらいいでしょうね。ブラームスのピアノ曲はいい響きがしないと云う人もいるそうですね。
 
赤岩: 響きがしないじゃなくて、響かせるのが難しいということではないですか。技術的なこともあるでしょうが、音が濁り易いということだと思いますが。
 
森安: そうではないんですね。これはブラームスの和音の置き方の癖ですね。下手な人が弾くと非常に濁ってしまい、固い響きになってしまいます。つまりこれがまたしても音楽性と技術のどちらとも分らない境目における微妙な違いなんですね。和声学をやられた方はお分りになると思いますが、密集の位置と開離におく場合がありますでしょ。開離に置くと倍音列の並び方から云ってどの音もペダルを踏んだ場合共鳴し易い。(ピアノで例示)従ってそういう風に音が並べてあれば非常にうるおいがあって艶のあるよく鳴るピアノ曲が出来るのです。例えばシューマンのファンタジーの第2楽章の冒頭の部分など(ピアノで例示)非常に響きがいい。しかしブラームスの場合全部つまっていることが多いから鳴りにくい。ベートーヴェンの皇帝もそうですネ。(ピアノで)
その時ある音をどの位の力で押すかというバランスの感覚が鋭くなっていれば、そこで非常に加減しますから、重く聞えない様に或は濁らない様に、例えば8つの和音をいっぺんに押しても小指の音を100にするならこの音は50で、この音は20と云った具合にバランスを考えて弾く訳です。
 
溜島: そういう点からすればブラームスのピアノ曲はピアニスティックではなくてシンフォニックだとよく云われてますが、逆にそれだからこそあの様な影のあるブラームス特有の響きを造っていると思うのですが。
 
森安: これは面白い話になって来たのでゆっくりお話したいのですけれど、ブラームスは密集で和音を置くことが多いのです。こういう風に(ピアノでピアノ5重奏曲の第3楽章を例示)。だけどまさにそうだから、あの厚みのある太い音が出来るのです。それとこちら側に密集を置いてバスを離すという常套手段があります。(ソナタ3番第1楽章の最後から9小節目をピアノで)、こうしますと鍵盤の端と端ですから共鳴するという効率から云って音の重ね方が非常に悪いです。悪いという意味はピアノにとって効率が悪いということで、効率が悪いから悪い曲かと云うと、それはピアノにとって都合が悪いだけであって音楽にとって都合が悪いかは別問題ですね。だからさっきのシューマンの様な音のバラマキ方をすると凡ての人がいいと思う様な曲が書ける訳です。「乙女の祈り」だって響きそのものとしてはいい音がしますよ。でもそれほそういう音のバラマキ方のコツを知っていてそうやっただけでどうということはない。そういう意味ではブラームスと同じ位ベートーヴェンでも苦労するのですが、彼等は楽器の為に都合がいいかどうかはあまり考えない。自分がいいと思う音を並べていくわけですから楽器でやりいいか悪いかは後回しになってしまって書きたいことを書く。でもおかしなもので、やりにくいことが書かれていて我々はそれをどうにか苦しんで何とか弾ける様に技術的解決手段を見つけるとしますでしょ。そうすると必ずテクニックが飛躍的に伸びるのです。つまり作曲家が書いたことがピアノの技術の進歩に貢献していく訳ですね。ブラームスにも大いにそれは云えます。これはあんまり知られていませんが、彼はピアノ音楽史上で指遣いを改革する上で非常に重要なカギを握っています。だからこの人の指遺いというのは今迄のテクニックではちよっとマスター出来をいのです。ある意味で彼は非常に合理的をところがあって、ペダルという手段があるのだから手でつなぐ必要はないというのです。参謀のタウジッヒが編集したクレメンティの練習曲を見れば分りますが黒鍵の上に親指をもっていくエチュードがあります。それはリストに習ったのかも知れないけど、弾きにくいところに親指を乗っけることにより鍵盤は今迄の倍に使えます。それとブラームスは左手を徹底的に訓練したという感じですね。自分の音楽でバスがモノを云うケースが非常に多いので左手がしっかりしていてくれないと困るのです。やっぱりこれも音楽が引っぱって行ったケースで偉い作曲家というのはその時代では出来ない様なことを書きますが、演奏家の人は何十年か後にそれを研究してなんとか弾ける様な方法を見つける訳ですね。
   

 
4・6の和音の使い方はブラームスが第1級


坂本: 一寸戻りますけれど私はカッチェンなどで目を開かれたのですが、ブラームスのピアノ曲の和音というのはベートーヴェンとかシューマンにない独特の美しい響きがありますね。Op.117など特にそう思うのですが。
 
森安: ございますね。それと和音の重ね方で気がついたのですが、3音重複ということをやるのですね。これを沢山重ねますと非常に厚ぼったい響きになりまして嫌いな人はこれを非常に嫌う訳です。和声学では3音重複は特殊な場合の例外として古典では使うのですよね。ブラームスの場合はこれが頻繁に出ます。(第1交響曲3楽章のトリオの部分をピアノで)これはよくないとクララ・シューマンが云ってたらしいですけれど。音が鳴りにくい原因に3音重複もそうだけれど46の和音を沢山使うというのがありますね。これは響きが非常に不安定になります。ところがこの46の使い方で作曲家がうまいか下手かの分れ目になるんです。46の使い方のうまさと云ったらブラームスが第1級でしょうね。シューマンがよく46を使いますが、彼のは時々聴いていて下手に聞えます。ブラームスの場合非常にうまいですね。今ちおっしゃったOp.117の最初などもそれと同じことを何回もやっています。
 
坂本: それとよくオククーブを使いますね。
 
森安: オククーブでもナマで出るよりもその中に3度とか6度とかがまざって出てくる。だから女性とか手の小さい人は非常にハンディキャップとなっています。この場合も和音を鳴らせただけでは何の意味もない訳で、この音が強くてこの音は弱いとか自分の欲するバランスが問題で、その音が鳴ったというだけではピッチがあるだけで音楽には使いものにならない。その音に色を与えたりバランスを考えたりそういう問題になってくると、その音にとどくだけでは充分でなく、余裕をもって充分にとどかせるということがブラームスには絶対不可欠ですから。オククーブの中に3度とか6度が入っているとオククーブを押している指の力がとられてしまうんです。オククーブの中に音がつまっていても中に音がない時と同じだけの音を出さなければならない。そう弾かない限りいい響きにはならない。(第2協奏曲第1楽章73小節目をピアノで)だからかなり大きな手で10度かそれ以上届く手を縮めて使う状態でないとネ。
 
坂本: ブラームスのピアノのエチュードというのがありますね。
 
森安: エチュードと云っていいかエクササイズと云うか。この子(岡田君)なんて全部やりましたよ。これを全部やるなんていうのは甚だ珍しいですけれど。私の生徒でもう1人全部やった人がいます。ああいう指の拷問みたいなことをある時期に自分のテクニックの足りない部分或は自分のウィークポイントを解決する為のドリルの様なものです。それは大変に力がつきますけれど劇薬ですから使い道を間違えると腱鞘炎とかを起す。あれこそ親指を黒鍵にのせる練習とか跳躍音程とかオククーブとかの練習になりますね。
 
坂本: ブラームスが自分に課したものなんでしょうかね。
 
森安: そうですね。自分が演奏する時にテクニックの衰えを防ぐトレーニングとしてもあったと思いますね。ただあれをまとめて出版したのは晩年でしょ。その中に入れなかったものもあるし、やっぱり自分が使うつもりでいろいろなものを書いているうちに溜ってきちゃって1つには自分の曲をうまく弾いてほしいからその手がかりとして出したんでしょうね。
 

 
シューマンが駄目にした指は実は中指であった


坂本: シューマンは指を駄目にしたそうですが、それは練習方法が悪かったということですか。
 
森安: それはシューマンという人は熟中しすぎるのですね。ピアノ曲を書くとなったら作品番号1〜23までずっと書く。それがすんだら歌ばかり書くという様に1つのことがすんだらまた1つのこと、人がやめろと云っても自分が気がすむまでやめない。だからピアニストになるという変な気を起した時に波茶苦茶にさらったでしょ。みんな薬指をダメにしたと思っているらしいですが、ほんとは中指です。イエルク・デームスの本にそのことを書いてあったのに訳者が薬指に違いないと思って直してそう書いたらしいのです。みんな薬指は弱いからそれをダメにしたのではないかと思うらしいのですが違います。シューマンの「トッカータ」というのはデームスの云うところによると、中指を使わなくとも当分弾ける様に書いてあるというのですね。でもそこのところを読むと、薬指と訳してあるから、おかしなことを云う人だと思って他の本を調べてみたらやっぱり中指だったのです。ある程度齢がいって固くなっているところへ無理にやって、それこそブラームスのUBUNGENなんかもそうですけど、拷問みたいなことを無理にやって早くうまくなろうとしてそうなってしまったんですね。でもシューマンは指を悪くしたんで、我々にはよかった。ピアノを弾いていたらあれだけの名曲が残ったかどうか疑問ですね。
 

 
楽譜の版について


溜島: ブラームスが書き込んだ指遺いで現在我々が見ることのできるエディションにはどんなものがあるのでしょうか。
 
森安: ヘンレ版なんかではブラームスが書いた指遺いはイタリックで書かれてます。実際指遺いを書き込んだ例は多くはないんです。ただ音の並ぴ方から判断してここはこの様な指遺いで弾けということなんだと分る訳です。
 
溜島: 音大生などがよく外国版を使っていますが、日本版でもいい版が出て来たし、それに手の大きさなども違うと思うのですが、どういう風に選んだらよいのでしょうか。
 
森安: うちにも平均律が18種類以上ありますけれど、その中で選択するのはその場の曲のあり方によっても違うし生徒によっても違うし、あるいは試験で弾くのか演奏会で弾くのかによっても違う。入学試験などでいくらそれが正しいと分っていても試験官全員がその事実を知ってなければ誤解される恐れがあるからそういうことは出来ないという場合もある。演奏会なら自分の好きなことができる。新しい研究でこういうことが分ってこういう風に弾かせたいと思ってもすぐにはできないですね。エディションの問題はその人の血液型から性格とか体の型、手の形とかにまで関係してきますね。だから私が今一番好きなのは何も書き込んでいない本です。
 
溜島: ああそうですか。でもウアテキストというのは素人にとってはフレージングのみならず曲によっては強弱や速度も書いてないので分らないのですが。
 
森安: ですから私の生徒には或る指遣いが書き込んである本とウアテキストと2冊持たしています。
 

 
ブラームスの速度指示


溜島: ブラームスはバッハなどと較べると我々の年代に近いから、解釈もそれほど分れることなくオリジナルに近いものを見ることができると思うのですが。
 
森安: ブラームスは念入りに誤解のない様に譜面を書いていますから、解釈が分れるということが非常に少い人なんです。ところが馬鹿な人が沢山いて、とんでもなく速く弾いてみたり、遅く弾いてみたりしている。ブラームスが考えていたよりよっぽど馬鹿な人間が多かったということですね。(笑)ブラームスは世の中の人間はもっと利口だと思っていたので、例えば速度の指示は要らないと云った。アレグロなどと書かなくても音の並ぴ方を見れぱ分る。それが分らない様なら弾かなければ良い。それとメトロノームの指示は一切していませんね。歌ってみれぱ分るのですが、彼の場合無茶苦茶に速いものや遅いのは例外で、速さはいつも中庸に近いものです。ああそうそう、面白い例があります。シューマンのクライスレリアーナは8曲あるのですが、ブラームスと較べると非常に面自い。「極度」にとか「非常」にという言葉が好きなんです。〔注……AUSSERST(極度に)或はSEHR(非常に)という言葉を使った曲が8曲のうち7曲もある。〕シューマンは「非常に」と書かない方が非常に稀なんです。(笑)ところがブラームスが「非常に」という速度指示を書くことはまずないと云ってよいでしょう。あるとすればマ・ノン・トロッポと書く位です。いつでも速すぎても遅すぎても嫌やでアレグロと云ってもそのまま書かないでマ・ポコとかそれを制約する様な言葉を足すんですね。2人は性格が正反対であったと思いますよ。ブラームスの作品76にしてもウンポコ(1番)とか、アレグレットの後にノントロッポ(2番)と書いてあるのは念が入ってますね。アレグロ・ノン・トロッポというのはよくあるけれど。この様に非常に用心深いですね。
 
溜島: ブラームスの曲でプレストとかプレスティッシモという速度指示を想い浮ペようとしても余りないですね。
 
森安: 非常に少ない。プレスト・マ・ノン・トロッポというのはパガニーニの終曲にありますが例外です。シューマンは外に向って出よう出ようとする。ブラームスはその反対を行っている人ですから、楽譜を見ていてもそう思いますね。
 

 
ブラームスとの出会い


赤岩: ブラームスを若い人達に教える時のことですが、我々聴く方の立場からすると30才位になってやっとブラームスの良さが分るという具合ですが、岡田君の様な若い人達に教える時にブラームスの歌い方とかはどういう風に教えるのでしようか。
 
森安: ブラームスの場合は私自身好きで、気に入っていて教えるわけですから、それが移っちゃうのでしょうね。教える立場としてはどの作曲家が好きだということを吹聴するわけにはいきませんが、何か熱の入れ方が違うらしくて。(笑)私も実はブラームスは突如分る様になったのです。
 
赤岩: 何才位の時に?
 
森安: 私は小さい頃ヴァイオリンとヴィオラを弾いていたのです。小学校6年の時に、おやじの持っていたヴァイオリン・コンチェルトのレコードを聴いたら分らないんですよね。節を覚えてやろうと思うとはぐらかされる様で音が逃げていくんですね。私はその頃しょっ中レコードを聴きながら聴音していたのですが、これはお手上げだと思った。ところが後になって3番のシンフォニー、2番のシンフォニーををなんかのきっかけで中学生位の時聴いて、ああこれはブラームスの曲だなとすぐ分りましたね。聴いていても分らないけどおやじが良いと云うものだからどこかに良いところがあるのだろうと探る様な気持で聴いていたら、1度目と2度目の分り方はまるっきり違うのです。3度目は完全に分って、ああこれは誤解していたなと思いました。
 
赤岩: お父さんの影響が大きいわけですね。
 
森安: まあ、音楽やっていましたからね。父は棒振りにしようと思っていたそうです。それでヴァイオリンやヴィオラをやらせたのです。私はどうしても和音が好きな人間らしくて和音が一緒に押せないのは致命的だということでピアノをやると云い出した。やっぱりブラームスを好きになる可能性があったということでしようね。(笑)
 
溜島: そういうピアノ以外の楽器から音楽に入られたということが、ご自身で演奏される時も或はお弟子さんを教えられる時も、ピアノは打楽器ではないけれど、いわゆるたたく楽器に属するてしょう。それを歌う楽器に変えてゆく発想ですね。これピアノから入った人が最も苦労なさる部分だと思うのですが、今お話伺っていて、ふっと想い出したんですが、この間例会で岡田君が弦楽6重奏のテーマの変奏曲を弾いてくれましたが、あのテーマの処をピアノであれだけたっぷりと響かせて歌えるということは弦の理解の上に立った先生のご指導が陰ながら大きかったことと思いますが。
 
森安: いや……そんなことは……だけどあれは苦労しましたね。確かに。あれはアレンジものですからね、ピアノの為に初めから書かれてないから、とても無理がありましてね。いい響きを造るのは相当難しい。いやもう少し簡単に出来るつもりで始めてみたら大変だったんです。
 

 
ピアノ教育のあるべき姿


溜島: 日本のピアノ教育のことを少し伺いたいんですが、最近の音大は1つの学校のピアノ科だけで毎年何百人も卒業するところもあるそうですが、本来音楽というのは塾でやる様な1対1とは云わないまでも口移しで教えるという性質のものだと思うんです。つまり相手の生徒を見ながら処方箋を書いてゆくというのが手造りで本当によいお弟子さんを作っていくことになると思うのですが、このまま進むと一体どういうことになってしまうんだろうと恐ろしくなる。
 
森安: そう。だからね、これは本当云えば或程度まで行けば専門家になれる人なのか或はなれないけれど何かピアノに関係した仕事をしてゆく程度でいいのか、そこんとこハッキリ判るわけですからね。それをハッキリさせる制度があると助かる。ところがやはり学校は学校の体裁を整えてとにかく平等に扱って、もっと勉強すれば、ひょっとしてピアニストになれるかもしれない様な希望を持たせながらずるずると高校から大学へと進ませるでしょう。これ一種の詐欺ですよ。(笑)なれないってことがうすうす分っているんですからね。それからうちは私学ですけど、私学で或る水準の成績をあげなければ絶対卒業させない様にしてしまえばいいんです。外国の学校みたいにね。ちゃんと演奏家になれない人はもう卒業できない様に学校を改革すればいい。ところが日本の現状ではできませんね。学校へ来た以上は免状を貰わなければ格好が悪い。我々としても自分の生徒になってしまえば出来るだけのことをして卒業までつき合うわけです。そういう能力の足りない人たちでも何とか恥しくない程度までもってゆくという努力がとても大変で、若しこれが演奏家になるべく才能のある子に全部注ぎ込んだらどんなにいいかと思うんてすけどそれは出来ない。そういう意味で言葉は悪いですが屑を出さないために教師の負担が非常に大きくなる。でも日本が貧しいから仕様がないんです。
 
溜島: さる音楽雑誌の統計によりますと、ピアノを習いかけた子供の半分が中学迄にやめていて、そのやめた子供の半分がレッスンがつまらないからという理由によるものだそうです。(あとの半分は受験とかで……)。音大がマスプロ化されてわっと入ってくるけどコンサートやったりコンクールに入賞できるって人はほんのひと握りで、大半の人達が家庭で近所の子供たちを教えるとかそういうことになる。結局学校でやった教科の内容がコンサートピアニストを夢みてハノンだとか何だとか勉強するのが主で、ピアノ教授法という様な児童心理学をも含めた小さい子供達を教える為のカリキュラムが余り考えられてない様に思うのですが。
 
森安: そう、それも徐々に少しずつやってみているんてす。ところがやっぱり(生徒が)自分はダメだからそっちに転向しようって気持にはなかなかなってくれない。(笑)やはりいつまでも考えが甘くてずるずると卒業するところまで行ってしまう。
 
溜島: でもそういうコースに進むということが敗北コースだという意味にとること自体、日本の現状に於ける認識がおかしいと思うのですが。
 
森安: おかしいんですけどね、大体入ってくる時点では或程度(コンサートピアニストに)成れるかも知れないと思ってるのが段々と夢が崩されて自分で分ってくるわけです。ですから適当な時期に方向転換して行ける方法がうまく見つかると一番いいんです。
 

 
井口基成先生のこと


溜島: 基成先生は演奏家としても教育者としても偉大で、日本に於けるピアノ界の歴史は先生なくして語れないと思うのですが、外面に現れない人間的な面についての想い出とか……。
 
森安: まあ、あんまりあり過ぎて……。非常に誤解され易い方だったですね。とっても好い方なのに口が悪くて、わざと意地の悪いことを云う。一寸ブラームスに似ている。(笑)結局一種のハニカミの擬態というかポーズですね。てれくさいのでわざと怒ったりして、とっても暴君みたいに思われているんです。私はそうは思わなかったですがね。
 
溜島: 家致学院で子供の為の音楽教室を始められてから今日の桐朋を築き上げるまでの、いい意味での政治力、それに演奏活動のほかに楽譜の校訂、更に教育面でも一時はコンクールの本選に残っている人は全部基成先生のお弟子さんだったり楽壇に大きな貢献をなさいましたね。
 
森安: 仕事の量から云っても質の面でもあれだけの仕事をすればね。それでなくても大概のことは自分でやろうと思っておやりになった。ブラームスの1番・2番のコンチェルトを日本人で初演なさったのも先生です。(注:昭和11年11月26日新響ローゼンシュトックと2番初演一28才一。昭和15年11月20日新響ローゼンシュトックと1番初演一32才一)
 
溜島: そうですね。私も先生の1番も2番も聴きましたけれど、私が聴いた頃は本当に陣頭指揮という感じでピアノ界を索引していらしたですからねえ。
 

 
留学の効果


溜島: 最近は日本のピアノ界のレベルも相当なとこまで来たと思うんですが、日本の音大出てどこかに留学する人が相変らず多い様です。こうなったらもうその必要もないのではをいかと思うのですが。
 
森安: 私なんかも、また井口愛子先生なんかもそうおっしやいますね。でもやっぱり片仮名の生先に習ってこないと箔がつかない。世の中が受付けてくれないとか。(笑)
 
溜島: ということは聴衆がまだ本物とニセモノの区別を自分だけの判断で見分けられないのでしようかね。
 
森安: そうなんですよ。聴衆とか批評家がおかしい。(笑)留学してきたというだけで学校ではそうたいした成績でもなかったのが1番で卒業した生徒より批評家にいい点もらったりね。批評家ってのはそういう処がある。ドイツに行ったってドイツ人が皆ブラームスを分る訳でもないし、ウィーンだってウィーンの人みんな偉いかって云うと泥棒もいれば音痴もいる。ウィーンに行ったらみんなブラームスみたいな気持になって帰ってくる。(笑)関孫ないですよ。第1ウィーンなんて今ダメですね。いわれなき誇りをもっているだけで、昔偉い人が住んでたというだけのこと。ブレンデルみたいに頭の良い人はあんな所見捨てたでしょう。
 
溜島: それに音楽の場合どこの都市或はどこの学校へ行くということではなくて、重要なのはどの先生につくかということだと思いますが。
 
森安: そう、それが一番大切。
 
溜島: そういう意味では最近は外国でも、いい先生が亡くなられたりして教が減って来ていますものね。
 
森安: 今ほんとうに世界的に例えばオボーリンとか、ああいう名教師が払底しています。
 
溜島: また仮に有名ないい先生のクラスにはいれたとしても、先生は演奏旅行とかレコーディングで忙しいのでアシスタントのまたアシスタントに見てもらったりして結局何しに行ったんだか分らない。
 

 
プログラムの組み方


溜島: 演奏会のプロクラム・ビルディング見てますと非常に体系的で筋が通っていて知性を感じさせるものがある反面、寿司・天ぷら・ビフテキ・うなぎというようにさらったもの全部やろうとするのがある。それにいつも不思議に思うのは大抵バッハやモーツァルトを最初に置いて大曲を後半にもってくる。年代順とか最後の曲の拍手の期待効果ということもあると思いますが、指がウォームアップしてから大曲をやるのでなく逆にバッハやモーツアルトこそ少しのキズでも影響が大きいのだから指がなれてから後の方でやるべきだと思うんです。このあいだマックス・エッガーさんの演奏会へ行ったら冒頭にブラームスの3番のソナタで次にショパン、メンデルスゾーン、リストの小品そして休憩後にショパンの3番のソナタというプロでこちらも緊張感をもって聴くことができ、とてもいい演奏でした。こういう順序の方が筋肉の生理学上合理的だと思うのですが、何故こういう順序てプロを組む人が少いのでしょうね。
 
森安: それは余り頭のよくない演奏家が沢山いるからでしょう。プログラム作りは一番面白いことなんで、どれとどれ弾いてどういう順序にしようかと何度も考えて決めるんですカが、ほんとにどこかのメニューをそのまま写してきてちお子様ランチみたいに必ず古典から現代に至るという順序で大きな音のする曲、速い曲はあとにしますね。ところがそうすると、いつも都合が悪いんです。いいモーツァルトや、いいバッハは滅多に聴けない。しかもああいう音の少ない曲は演奏家も神経が立っていますからね、初めは固くなった状態で弾く訳で、とても恐ろしいし、もっと気持がほぐれた時に弾くといいんです。それと何人もの作曲家を組み込むにしても、ひと晩に4人以上というのはどうもね。 3人までがいいとこです。
 

 
暗譜について


溜島: コンサートを始終やっている方は5線紙を渡されたら、さっと書ける位に覚えているものですか。さもないと我々素人が考えて恐ろしくてあんなに数種類ものプログラムを用意して演奏旅行するのは大変だと思うのですが。
 
森安: 私なんかの場合、書いては見ますけど、書いただけではダメですね。いくら書いたものが頭に写真の様に写っていても、運動の形としてそこにパッと手がいかなければ……。
 
溜島: 反射的にね。
 
森安: だから運動の方のパターンをうまく組み合わせて流れを作って行くと頭の中で写真のように楽譜が浮き出てくるんです。
 
溜島: ルービンシュタインがどこの頁のどの音の処にコーヒーのしみがあるとか、そこまて覚えていなければダメだとか………。
 
森安: それ本当ですよ。だからいろいろな版の楽譜みて1つの曲を覚えるってとても不安なんです。紙の色まで少し黒っぽかったということまで視覚の上に記憶として非常に大きな作用をする。私も誉てある楽譜を失くしてしまって別のを使って覚えた時、非常に記憶が頼りなくなったことがあります。
 
武井: 楽譜の場所で覚える方法もありますね。あそこは右の上だったとか。
 
森安: まあ人によって憶え方は色々違うんですけど主なものは眼なんです。それ以外にも色鉛筆で印をつけるとかいろいろ補助手段があることはあるんです。どっちみち難しいものは初めによく覚えてしまう。当然難しいのは反復練習が不可欠だから何回も反復する。だから必ず覚える。記憶が怪しいのは大体難しく無い曲です。
 
溜島: 僕ら見ていても専門家がとちったり、スリリングな状態になるのは何でもない易しいとこなんですよね。
 
森安: 一寸したことで記憶がおかしくなる。もう難しいとこならそれこそ寝てても覚えてますよ。だから一番むつかしいのはバッハのフーガですね。どうといったって技術的にそう難しいものでないが、ただバランスの問題ですよ。こっちがピアニシモでこちらがフォルテとかいう難しい問題はあるけど、そういう意味では一番難しいですね。
 
溜島: バッハをとちったら大抵は再起不能ですものね。
 
森安: 途中で止ったところから出ればいいんです。それも覚え方があるんです。どこからでも出られる様に覚えるんです。(笑)僕は小野アンナ先生のところに伴奏者として行ったことがあるのですが、バッハの無伴奏はヴァイオリニストにとって大変覚えにくい曲ですが、あの先生は終りの1音出させて次にその前の2音足して弾きなさいって終りから順番に足してゆくんです。またある時は、真中の音を弾きなさい。その前と後の一音ずつ足しなさい」と。(笑)そういうのを目撃してましてね。ああなる程それもいい手だなと思っていました。
 
溜島: でも普通の人はそこまでやらないでしょ。
 
森安: だけどそれが職業だとすればその位しなきゃ、お客さんにスリル(つっかえること)満点の思いをさせる訳にはいきませんから。でも暗譜というのは結局集中力の問題だと思いますね。集中出来ない人間はやっぱり遅い(暗譜が)。集中力の由って来たる処を考えると、どんなことがあっても覚えなければならない破目になったら覚えますよ。そのことに関心があるってことはちやんと覚えます。ということはですね、関心がどうして出来るかと云うと、先ず自分が好きな曲は早く覚える。それと無茶苦茶に難しいからこれを弾いて見せたら人がびっくりしてしまう様な曲で、それを何としてでもやってしまおうというのは一発で覚えます。
 

 
バックハウスの想い出


森安: (溜島さんに)バックハウスをお聴きになったということを書いて(会詩に)おられますね。私も全部聴いてますから想い出しますよ。あのシューマンのファンタジーの2楽章のね、内側に8和音押しておいてバスをたたき込むところありますね。(注……主題が再現してくる92〜96小節……)
 
溜島: はい。飛び降りる様なリスキーなところですね。
 
森安: あそこは普通1番近い小指とか中指とかを持ってくるんですけど、バックハウスは親指を持ってくるんです。
 
溜島: ほおう!そんな凄いことやったんですか?あそこで………ちよっと考えられないですね。
 
森安: これはかなりの英断なんです。親指を持ってくるには肩と肘が絶対確実に自由に持って行けなければならないんです。
 
溜島: あれは確かESでしたね。でも普通に考えると、その後にもっと低い音が続いている訳でもないのにどういう響きを求めていたのでしょうね。
 
森安: それはバスが一番強く欲しいからですよ。フォルティシモで和音をたたいて……。
 
溜島: でも親指より中指の方があそこの場合強く弾けませんか。
 
森安: いや、親指自体ではなくて親指だったら安定していますから、ここに手の重みが全部のるんです。それでフルコンサートの場合、あの辺は特に弦が太いですから腕の重みでたたき込むと非常に華々しい音がする。
 
溜島: なるほどね。ああいう危険な、しかも隠れた処でそういうテクニックを使うというのは流石ですね。
 
森安: 但しその時に親指をもってゆく為には肘と肩の力が完全に弛緩していないとそういう大わざはふるえない。なるほど名人というのは、こういう指を遣うのかとビックリして見たことがあるんです。
 
溜島: 本当の名演奏というのは、その時の会場の雰囲気でエキサイトするというよりも却って日が経てば経つほどバックハウスみたいに何十年経ってもいまだにあの音が頭の中にまざまざと甦ってくる、そういうのを本当の名演と云うんでしょうね。
 
森安: そうですね、私が聴いた中で最後の偉人ですね。バックハウスは。あれほどの人はその後聴いてないですね。
 
溜島: 本当にあのブラームスは素晴らしかったですね。20余年たっても、いまだに強烈な印象が残っているんですから。
 
 まだお話も尽きないのですが、今日は先生からピアノを学ぶ専門家並ぴに我々素人の両方にとっても大変貴重なお話を楽しく聞かせて頂きまして本当に有難うございました。

---- 終 ----

 先生はピアノを伴ったブラームスの室内楽を全部手掛けられたと云われるほどブラームスに対して深い情熱と造詣を持っておられ、このインタビューでも実はもっと沢山の話題があとからあとから出てきて、私たちを堪能させてくれたが、紙面の都合で大分圧縮せざるを得なくなり、残念であったし、また先生にも読者にもお詫びしなければならない気持である。
 楽しかったお話のあとで、岡田君との連弾で聴かせて下さった第4交響曲の第2楽章は我々にとって心に残る暖かい贈りものでありました。