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「アルカード、二週間程前の新聞を持って来てくれないか?」
魔実也は、後ろに控えていたアルカードにそう告げると、上野に向き直って、こう聞いた。
「上野さん、あなた、あなた本当に上野久典さんなんですか?」
「え? 何を言うのです? 私は上野ですよ」面喰らったように、上野は答えた。
「そうですか…。ところで上野さん、ここ数カ月、通り魔殺人が多発しているのを御存じですか?
この間はバスの車内で、御婦人が胸を一突きされたのですが、刺した直後に犯人はバスを降り、
足取りは掴めなかったそうです…」
「ええっ! なんですって…、では、やはり私が…」上野は怯えたように叫んだ。
「もっとも、あなたの夢とは違って、被害者はバスの出口近くの座席に座っていたそうですが…、
他にも、あなたが話されていた夢と、似通った事件が多数発生しています」
その時、アルカードが新聞の束を持って部屋に戻ってきた。
「ああ、ありがとう、アルカード…、それから…」
新聞を受け取った魔実也が、なにやら耳打ちするとアルカードは小さく頷き、そのまま部屋を出て行った。
魔実也はパラパラと新聞を捲り、やがて目当ての記事が見つかったのか、満足そうに微笑むと上野の前に差し出した。
「上野さん、この写真の男性に覚えはありませんか?」そう言って、通り魔事件の記事を指差した。
「一連の事件の被害者です。名前は柏木祐一。この男性が刺されたのを最後に、もう二週間近く
誰も被害を受けていません。そう、あなたが最初の夢を見たのと同時期に殺されました」
「この写真ですか…。こ、これは…!」
「見覚えがあるのですね?」
「ああ、この人は…、私が最初に見た夢の中で、死んでいた……!! 夢幻さん、やっぱり私が
人殺しだと言うのですか!? 教えてください! あなたにはもう解っているのでしょう?」
今にも泣き出しそうな顔をして、上野は魔実也に詰め寄った。
「上野さん、まだ気づきませんか? 夢以外で、被害者の顔や名前に覚えは本当にないのでしょうか?
さあ、もっとよく見て…、思い出せませんか?」
上野を制して、静かに魔実也は言った。だが微かに瞳の奥には、ちらりと怒りの色が宿った。
「ああ…、どことなく知っているような気もします…、でも解りません…、もう解らないのです。私には…」
そう言って、上野は泣き崩れるように顔を伏せた。
魔実也はそんな上野を見ながら、しばらく黙り込むと、やがて押さえた口調で話しだした。
「ねぇ。上野さん、いい加減にしたらどうですか」
三脚椅子から立ち上がり窓の傍へ寄ると、魔実也は外を眺めて続けた。
「いいですか? 上野さん。僕は上野さん、あなたに話しているのですよ。いい加減に柏木さんを
苦しめるのはやめにしませんか? 殺した後まで利用するなんて、ひどすぎやしませんか?」
「な…、なんですって、何を…」
上野が、戸惑ったように、顔を上げた。
「柏木さん、まだ気づかないのですね? あなたはここにいる上野久典に殺されたのです。そうして
どういう訳だか、殺人者の精神に取り込まれてしまったのですね。上野はあなたを良心の盾にしたのです。
つまり今、上野久典のその身体には、上野と柏木さん、二人分の精神が宿っている…」
「私は上野久典です…! やはり私が殺人者なのですか…!」
弾かれたように聞き返す。戸惑いの色はますます深くなっていった。
「いいえ。その名はあなたを殺した人物です。あなたは柏木祐一。まだ思い出しませんか?」
魔実也は振り返ると、静かな声で言った。
「そ…、そんな…、私は殺されたと言うのですか? 私が人殺しじゃなくて、私が殺されたというのですか?」
「ええ、そうです。あなたはずっと、上野という殺人者の、一連の殺人の夢を見せられていたのでしょう。
そして良心の呵責を背負わされていたのです」
「ああ…、そんな…、私には柏木という男の記憶はない…、あるのは、あの日、足許にあった男の横顔だけ…、
あれが私だったと言うのですか…!! あの夢の中で死んだというのですか!? だったら今此処にいる
私は一体誰なんですか!!」
上野の顔を持った柏木が、魔実也に尋ねた。
また、ずきずきとこめかみが痛み出すのを感じた。
目眩がした。 ふっと、暗い奈落に落ちて行くような感覚が襲ってきた。
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長い時間が経ったように思われた。今度は激しく胸が痛んだ。
見ると、自分の胸にナイフが深々と刺さっている。しばらく何が起ったのか解らなかった。
「あ…、あああ…、ああ」
どくどくと赤い血が溢れてくる。柏木は夢中でナイフを抜こうとした。
「何故? 何故だ…?」
さっきまで家に帰るために、ただ夜道を歩いていたのに。
「僕は、僕は…、死ぬのか? ここで…?」此処は…、いつも通る高架下だ。
通い慣れたはずの道なのに、今はまるで、知らない場所のように柏木の目に映った。
2、3歩、ふらふらとよろめくと、足許がぐにゃりと柔らかくなって倒れ込んだ。
不意に、胸が軽くなるのを感じると次の瞬間、勢いよく血が吹き出した。見るとナイフが抜かれている。
柏木は力無く顔を上げた。なんの表情も持たない男が、血に染まったナイフを手に柏木を見ていた。
その瞬間、柏木はすべてを思い出したような気がした。
「上野…か?」 苦しい息の下で尋ねた。
「おはよう、柏木さん。あんたの名前を初めて知ったよ」
唇の端を歪めて、微かに笑いの表情を見せた上野が柏木の目に映っていた。少し前まで自分の顔のはずだった。
「何故…、僕を…」
「理由なんか無い、たまたま、あんたが目に入ったからさ。なんなら、もう一度くれてやろうか?」
面白くもなさそうに唇を歪ませたまま、上野は大きくナイフを振りかざした。
「よせ」少年の声が聞こえた。
黒い猫のような、しなやかな身のこなしで魔実也は倒れた柏木の前に躍り出た。
「これ以上は、僕が許さない」
そう言って、ナイフを持った上野の腕をすばやく掴むと、上野を睨み付けた。
上野は凍りついたように動かなくなった。
「夢幻さん……」
その様子を見ながら柏木は、その時、はっきりと自分がこときれる瞬間を感じた。
視界がぼやけたその後は、もう何も見えなくなっていた。
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「ひどいことを………」
相変わらず、窓の外を眺めながら魔実也は怒りを押さえた声で言った。
「何度も、死の苦しみを味あわせるなんて…」
「なんとでも、言えばいいさ」
いつの間にか、上野は魔実也の背後に回っていた。
「ああでもしなきゃ、あいつはずっと俺の中で苦しんでいたぜ。なにしろ自分が死んだ事すら
わかっていなかったんだからな。いきなりあいつが俺の中に飛び込んできた時は驚いたぜ。
俺はしばらく眠るより他なかったからな。あんたが呼ばなきゃ俺は戻ってこれなかった。
あいつが出て行ってくれて、せいせいしたよ」
「彼はずっと、お前の見る夢を見せ続けられていたのかい?」
魔実也は、振り返らずに聞いた。
「ああ、そうかもな。良心の呵責? 俺にそんな殊勝な気持ちがあると思ったのかい?
え、おぼっちゃんよ。おまけに柏木は自首するときたもんだ。ふざけやがって!!
俺は、次の殺しをやりたくてウズウズしているというのに」
上野の右手にはナイフが握られ、その刃は、魔実也の心臓を背中越しに狙っていた。
「そうかい。それは残念だ。少しは人間らしい感情を期待してたのだけどね」
魔実也の声が、上野の頭の中で響いた。
「今度は、僕が夢をお見せしよう」
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目眩がした。
長い時間が経ったように思われた。
もうずっと、暗い闇の中を走り続けている。手には生温い血で滑り落ちそうなナイフを握りしめたままで。
時折、足がもつれて息が切れた。だが止まるわけにはいかない。少しでも早く、現場から遠ざからなければ…、
上野はそう思い足を急がせた。
『殺した…、殺してしまった…、俺は人殺しだ……!!』
そう胸の中で、繰り返し叫びながら走り続けた。
『逃げられるのか? いや! 逃げ続けるのか? ずっと…、このまま』
『ああ、早く走らなくては!! 捕まりたくない』
『もしも捕まったら、きっと俺は死刑になる』
『いやだ! まだ死にたくない!!』
『いっそ、自首をしようか…?』
『それなら、少しは罪は軽くなるかもしれない』
視界の隅に女が見えた。胸にナイフを突き立てたまま、上野を指差しケタケタと笑っていた。
「莫迦ね。罪が軽くなる訳がないじゃない」
「私を殺しておいて、ムシのいい」
そう言いながら、自分の胸に刺さったナイフを引き抜くと、上野を切りつけてきた。
『うわああぁぁあ!!』
毒々しい痛みが上野の体に走り、転がるように倒れ込んだ。鋭く切られた傷口からは、
赤い血が流れ出した。怖いという感情がふつふつと湧きあがってくる。
『や…、やめてくれ…』
上野の前に、柏木が立っていた。背をかがめて上野の顔を覗き込と呟いた。
「僕を返してくれないか? そして、お前に殺された、この連中も…」
上野が顔を上げると、数人の男女が上野を覗き込むように取り囲んでいた。
みんな、胸にナイフが刺さったまま、虚ろな目をしている。
「私を殺したのは、あなただったのね」
「お前だったのか…、僕をこんな目に遭わせたのは…」
「どうして…? 何故、私は死なないといけなかったの?」
「返して!! さぁ!! 私を返して!!」
口々にそう言いながら、胸からナイフを引き抜くと、上野に向かって大きく振りかざした。
「ねぇ…。私にナイフを突き立てた時、あなたは楽しかったのよね?」
「さぁ、今度はあなたの番よ!」
上野は全身に痛みを負いながら、壊れていく自分を大きな澄んだ瞳が見つめているのを感じていた。
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「ぼっちゃま、失礼します」
ノックの音がして、アルカードが部屋に入ってきた。
「なんだい、アルカード」
「江戸川警部がお見えです」
「ああ、ありがとう。早かったね。お通しして…、いや場所を変えよう。この人を紹介しないといけないし」
魔実也は、足許で気を失っている上野を一瞥すると言った。
「差し出がましいようですが…」
アルカードが、上野の体を軽々と持ち上げながら言った。
「なんだい? アルカード」
「少々でも手加減をなさらないのは、ぼっちゃまの悪い癖ですな」
そう言いながらも、アルカードの口元は微かに笑っていた。
「いいんだよ。どうやったって上野は、殺人の狂気を理解も後悔もしないだろう…。だから
柏木さんが味わった苦しみの、ほんの一部を僕が見せてやっただけさ。それだけだよ」
窓の外の、空を見上げながら魔実也は言った。
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「わしゃ、忙しいんだよ、夢幻君。突然呼び出してなんの用だね」
警視庁猟奇課の江戸川警部が、いつもの渋面を作りながら、魔実也に言った。
「まぁまぁ、警部。せっかく来ていただいたんだから、まずはゆっくり、お茶でもどうぞ。
今日のお茶受けは、舟和の芋羊羹ですよ」
庭の東屋で、満面の笑みを浮かべた魔実也が、江戸川警部に茶を勧めた。
「だから、そんな暇はないと言っておろうが…。大した用が無いんなら、わしゃ帰るぞ」
「そんなぁ、せっかくのいい天気なんだから、楽しくお茶を飲みましょうよ。ほら庭の緑も綺麗ですよ」
「そんな事で、わしを呼び出したのかね? 連続通り魔事件の犯人の目星も、まださっぱり
ついていないっていうのに……! 子供の暇つぶしに付き合っている暇は…」
いかにも迷惑といった不機嫌そうな様子で、江戸川警部は席から立ち上がりかけた。
「ああ、警部、その犯人ならね」
魔実也は、いっそうニコニコと楽しそうに笑うと言った。
「実はもう捕まえてあるのです」
いつの間にか魔実也の後ろには、上野を抱えたアルカードが立っている。
江戸川警部が、呆けたようにポカンと口を開けた。
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終
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この作品は、蒼牙さんの見られた夢を元に創作しました。
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