目  



 気がつくと、ナイフを片手に立っていた。
 すらりと銀色に光る細い刃を見ていると、また少し目眩がした。

 長い時間が経ったように思われた。
 次に気がついた時には、ナイフは赤く染まっていた。
 しばらく、何が起ったのか、解らなかった。耳の奥で心臓の鳴る音が聞こえた。
 ナイフを握った手が、上下に大きく震え出した。
 腕の感覚は、まるで失われているのに、硬く握った掌から、ナイフは離れて落ちなかった。
 べっとりと、血がついた自分の手を凝視しながら、上野久典は呆然と立ち尽くしていた。

『ここは、何処だ?』
 上野は周りを見廻した。高架下だろうか、灯りもなく暗い壁が迫っている。
『これは、何だ?』
 今、自分の足許には、どくどくと胸から血を流して、倒れている男がいた。
 その顔色は、とうに失われたように真青で、ぴくりとも動かなかった。
『死んでいる…』直感で、解った。 
 ごくり、と喉が鳴る。上野は、その音に驚いたように身を震わせた。そして自分が握っているナイフを見つめた。
『僕が…、やったのか?』その言葉を反芻する。
『殺した…。僕が殺した?』
 真っ赤なナイフと、大量の返り血に染められたシャツが殺人を物語っている。
 ずきずきと、こめかみの辺りが痛んだ。その瞬間、目の前の男を刺した時の感触が蘇ってきた。

『ああ…、殺した…。僕は人を殺した…!!』心臓の音は、ますます大きく聞こえてくる。
 体の奥から噴いて出る恐怖心で、大きく視界が揺れ出した。言葉にならない叫びが喉をついて出た。
 その時、高架の上を通り過ぎる列車の轟音が、上野の叫び声を掻き消していった。


 汗だらけの体で飛び起きた。耳のすぐ傍で心臓が鳴っている。
 口の中がカラカラに乾いて、ぼんやりと天井を見つめる目には涙が零れていた。
 痺れた右手は、まるで他人の腕のように重く感じた。目を閉じると、殺人の感覚が鮮明に思い出される。
『夢…?』混乱した頭で呟いてみる。目だけで周りを見回した。
「今のは…、ゆめ?」
 ゆっくりと確認するように、今度は言葉を口に出してみる。
 少しづつ現実感が戻ってくるような気がした。痺れた右腕を無理に動かし、左手で体を支え起こした。
 ずきずきと痛むこめかみを押さえると、さっきまで見ていた夢の中に連れ戻されるような気がして、
 背中に冷たい汗を感じた。
「なんて夢だよ……」
 闇は、まだ明けきらない朝を待ちながら、窓の外に広がっていた。

.

 今朝の空は、どんよりと曇っている。
 上野は、出勤するために、いつものように市内を走るバスに乗っていた。
 ちょうど、混み合う時間帯なのだろう、車内は身動き一つ取れないような状態だった。
 それでも停留所に着くたびに客が入れ替わり、窓の外の景色は刻々と変わっていく。
 上野は、力無く吊り革に掴まりながら、明け方近くに見た夢をぼんやりと思い返していた。
 冷たいナイフの柄、ぬらりと光る赤い血、それを流れるに任せたまま、動かぬ男の白い横顔…。
 上野はその男に、どこか見覚えがあるような気がした。
『夢の中で、僕はあの男を本当に殺してしまったんだろうか?』
 不意に吊り革を持った右手に、汗が浮かんできた。
『たかだか夢の中の話じゃないか……』
 そう思ってはみても、ナイフを突き立てた時の肉の切れる感触が、鮮やかに掌に蘇ってきて
 まるで自分が刺されたかのように、ずきり、と胸が痛んだ。
『でも、もしあれが、現実の出来事だったとしたら……?』上野は思わず頭を振った。
 ふと目をやった窓ガラスには、沈んだ顔色の自分自身が写り、よそよそしい表情をこちらに向けている。

 バスがまた、停留所に着いた。
 乗降客の入れ替えが済んだ時、上野は自分の隣に女が乗ってきた事に気がついた。
 ほっそりとした印象の美しい女で、すっと引かれた細い眉が形のいい額に載っている。
 微かに香水の甘い匂いがする。上野は一瞬、その女に目を奪われていた。
 視線に気がついたのか、女はふわりと微笑んだが、上野はなんだかきまりが悪くなって目を逸らした。
 走り出したバスの混んだ車内で、女の香水の匂いが、時間を追うごとにむせかえるように深く重くなっていく。
 上野は、バスの単調な走りを足許に感じながら、頭の芯がじんと痺れてくるような気がして、少しでも早く
 この甘い空気から逃れたいと願っていた。 
 次の停留所を告げる車掌の声が聞こえてくる。自分が降りる停留所が近くなり、上野はほっと息をついた。
 その途端、大きくバスが揺れよろけた女が上野に寄り掛かってきた。上野は思わず吊り革を持つ手を離して女を支えた。
「あ、ごめんなさい」
 戸惑ったような顔の女が、それでも笑顔で上野に向かって会釈をした。甘い匂いは、間近に一層強く感じられて
 上野は息苦しさを覚えた。

 目眩がした。

 右の掌に冷たいものが当たる感触があった。

 その瞬間、上野は再び、気が遠くなっていく感覚を味わった。

 長い時間が経ったように思われた。
 とん…っと、手に弾力のある刺激を感じた。
「きゃああああっ!!!」
 絹を引き裂くような女の悲鳴が、間近に聞こえ上野は正気を取り戻した。

 目の前に女の顔があった。かっと目を開け、信じられないといった表情で上野を見ていた。
 その胸には深々とナイフが刺さり、真っ赤な血が大きなしみを作って、どんどんと広がっている。
 ナイフは上野自身の手に握られていた。
.
.

「うわあああっ」
 堪らずに、叫び声をあげた。飛び起きたためにバスの座席から転げ落ちそうになった。
 乗り合わせた乗客が、何事かという目で一斉に上野の方を見た。
「ゆっ…、ゆめ? 今まで眠っていたのか?」
 大きく鳴っている胸の響きを押さえながら、上野は座席にぐったりと座り直した。
「ゆ、ゆめ…、まただ。また人を殺す夢を見た…」

.

「つまりあなたは、殺人の夢を見続けているという事ですか?」
 三脚椅子に、ゆったりと座った夢幻魔実也が、上野に尋ねた。
「はい…、そ、そうです。もう一週間以上、気がつくと…。ああ、おかしな言い方ですね。
 でも、ほ、他に言い様がないんです。き、気がつくとそんな夢ばかり見ている!!」
 すがるように、上野は目の前にいる魔実也に訴えた。やつれた様子で、目だけが異様なまでに輝いている。
 もつれた口調で喋るのは興奮の為だろうか。
 そんな上野の様子を、魔実也は猫を思わせる大きな瞳で窺いながら、組んだ足をするりとほどいた。
「な、何人、て、手にかけたか、解らない……。夜眠る時も、仕事をしている時も、道を歩いている時でさえ…、
 ふっと目眩がした途端に、気が遠くなって…、しょ、正気を取り戻した時は、ナイフを持って立っている…!」
 上野の声は、徐々に大きくなっていく。あまり良くない顔色に、かっと赤みが差した。
「しかも、そのナイフは血で汚れていて、足許には死体が転がっている…と、そういう夢なんですね?」
 上野の興奮を瞳で受け止めながら、落ち着いた様子で魔実也は質問を重ねた。
 その顔色は、上野とは対照的に美しい陶器を思わせる白さで、頬は優しい薄紅色をしていた。
「あああ、そうです。い、いつでもナイフで胸を一突きしている。いつでもです!! 
 最初は、たかが夢だと思っていた! だけどこんなに頻繁に…、もう耐えられない。
 一体、何が原因なのか、さっぱり解らないのです。それに……」
 言葉が急に途切れ、上野は、途端に怯えたような表情になった。

「それに…?」
 魔実也は、頬杖をついて次の言葉を促した。
「……それに、もしかしたら…」
 上野はそう言ったまま、黙り込む。魔実也は、何も言わずにテーブルの上の茶托から茶を取ると一口飲んだ。
 つられるように、上野も茶を両手で取ると、しばらく持て余すように揺らしていたが、やがて力なく口を開いた。
「それに…、本当に私が人殺しをしてしまったのじゃないかと、……最近はそう思うんです」
「ほう、それは何故です?」
 魔実也は、興味深そうに上野を見た。
「私だって、こんな事は考えたくないんですが…、夢の中で人を殺す、その瞬間だけが、
 いつも鮮明に浮かんでくるのです。他の事は覚えていないのに…、そんなことだけ鮮やかに…。
 初めは、ノイローゼにでもなったのかと…、だけど、ある日思ったのです。本当は私は人殺しで、
 それを忘れて何食わぬ顔で、生活している…、何かをきっかけに、その本性が爆発するんじゃないかと…。
 もう現実と夢との区別がつかなくなってしまいそうです。あなたと話している今も、私は、本当は
 眠っているのかもしれない。そして、どこかで人を殺しているのかもしれない…」
「上野さん、本当の事が解ったら、どうなさるおつもりなんですか? そう例えば、本当に殺人を
 犯しているとしたら?」
 魔実也が、にこりともせずに聞くと、しらけたように空気が止まった。

「……もしも私が、本当に殺人者だったとしたら、警察に自首しようと思っています」
 上野は、肩を落として呻くように言った。

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