...美勒が姿を見せなくなって何週間かが過ぎた。窓の外では蝉の声が聞こえだしている。
 学校も、もうすぐ夏休みになろうとしていた。
 楽しそうに夏休みを待つ、クラスメイトとは裏腹に、九鬼子の心は大きな穴が空いたようだった。
 たった一人の、心を許せる友達と思っていた美勒は、自分の心が生み出した幻だった。
 九鬼子は、美勒が自分をからかったのではないかと思ったが、すぐにその考えを否定した。
 今となっては美勒が自分の分身であることがわかるような気がした。
 そして、美勒が姿を見せなくなった頃から、学校に怪異が起こると噂が出始めた。
 それは噂好きの生徒が、吹聴しているような他愛もない話であったが、囁かれる噂の中に
 美勒らしき女の子の影がちらつくのを聞いた時、九鬼子には何か悪いことが起こるような予感がした。
 噂に尾ひれがついてまわるのが常なように、やがて、その怪異の原因は九鬼子にあるように言われ出した。
 どこからか子供の頃の九鬼子のことを聞いた生徒が、決めつけるように言いふらしていた。

 クラスメイトの九鬼子を見る目が冷たいものになっていった。それまで九鬼子を無視するだけの生徒も、
 九鬼子を気味悪そうな目で見ていた。口の悪い生徒が九鬼子をからかう。
「あらあら、九段さん、みんなを惑わせてよく学校に来られるわね。あなたって
 おとなしそうな顔をしているけど、とってもこわい人だったのね」
「何のことか、わからないわ」九鬼子は答えた。
「何のことかわからない? みんな聞いた? よく言うわよね」
 クラスメイトに同意を求めるように、大きな声で九鬼子に絡んだ生徒は言った。
「言いがかりはやめて! 私は本当になんにも知らないわ!」
「いろいろ、聞いているわよ。ホントに気味の悪い子ねぇ…。私達に何がしたいの?」
「何をって…。私が、何をしたっていうの?」

「とぼけないで! 昨日、帰り際に誰かが私を追い掛けてきたわ。姿は見えないのに…。
 でも、何か確かにいたのよ! そいつは私の足を掴んで言ったのよ…。クキコに手を出すなって!
 あれは、一体なんなのよ! あんたがやった事じゃあないの!? それに子供の時の話を聞いてるわよ。
 あなた、人の考えていることがわかったんですって? 今もこっそり、私達の考えていることを、
 読んでいるんじゃないの?」そう叫ぶと、九鬼子の肩を掴んだ。九鬼子を睨む目に涙が溜まっている。
 九鬼子の心に強い憎悪と恐れにも似た感情が流れ込んできた。胸が、じりっと灼けるように痛んだ。
「やめて、やめて、やめて!!」
 九鬼子がそう叫んだ瞬間、肩を掴んだ生徒の体の動きが止まった。
 その様子を見て九鬼子は息を呑んだ。見開かれた目の焦点が定まっていない。
 やがて、生徒の体がグラリグラリと大きく揺れ出した。
 水を打ったように教室が静まり返った。
「あなた…、一体…」そう九鬼子に向かって言うと、生徒は膝から崩れ落ちるように倒れ込んだ。
 クラスメイトは信じられないものを見たように、ゆるゆると後ずさる。誰かが悲鳴をあげた。

「九段さん! あなた一体、何をしたの!」
 激しく九鬼子の肩が揺さぶられた。倒れた生徒を助け起こしに何人かが走り寄る。
 顔色を失った生徒は目を開けると、火がついたように泣き出した。その激しい泣き声を聞きながら
 目の前で起こっている出来事を、コマ落としの映像でも見ているように九鬼子は感じていた。
.

 授業中の屋上はいつにも増して静かな気がした。今日はもう、教室には戻れない。
 九鬼子は自分でも、どうしていいのかわからずに屋上に来た。空は相変わらず高い。
 金網越しに下を見ても、体育の授業もなく校庭は静かなままだった。
『ここから飛び下りたら、どうなっちゃうんだろうな…』
 九鬼子は考える。自分がもしいなくなったとして、誰か悲しむ人なんているかしら。
 両親ですら、めったに家でも顔を合わすことはない。
 突然、涙がこぼれてきた。ぬぐってみても止まらない。
 今までおさえていた感情が一気にあふれてこぼれ落ちた。
「助けて…」九鬼子は、初めて自分以外の誰かに向かって声をあげていた。

「九鬼子…」
 聞き慣れた声がして、振り向くといつの間にか美勒が後ろにいた。
「大丈夫…? 九鬼子」
「美勒、あなた…」涙で濡れた顔を上げて、九鬼子が尋ねる。
「どうして、美勒…、私は復讐なんて望んでいないわ。あなただったのでしょう? 
 噂になっている怪異の原因は…」
「そうね。それに今も、私が手を貸したわ」
「…なんですって。そんな…」
「だって、見ていられないわ。あんな奴等に言いたい放題されているなんて。
 だからちょっと手を貸しただけじゃない。」
「…余計なことだわ! どうしてほおっておいてくれないの!」
「余計な事? あなたが望んだことだわ」
「違うわ! 私はそんな事を望んだりしない!」
「望んでいない? 本当にそう言えるの? あいつらがいなくなればって考えたことは
 一度もないっていうの? 憎い相手を心の中で殺した事は、ただの一度もなかったっていうの?」
 そう詰め寄られて九鬼子は答えにつまった。

「ほら…、ごらんなさい」満足そうに美勒は微笑む。
「あなたの悲しみが大きくなればなるほど、私も強くなっていったわ。
 あなたの怒りや悔しさが私を育てたわ。私にはあなたの悲しみのわけがわかるわ。
 だから、あなたを苦しめるすべてが許せなかったわ。九鬼子…、私はあなたの心の一部。
 私がしている事は、もともとあなたが望んだことよ。逃げていてもだめよ。自分を誤魔化すつもりなの?」
 美勒は続けた。
「あなたは私で、私はあなたなのよ…。私はあなたの望みを叶えてあげるわ。
 あなたができない事も私にはできるのよ…」
「美勒…、お願い、やめて…」
 涙声で、九鬼子は言った。
「わかってくれないのね…、九鬼子。…どうして? 前にも言ったわ。あなたが望むから、
 私は存在するよ。それなのに…。あなたは私のすべてなのに」
「違う! 違うわ! あなたは私じゃない! 私はあなたなど、望んでいないわ!」
 両手で耳を押さえ、九鬼子は首を激しく振った。
「ひどい事を言うのね…。九鬼子。私は何故、ここに居るの? 望まれてもいなかったのに、どうして?
 そう…、それならいっそ、悲しめばいいわ、怒ればいいのよ…。そうすれば、私はもっと強くなれる…。
 私は、私になれるのよ…。私とあなたが入れ替われば、そう、もっと…」
 じりじりと美勒は九鬼子に詰め寄る。その時、九鬼子の中でなにかが切れた。
「いやあぁぁっ!!」
 九鬼子は美勒を思いきり突き飛ばすと、重い扉を開け、階段を駈け降りる。
 そしてそのまま学校を飛び出していった。
.

 幾つかの電車とバスを乗り継ぐと、九鬼子は幼い頃に両親ときた懐かしい場所へと着いた。
 最後に来たのはいつだったか、その時の事をぼんやりと思い出しながら、空を見上げた。
 滴るような緑が美しい。夏の強い日差しを浴びて葉が透けて見えた。
 九鬼子の傍らには、母親の部屋に無造作に置いてあった睡眠薬が瓶の中に幾つか残って転がっていた。
 空は、学校でみるよりも、もっと蒼く高く感じられた。
「わたしが、いなくなったら…、美勒はどうなっちゃうの…?」
 ニコリと笑った、美勒の顔が浮かぶ。
「友達だったよね…、私達。そう…だったよね」
 目を閉じると空の中に融けて行くような気がした。たまらなく眠い。
 九鬼子はゆっくりと目を閉じた。
.

 青年は目の前で、命を絶とうとしている少女のことを考えていた。
 弱い小さな心。人が持ち得ない力を少しだけ持ってしまった為に、九鬼子の中で起ってしまった悲しみ。
 今ここで、九鬼子を呼び戻すのも、峠美勒を忘れさせてしまうのも、青年にとっては造作もないことだった。
 青年には分かっていた。たとえ美勒という人格を一時的に消したとしても、美勒は九鬼子にとって、
 影のようについてまわる存在だという事を。人は自分自身からは決して逃げられないという事を。
 峠美勒は、この先も九鬼子を脅かすだろう、それはどのような形をとるかは、まだ、わからない。
「今は、まだ弱すぎる…か」
 乗り越えていくには、もう少しだけ時間がかかるような気がした。
 いつの日か、九鬼子が成長して強い心を持ち、美勒を受け入れることができれば、
 その時初めて九鬼子は九鬼子自身になれるだろう。その日は、そう遠くはないような気がする。
「それまでは俺が守ろう」
 青年は、ゆっくりと九鬼子に向かって歩き出した。

 青年が眠りに落ちる瞬間の、九鬼子の顔を覗き込む。
 九鬼子が目を開けた。
 九鬼子の瞳の中に、青年の顔が映っている。
 九鬼子が口を開いた。吐息のような声で尋ねる。

「あんた…、天使? それとも悪魔?」
 青年は九鬼子の瞳を見つめたまま、答えた。

「どっちだと思う? 九段九鬼子君?」

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