授業中の屋上はいつにも増して静かな気がした。今日はもう、教室には戻れない。
九鬼子は自分でも、どうしていいのかわからずに屋上に来た。空は相変わらず高い。
金網越しに下を見ても、体育の授業もなく校庭は静かなままだった。
『ここから飛び下りたら、どうなっちゃうんだろうな…』
九鬼子は考える。自分がもしいなくなったとして、誰か悲しむ人なんているかしら。
両親ですら、めったに家でも顔を合わすことはない。
突然、涙がこぼれてきた。ぬぐってみても止まらない。
今までおさえていた感情が一気にあふれてこぼれ落ちた。
「助けて…」九鬼子は、初めて自分以外の誰かに向かって声をあげていた。
「九鬼子…」
聞き慣れた声がして、振り向くといつの間にか美勒が後ろにいた。
「大丈夫…? 九鬼子」
「美勒、あなた…」涙で濡れた顔を上げて、九鬼子が尋ねる。
「どうして、美勒…、私は復讐なんて望んでいないわ。あなただったのでしょう?
噂になっている怪異の原因は…」
「そうね。それに今も、私が手を貸したわ」
「…なんですって。そんな…」
「だって、見ていられないわ。あんな奴等に言いたい放題されているなんて。
だからちょっと手を貸しただけじゃない。」
「…余計なことだわ! どうしてほおっておいてくれないの!」
「余計な事? あなたが望んだことだわ」
「違うわ! 私はそんな事を望んだりしない!」
「望んでいない? 本当にそう言えるの? あいつらがいなくなればって考えたことは
一度もないっていうの? 憎い相手を心の中で殺した事は、ただの一度もなかったっていうの?」
そう詰め寄られて九鬼子は答えにつまった。
「ほら…、ごらんなさい」満足そうに美勒は微笑む。
「あなたの悲しみが大きくなればなるほど、私も強くなっていったわ。
あなたの怒りや悔しさが私を育てたわ。私にはあなたの悲しみのわけがわかるわ。
だから、あなたを苦しめるすべてが許せなかったわ。九鬼子…、私はあなたの心の一部。
私がしている事は、もともとあなたが望んだことよ。逃げていてもだめよ。自分を誤魔化すつもりなの?」
美勒は続けた。
「あなたは私で、私はあなたなのよ…。私はあなたの望みを叶えてあげるわ。
あなたができない事も私にはできるのよ…」
「美勒…、お願い、やめて…」
涙声で、九鬼子は言った。
「わかってくれないのね…、九鬼子。…どうして? 前にも言ったわ。あなたが望むから、
私は存在するよ。それなのに…。あなたは私のすべてなのに」
「違う! 違うわ! あなたは私じゃない! 私はあなたなど、望んでいないわ!」
両手で耳を押さえ、九鬼子は首を激しく振った。
「ひどい事を言うのね…。九鬼子。私は何故、ここに居るの? 望まれてもいなかったのに、どうして?
そう…、それならいっそ、悲しめばいいわ、怒ればいいのよ…。そうすれば、私はもっと強くなれる…。
私は、私になれるのよ…。私とあなたが入れ替われば、そう、もっと…」
じりじりと美勒は九鬼子に詰め寄る。その時、九鬼子の中でなにかが切れた。
「いやあぁぁっ!!」
九鬼子は美勒を思いきり突き飛ばすと、重い扉を開け、階段を駈け降りる。
そしてそのまま学校を飛び出していった。
.
幾つかの電車とバスを乗り継ぐと、九鬼子は幼い頃に両親ときた懐かしい場所へと着いた。
最後に来たのはいつだったか、その時の事をぼんやりと思い出しながら、空を見上げた。
滴るような緑が美しい。夏の強い日差しを浴びて葉が透けて見えた。
九鬼子の傍らには、母親の部屋に無造作に置いてあった睡眠薬が瓶の中に幾つか残って転がっていた。
空は、学校でみるよりも、もっと蒼く高く感じられた。
「わたしが、いなくなったら…、美勒はどうなっちゃうの…?」
ニコリと笑った、美勒の顔が浮かぶ。
「友達だったよね…、私達。そう…だったよね」
目を閉じると空の中に融けて行くような気がした。たまらなく眠い。
九鬼子はゆっくりと目を閉じた。
.
青年は目の前で、命を絶とうとしている少女のことを考えていた。
弱い小さな心。人が持ち得ない力を少しだけ持ってしまった為に、九鬼子の中で起ってしまった悲しみ。
今ここで、九鬼子を呼び戻すのも、峠美勒を忘れさせてしまうのも、青年にとっては造作もないことだった。
青年には分かっていた。たとえ美勒という人格を一時的に消したとしても、美勒は九鬼子にとって、
影のようについてまわる存在だという事を。人は自分自身からは決して逃げられないという事を。
峠美勒は、この先も九鬼子を脅かすだろう、それはどのような形をとるかは、まだ、わからない。
「今は、まだ弱すぎる…か」
乗り越えていくには、もう少しだけ時間がかかるような気がした。
いつの日か、九鬼子が成長して強い心を持ち、美勒を受け入れることができれば、
その時初めて九鬼子は九鬼子自身になれるだろう。その日は、そう遠くはないような気がする。
「それまでは俺が守ろう」
青年は、ゆっくりと九鬼子に向かって歩き出した。
青年が眠りに落ちる瞬間の、九鬼子の顔を覗き込む。
九鬼子が目を開けた。
九鬼子の瞳の中に、青年の顔が映っている。
九鬼子が口を開いた。吐息のような声で尋ねる。
「あんた…、天使? それとも悪魔?」
青年は九鬼子の瞳を見つめたまま、答えた。
「どっちだと思う? 九段九鬼子君?」