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  覚 醒



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「気付いて九鬼子…。私はあなたの一部だし、あなたは私のすべてなのよ…」
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 最初は何の音も無かった。やがて薄い羽を震わすような微かな音が聞こえてきた。 
 音は少しつづ大きくなっていく。耳元をかすめる音にわずらわしさを感じた。
「ここは、どこだ…」
 うたた寝をしていて目覚めた時に、初めて眠っていことに気付くような感覚が青年の体を支配していた。
 頭の奥が重く、手足が痺れている。まだもう少し眠りの中に居たい。
 少女の声が聞こえてきた。消え入りそうな微かな声だが青年の耳にははっきりと聞こえてくる。

「助けて」

 目が覚めた時。光の眩しさに暫くの間、目を開けることができなかった。体を取り巻く空気が暖かい。
 頬を撫でる風に青い草の匂いを感じた。近くで蝉の声がする。
 青年はゆっくりと体を起こすと、ポケットから煙草とマッチを取り出し火をつけた。
 甘い香りが立ち昇ってゆく。ぼんやりしていた頭が次第にはっきりとしてくる。
 また、声が聞こえた。「助けて…」
「やれやれだ…」
 もう一度、深く煙草を吸い込むと、近くにあった大きな帽子を手に取った。
「もう少し、眠っていたかったんだがな…」
 独り言のようにつぶやくと、青年はようやく立ち上がった。
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 チャイムが4時限目終了を告げている。
 その音を九段九鬼子は、保健室のベッドの中で聞いていた。
 軽い脳震盪。3時限目の体育の授業でのバスケットボールの試合中、誰かに足を引っ掛けられて転倒してしまった。 
 はっきりと悪意を感じる勢いとタイミングで、ボールを持った九鬼子の足を狙っていた。
 倒れた瞬間に、どっと聞こえた歓声と中傷は今も九鬼子の耳に残っている。その声が耳に届いたものか、
 九鬼子の心に、直接届いたものかはわからなかったが、そんなことはどうでもいいことのように感じられた。
「どうして私だけが、苛められるんだろう…」
 考えていると涙が出てきそうだった。教室から出てきたらしい生徒の笑い声が遠くで聞こえる。屈託のない明るい声。
 九鬼子はベッドを抜け出すと、教員のいない保健室をそっと後にした。

 すぐに教室に戻るのは気が進まなかった。食欲もあまり感じなかった。
 授業が始まる直前に帰ろう。そう決めて九鬼子は屋上へ続く階段を登っていった。
 屋上の重い扉を開け、日当たりの良い場所に腰をおろす。
 5月の空は、青く澄んでいて高く感じられた。ほんの少し肌寒い。
 下を見ると、校庭に何人かの生徒が遊んでいるのが目に入ってきた。
 誰も九鬼子に気付く者はいない。九鬼子は空を見上げるとそっと目を閉じた。

 このまま、こうしていると青い空に体が融けていくような気分になっていく。
 教室には居場所がない。九鬼子はよく一人で屋上にいた。
 小さな頃から九鬼子は、少し変わったところがある子供だった。
 他人には見えないものが見えていた。聞こえない音が聞こえていた。
 それは、人や獣の姿をしていたり、無気味な異形であったりした。
 その者達と、時々言葉を交わすこともあった。
 友達同士で遊んでいる時に、突然、誰に向かうともなくお喋りを始める九鬼子は
 軽いからかいの対象になっていた。他人の考えていることが、初めて自分の中に
 流れていたのはいつだったろう。ある日、友達の自分を呼ぶ声に返事をした。
 その瞬間の彼女のきょとんとした顔を、九鬼子は今でもよく覚えている。

「…くきこちゃん…。私、なんにも言ってないよ」
 それきり、彼女は九鬼子に対して口を閉ざした。
 それなのに九鬼子には彼女の、少し怯えたような問いかけの声が聞こえてくる。
 その時から九鬼子には周りの人の思っていることが、言葉となって聞こえてきた。
 九鬼子にとっては、口に出して話す言葉も、心の中でつぶやく言葉も、さほど変わりなく聞こえていた。
 耳を塞いでも声は聞こえてくる。他人の心がわかることは、幼い九鬼子には苦痛でしかなかった。
「気味の悪い子…」
 そう言われるまでに時間はかからなかった。
 一人が言い出すと後は早かった。 いつの間にか九鬼子はひとりでいることが多くなっていった。
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「何をしているの?」
 不意に声をかけられて、九鬼子は驚いて振り返った。 扉の前に一人の少女が立っている。
 重い扉は開ける時も閉める時も、鈍い音を出すはずなのに、そんな音は少しも聞こえなかった気がした。
「あなたは誰?」九鬼子は眩しそうに目を細めると、少女に尋ねた。
 少女は、九鬼子のそばに来ると隣に座った。九鬼子に向かってニコリと笑う。
 短い髪、大きな目、はっきりした顔だちの少女は、九鬼子の目を見つめて口を開いた。
「私は、美勒、峠 美勒よ」
「峠…さん? 同じクラスじゃないよね。私は九段九鬼子…」おずおずと九鬼子は答えた。
「よく、ここに一人でいるよね?」と少女が聞いてきた。
「知っていたの?」
「ええ、だって私も時々ここにくるもの。そうしたら、いつもあなたがいるわ。…いつも寂しそうだったわ」
 と付け加えるように言った。
「友達はいないの?」美勒が聞いてくる。九鬼子は下を向いたまま答えられないでいた。
「…そう」
 それきり二人は黙ったまま、高く澄む空を見ていた。

「もう、行かなくちゃ、授業が始まっちゃう」
 先に口を開いたのは九鬼子だった。
「そう…。じゃ、またね。九鬼子さん」と、美勒が言った。
「じゃ、また…。またって言ってくれるの? 峠さん」
 美勒の言った言葉を、意外に感じたように、九鬼子は顔を赤くして聞き返す。
「そうよ? 何を言っているの? おかしな人ね」
 笑いながら美勒は答えた。
「ううん、ありがとう。峠さん、じゃあ、また!」
 熱くなってくる頬を押さえながら、九鬼子は美勒に笑いかけると教室に向かって駆け出した。 
 そんな九鬼子の後ろ姿を見送りながら、美勒はつぶやいた。
「九鬼子…。あなたが私を必要とするから、私は今、ここにいるのよ」

 いつになく浮き足立った気分で、教室の扉を開けた九鬼子を待っていたのは、クラスメイトのからかいの声だった。
「あーら、九段さんのお帰りよ」
「随分ごゆっくりね。でも帰って来ないでよかったのに」
 一部の生徒がつられて笑う。残りは苦笑いをしているか聞こえない振りをしていた。
 どちらにしても、九鬼子をかばう者は一人もいなかった。九鬼子は、唇を噛んで声の主を睨みつけた。
「なぁによ。その目」
 睨まれた生徒が九鬼子の肩を押して笑った。
「いつから、そんな生意気な目でアタシ達を見られるようになったの? あんたは黙って下を向いてたらいいのよ」
 九鬼子が抗議の声をあげようとした時、チャイムが鳴って5時限目の授業が始まりを告げた。
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「どうしたの? 九鬼子…、その傷は?」
 放課後、駆け寄ってきた美勒が九鬼子に心配そうに尋ねる。
「ああ、峠さん、これ…、なんでもないのよ」
 九鬼子は精一杯の笑顔を作って美勒に答えた。
「なんでもない…ってことはないでしょう? そんなに大きな引っ掻き傷…」
 美勒は九鬼子の腕を引き寄せながら言った。
「また、苛められたの?」
 小さく九鬼子が頷いた。
「可哀想に、九鬼子…。私があなただったら、一人残らず許さないのに…」
 燃えるような目をして美勒がつぶやく。
「峠さん…?」
「美勒。呼び捨てでいいわよ。私だって九鬼子って呼んでいるもの」
「どうして私に親切にしてくれるの? 美勒さん、いえ、美勒は?」
「親切って…。そんなつもりはないわよ。私はあなたと話がしたかっただけ、
 いつも屋上で空を見て、寂しそうにしていたからね。気になっていたのよ」
 と美勒は言った。
「九鬼子、悔しいことがあったら、これからは私が聞いてあげるわ。だから一人で泣いたりしないで」

 次の日から、九鬼子は昼休みに屋上に行くのが日課となった。
 他に誰もいない屋上で、美勒と話をする時間が九鬼子にとって、かけがえのない優しい時間に感じられた。
 不思議なことに、美勒がどのクラスの生徒なのか、九鬼子には分からなかった。
 一度だけ尋ねてみたが、美勒は微笑むだけで何も答えず、九鬼子もそれ以上、聞くことはなかった。
 九鬼子にとって美勒は、そばにいてくれるだけでいい、たったひとりの友達だった。
 クラスの中での九鬼子は、常に浮いた存在だった。九鬼子自身は美勒という友人を得たことによって
 少しづつ活発になっていったが苛めはおさまることはなく、より陰湿で激しいものになっていった。
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「また、今日も苛められた」
 ある日、屋上で美勒は梅雨明けの夏近い空を見上げながら、歌うように言った。
「悔しくないの、九鬼子?」
「美勒…」
「私は悔しいわ。あなたが苛められるのを黙って見ているのは。それに黙って苛められているあなたを見ているのも」
 美勒は続ける。
「前にも言ったわよね。あなたを傷つける人は私が許さないって…、何故だかわかる?」
 挑むような目をして九鬼子を見る。
「美勒…、今日の美勒はちょっとこわいわ。どうしたの?」
 いつもとは違う美勒の雰囲気に、気圧されるように九鬼子が尋ねた。
「言わないといけないかしら? 私が、本当は誰であるのか…、ねぇ、まだ気付かない?」
「美勒、どうしたの? 誰であるかなんて…、美勒は美勒でしょ?」
「そう。私は私ね。…でも、私はあなたでもあるとしたら?」
「何を言ってるの。美勒…。どうしてあなたが私なの?」
 戸惑いを隠せない目で九鬼子は、美勒を見返した。

「そうね、九鬼子。私が知ってるあなたの話をしましょうか。あなたは小さな時から
 他人には見えないものが見えていたわよね。そして他人の心も…、読めたでしょう?」
「美勒…、何故? 何故そんな事を知っているの!」
 真っ青な顔色の九鬼子が問い返す。かまわず美勒は続けた。
「あなたの周りでは、時々怪異が起こったわよね。みんながあなたのことを気味悪く思っていたわ。
 あなたはいつも一人だった。外でも家でも。そう、家の中ですら、あなたはひとりだったわね。
 パパもママも忙しいのを理由にあなたを放っていたわ。パパは仕事で何日も家を空けたわ。
 時々帰ってきても、あなたの顔を見もしなかった。あなたはとても寂しかったわね。
 寂しさの中であなたはたった一人でもいい、友達が欲しいと思った。
 でも、あなたが近づこうとすればするほど、みんなは離れていったわ。あなたは切望したのよ。
 自分を理解して、受け入れてくれる存在を…」
「美勒…」
 九鬼子は自分の体が震えてくるのを感じていた。
「あら、私が怖い? あなたの心がわかるから? 心を読むのはあなたが得意なことじゃないの?」
 からかうような口調で美勒が言った。
「美勒…! 違うわ。 私は心を読んだりしない。勝手に流れ込んでくるのよ! 苦しかったわ。
 人の思っていることがわかるなんて! 流れ込んでくる言葉を止めるのに長い時間がかかったわ」
「そうね。あなたは、他の人が見えないモノが見えて、聞こえない音をきいていた。 普通の人とは少し違う…。
 そんな力を持った人が、何かを強く望んだら、それは形を持って現れることもあるのではないかしら?」
 ニコリと笑いながら、美勒は九鬼子を見た。

「美勒…、あなた…」
「そう、それが私。あなたの寂しい心が創った。あなたの分身。もう一人のあなた。
 ……何を脅えた顔をしているの? あなたが望んだから、私は存在するのよ」
 美勒は九鬼子の目を、まっすぐに見つめて話す。いつの間にか笑顔が消えていた。
 大きな目がきらきら光って美しい。九鬼子は脅えながらも、魅入られていた。
「九鬼子…。あなたの本当の願いを私が叶えてあげましょうか? 気弱なあなたと違って私なら簡単なのよ」
「私の本当の願い…?」
「そう、あなたを苛めているクラスメイトや、あなたのことを見向きもしない両親に対する復讐…」
「美勒! やめて!」
 弾かれたように九鬼子が叫ぶ。自分でも驚くほど、大きな声が出ていた。
「やめて? どうしてなの? あなたの一番の願いじゃないの?」
 意外そうに美勒が目を見張った。
「違うわ! 私はそんなこと願っていないわ。お願いだからやめてちょうだい」
 そう言うと、九鬼子は美勒に背を向けた。
「そう、残念ね…。私はただ、あなたの喜ぶ顔が見たいだけなのに…」
「美勒…?」
 九鬼子が振り返った時、美勒の姿はかき消すように、いなくなっていた。


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