冷たい雨 ―4―


  世界のアパートの前で車を止めた運転手にねぎらいの言葉をかけ、世界は飛葉を引っ張り出すように車から降ろした。タクシーが再び走り出すのを見送ると、世界は無言で飛葉の腕を掴んで部屋に入れる。

「服を脱いでから上に上がれよ」

世界はそう言って風呂場に行った。

 飛葉は世界の言葉に従い、滴が垂れるほど濡れているジャンパーを脱いだ。その時、ポケットから行き場を失った小箱が転がり落ちた。雨に濡れたリボンはしなだれ、滑らかだった包み紙の表面も惨めに波打っている。柄にもないことを考えるから、こんなことになってしまうのだと、飛葉は自らを嘲笑った。子供の頃から疎まれていたことは知っている。母親にとって自分は厄介者でしかなく、それは今も昔も、そしてこれからも変わることはない。ずいぶん前から知っている、分かり切っていた筈だったことが、何故これほど辛いのか――。

 再びとりとめのない考えに憑かれた飛葉を現実に引き戻すように、世界が声をかけた。

「風呂に入れ。汗が出るまで、出てくるな」

いつもと変わらぬ世界の言葉に飛葉は頷き、

「これ、あんたにやる。あんたの女にやるといい」

と、手にしていた小箱を渡した。それからずぶ濡れのパンツとシャツを脱いで三和土にまとめると、

「いつも、悪いな」

と言い残して浴室に消えた。

 奥の和室に腰を下ろした世界は、飛葉に渡された小さな箱を見つめた。ワインレッドの包装紙に金色に書かれた文字が、濡れる前には光沢を放っていたであろう金色のリボンが、その包みが誰かへの贈り物であることを告げている。濡れた包みの中にはやはり落ち着いた色調の赤い布張りの小さなケースが現れ、その蓋を開けるとビロードの上に小さなブローチが収められていた。花を象った銀色の台の中央に、小さいけれども深い湖のような色合いの翡翠があしらわれたそれは、飛葉が恋人に送るにしては幾分地味な印象が拭えない。飛葉の相手が年上であったとしても、いくら何でもこれはないだろう。恋人というよりも母親に贈るほうがまだ相応しい――と思い至った時、世界は雨の中で濡れ鼠になっていた飛葉の頑なな態度や、いきなり押しつけられた小箱の意味を悟った。よく見ると、ビロード張りのケースの中には母の日のために誂えられた小さなカードが添えられており、世界の考えは確信に変わる。

 三段ボックスからグラスとバーボンを取り出した世界は、テーブルの上に置いた小さな箱を眺めながら、苦々しい思いと共に喉を灼く酒を飲み下す。色恋沙汰とはとんと縁のない生活を送っている飛葉にとって、女物の買い物は随分と骨の折れることだったに違いなく、おそらく店の誰かに相談しながら緑色の石のついたブローチを選んだのだろう。そして後先のことなど考えもせず、手持ちの金を全部使ったに違いない。だが飛葉なりに精一杯の気持ちを込めて選んだ母の日のプレゼントが、飛葉の元を離れることはなかった。行き場をなくしたブローチを、飛葉がどんな気持ちで持ち続けていたのかと思いながら、世界は2杯目のバーボンをグラスに注ぐ。常であれば任務の緊張を解きほぐしてくれるはずの琥珀色の液体も、この夜ばかりは何の力も持ち得ず、ただ手持ちぶさたな時間潰し程度にしかならなかった。


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