ある男の生涯―7―


 椎名邸の奥に椎名キヌはいた。未だ床は述べられたままだったが、亡き夫の旧友達を迎えるために控えめに身支度を整えた彼女の姿からは、古い時代を生きた人間だけが持つ潔さのようなものが感じられる。草波に続いて入室したワイルド7のメンバーは夫人の凛とした姿に圧倒されたのか、常のふてぶてしさを微塵も見せることなく末席で居住まいを正した。

「あら……蛍雪学園の学生さんね? あなた、何年生? お名前はなんておっしゃるの?」

「え……二年の、飛葉大陸……だけど」

「そう、飛葉君。学校はどう? 楽しい?」

転校早々、創立以来の問題児として緊急職員会議の主題となっている飛葉が答えに窮している姿を見た他のメンバーは必死で笑いをこらえ、飛葉と八百を蛍雪学園に潜入させた草波と、草波の恩人でもある鳴沢検事の友人達は気まずげに夫人から視線を逸らす。

「彼はご主人の死因の調査のため蛍雪学園に一時的に転入しただけですので……」

 草波の隣の男が事情をかいつまんで説明すると、夫人は小さく叫んだ。

「おっしゃることがわかりません。主人は……椎名末吉は食あたりで亡くなった筈です。それなのに学校で潜入捜査だなんて、とんでもないことです。蛍雪学園の学生達は確かに世間様でいうところのよい子ばかりじゃないかもしれません。でも……でも人様に害をなすような……そんな人の道に外れるような真似をする子などおりません!!」

「しかし、夫人。現在生徒会長の佐藤隆は化学薬品に対する――つまり毒物に関する確かな知識を持っているだけでなく、高校生でありながら学生運動の闘志の一人として、多くの大学生から一目置かれている存在でもある」

草波がキヌを諭すように言うと、彼女は真っ直ぐに草波を見つめて言葉の続きを促した。

「私は――そして私の部下達は椎名氏の旧友の皆さんが抱いた疑惑を解明するため、葬儀の直後から椎名氏の周辺の調査を行っています。しかし決定的な確証が得られないままに今日に至っている。捜査を進展させるためにも、あなたから椎名氏が体調を崩した夜の詳しいお話を伺いたいのです。彼らの潔白を証明したいとお考えならば、尚のことです」

 キヌは哀しげな溜息を一つこぼすと、互いによく見知っている男達に問う。

「皆さん……いったい何故、主人が殺されただなんておっしゃるんですか? 主人と懇意にしてくださっていた皆さんなら、蛍雪学園の子供達が罪を犯すはずがないことを、私よりもわかってくださっているのではありませんか?」

「そう……そう、信じたい。我々も未来ある若者を信じたいという気持ちはあります。しかしタイミングがあまりにも良すぎるんですよ。椎名君が亡くなった二日前、高橋君と椎名君は激しく言い争い、互いにその存在を呪うようなことまで口にしている。高橋君が部長を務める科学部は全国でも知られている、独創的で高いレベルの研究活動を続けている部だ。彼なら誰にも知られることなく、椎名君に害をなすことは考えられなくはない。実際、椎名君の死はあまりにも急だったし、医師から聞いた症状も薬物中毒の可能性がゼロではなかった。それで私達は知人の鳴沢君を通じて、草波君らに秘密裏の調査を依頼したのですよ」

「皆さんが主人に――椎名に示してくださった篤い友情には感謝します」

夫人はその場に会した全員と視線を合わせると、深々と頭を下げた。しかし確信をもってこう言った。

「主人は食あたりで亡くなってしまったのです。ですから高橋君には何の咎もありません……いえ、むしろ断罪されるべきは私です」

「理由をお聞かせくださいますか。我々は今度の事件の真相が知りたいのです」

草波の言葉に夫人は頷き、静かに話し始めた。

◇◇◇

 「あの日、私達は揃って嫁いだ娘の家に出かけました。初孫の雛の節句は前々から楽しみにしておりまして、私達は本当に楽しい一日を過ごしたのです。向こうでは甘酒しか頂けなかったものですから、主人は帰宅してから普段よりも遅い晩酌をすると言いまして、私は久しぶりの外出で疲れていたものですから先に床に就きました。うとうととしかけた頃に主人が休んだのに気づいたのですが、その時には特に変わりはありませんでした。けれどしばらくすると隣で寝ている主人がひどく苦しんでいる様子に目が覚め、私はすぐに救急車を頼んだのです。何か悪いものを食べてしまったのかもしれないと思った私は、冷蔵庫に入れておいた蛸刺しがあるかどうかを確かめに台所にまいりました。そうしたら主人は……主人は蛸刺しを残らず平らげてしまっていたのです」

「失礼ですが、蛸刺しとご主人の死に何の関係が?」

「あの日、行きつけの鮮魚店で求めた蛸差しは少々古かったんですの。それで翌朝にでも鮮魚店に持っていって、こういうものを扱わないでくださいと申し上げようと考えていたものですから……」

「なるほどね、腐ったもんでも捨てずに持ってかねぇと、魚屋にしても難癖つけられてんだか何だか、わかんねぇもんな」

「ええ、そう思いまして冷蔵庫の隅に、隠すように置いておりましたの。けれど蛸刺しが大の好物だった主人は古くなっているのにも気づかずに、全部食べてしまったようです」

「ちょい待ち。いくら好物だって言ってもよ、ひでぇ食あたりを起こすくらい古くなった食い物だったら、臭いでわかるんじゃねぇの?」

飛葉が信じられないとでも言いたげに、夫人に問うた。

「ええ、普通の人であれば気づいたでしょう。実際、私も少々臭うと思いました。でも……」

「でも?」

「主人はひどい蓄膿症で、臭いには極端に鈍感だったのです。ですから少々古くなったくらいでは……」

 それだけ言うと、夫人は涙をこらえるように貌を下に向けた。膝の上で組まれた肉の薄い手は小刻みに震えている。夫の急死という不測の事態に見舞われ、そのショックにより伏せっていた日々は夫人にとって耐え難いものだったであろうことが窺える。しかし彼女は気丈にも椎名末吉が愛して止まなかった蛍雪学園の学生を――多少の感情のぶつかり合いや軋轢はあったにしても、それでも学生達が社会で活躍する姿に喜びを見出していた夫の遺志を守り通したのである。


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