ある男の生涯―1―


 二度の大戦を生き抜いた男が一人、その人生の幕を引いた。

 彼は東京近郊にある農村の貧しい農家の末子として誕生し、一通りの読み書き算盤(そろばん)ができるようになるとすぐに一家の生活を支える働き手として奉公に出された。知識欲が強い上、生まれながらにして聡明であった彼は奉公先の商家での辛い日々の中でも向学心を失うことなく、例えば商品が包まれていた古新聞を読みながら、番頭や本雇いの男達の会話に耳を傾けながら、独り立ちするに必要な知識や教養といったものを身に着け、二年も経つ頃には同じ年頃の丁稚達の中で一人だけ抜きん出た存在となり、それ故に主や番頭をはじめとする大人達に目をかけられた。その一方で同じ年頃の丁稚仲間からは爪弾きにされ、度々陰湿な嫌がらせを受けた。

 今は鬼籍の人となった男は若くして商才を現し、程なくささやかながらも一国一城の主となった。先見の明に秀でた彼は着実に経営の拡充を進め、不惑と呼ばれる歳になるとすぐに彼の夢でもあった理想の学舎づくりに着手した。

 貧しさ故に満足に学校に通えなかった彼は独自の奨学制度を敷き、強い向学心を持つ者や特定の分野で優れた資質を示す者、経済的問題からやむなく進学を諦めねばならない者達に援助の手を差しのべ、必要があれば彼らを学生寮に招くなどして学費や生活費を無利子で提供し、費用の全ては出世払いで変換すればよいとした。彼は少年だった頃に欲した全てを、彼の眼鏡に適った学生達に与えたいと願い、奨学制度の利用を申し出た者全員の面接を自ら行ったという。

 唯我独尊を地でいく彼の哲学は、戦後の民主教育の中で次第に生彩を失っていった。終戦直後は誰もが生きるだけで精一杯の極限状態にあり、学問をする余裕など持ち得なかった。隣国の戦争特需による経済復興が本格化すると誰もが金儲けにうつつを抜かし、金を生み出すどころか金を食うばかりの研究は全て無駄とされた。だが彼が諦めようとはせず、己の哲学を貫き続けた。しかしその人生哲学は学生運動に傾倒していた学生達にとっては単なる独裁でしかなく、彼が築き上げた蛍雪学園という名の理想郷はいつしか殺伐とした空気を孕む、旧世代と新世代の対立の場と化してしまっていた。

 

 

 その男――蛍雪学園の理事長・椎名末吉が急死した。死因は食中毒。

 末吉は数年前に嫁した一人娘に招かれ、初孫を囲むひな祭りの宴に細君のキヌと共に招かれ、そこでちらし寿司や蛤の潮汁、末吉の好物の蛸刺しなどの食事を摂り、夜半にキヌと共に帰宅したという。その時点では末吉に特に異常は見られなかったのだが、床に就いてしばらくすると末吉は急に苦しみだし、キヌの通報により救急車で病院に搬送された。しかし医師達の必死の手当の甲斐もなく、彼は波瀾万丈の生涯の幕を閉じたのである。

 末吉の葬儀は先ず、親族やごく親しい者達が集う密葬が、後に彼が持てる情熱の大部分を注ぎ込んだ蛍雪学園講堂で学園葬が執り行われた。滞りなく学園葬の式次第は進められていたが、生徒会長を務める三年生の佐藤隆が、高等部学生代表として弔辞を読み上げる姿を凝視する者達がいた。彼らは壇上に掲げられた遺影に相対している少年に厳しい視線を送りながら低い声で、自分達にだけ通じるきわめて短い言葉をいくつか交わしたかと思うと誰にも気取られぬよう、けれど急ぎ足で会場を後にした。そして彼らの不審な行動を見咎めた者はというと、白い花で飾られた額縁の中で口元に薄い笑みを浮かべる椎名末吉、唯一人だった。


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