残像 12


 忘れていたつもりの幼い頃や、母親の寂しげな表情を思い出すのは、美奈と裕美の親子に会ったせいかもしれない。

 自分の母と同じように一人で子どもを育てている美奈の瞳には、強い意思の存在を表す光が宿っていた。飛葉の髪を切る時、鏡に映った美奈の表情からはプロとしての自分に誇りを持つ人間だけが持ち得る自信や誇りが感じられた。裕美を見つめる目はあたたかく、優しかった。美奈は強くて優しい。裕美は母に愛され、守られて育ったのであろうことが、始めて言葉を交わした飛葉にも感じられた。そして裕美は、彼女なりの方法で美奈を支え、守ろうとしている。裕美の気持ちは美奈に伝わっている。それは飛葉にもよくわかった。二人は互いに支え合い、守り合うことで母娘の絆を堅固なものにしてきたのだろう。何ものにも揺るがぬほどに強いそれは、不測の事態が生じた時にもびくともしない。そう、例え美奈が初めて愛した男が、裕美の父親かもしれない男が現れたとしても、裕美の親は美奈ただ一人。その事実が変わることは決してないのだと、飛葉は痛感する。

 美奈は世界とやり直すつもりはないと言った。明確な意思が込められた彼女の言葉。世界を否定するわけではなく、また拒絶するものでもない彼女の意思を表す言葉は、母娘で生きることを選択した美奈にとって、世界との日々は既に過去の幸福な思い出の一つに過ぎないことを物語っていた。美奈を愛した無愛想な、けれど優しい恋人は、突然姿を消して戻らなかった。待っても戻らない男を幸福な思い出にすることではじめて、美奈は心の平衡を保つことができたのかもしれない。女手一つで子どもを育てることがどれほど大変であるか、嫌というほど知っている。そして父親のいない子どもの惨めさ、辛さは飛葉自身が身に染みて知っている。

 『裕美は父親が恋しくはないのだろうか』と、飛葉はふと思った。

 美奈は裕美の父を悪し様に言うようなことがなかったことは裕美の様子から知れた。ある日突然かき消えた、初めて愛した男だという世界でさえ、今は彼女の中では幸福な記憶の残像に過ぎないのだ。だから美奈は自分の若い頃の恋を、まるで物語か何かのように語ったのか。その中に登場する男たちとの思い出の中から、幸福な色彩を帯びたものだけを、或いは近い将来、かつての自分と同様に出会いと別れを経験するであろう愛娘に役立つ出来事などを選び出して語ったのかもしれない。

「父親がいないと、大変だよな……あの女も、あの娘も……」

知らず口にした言葉が飛葉の耳に入った。

 もしも世界が現在の美奈の暮らしぶりを知ったら、裕美の存在を知ったらどうするだろうと、飛葉は考えた。

 愛想に欠ける部分があるものの、世界は決して薄情な男ではない。むしろ仲間を気遣う心根の優しい人間であることは、飛葉も承知している。前科のある身だからといって、幸福になる資格がないわけではない。過去に罪を犯し、そして今、法律を盾にとって悪事の限りを尽くす極悪人どもを始末している世界の働きは、過去の罪を償うに十分だ。実際、日本で最も優秀な頭脳の持ち主が集まるという最高学府を首席で卒業した歌手が、学生運動の際の些細な行動が罪に問われ、刑務所に入ることになった青年と、獄中結婚した例もあるくらいなのだから、世界と美奈の再出発の障害になるような問題はない。

 裕美の父親である可能性を知れば、きっと美奈にその真偽を問いただすのではないかと飛葉は思う。そして世界が裕美の父親であることが確かなのであれば、その責任を果たそうとするに違いない。面倒見の良い世界は良い父親になるはずだし、今の世界であれば美奈と裕美の母娘を残し、何も言わずに姿を消すようなこともしないと思う。常に生命の危険にさらされる任務につく自分たちが戻ることのできる、あたたかな場所があることは悪いことではない。心も体も安らげる場所があれば、いつ果てるとも知れない荒んだ仕事に感じるやりきれなさも、少しは薄らぐだろう。

 世界のためだけに用意されている、家庭という優しいものの存在は、世界を自分たちワイルド7のメンバーから遠ざけることになるけれど、それは仕方のないことだ。そうなったとしても、世界が仲間であることに変わらない。一緒に食事をしたり、『ボン』でつるんだり、バイクをいじったりする時間が少なくなる。それだけのことだ。共に死地を駆け抜けることに変わりはない。今までと同じでなくなるのは、世界との距離が少しだけ遠くなること。それだけだ。そんなことにも、すぐ慣れる。美奈との新しい生活を始めることで、世界が幸福になれるのであればいい。世界のことを本当に思うのであれば、本当の仲間なのなら祝福すべきだ。寂しいだとか、つまらなくなるなどといった、つまらない感情を持ってはいけない。だが肝心の世界の心中は飛葉にも図りかねた。

 飛葉は今日、会うことのなかった仲間の顔を思い浮かべる。世界が美奈に好意的な感情を持っていることは、昨夜の二人の様子から容易に知れた。世界よりも遥かに小柄な美奈のために、少し背中を丸めて目線を合わせようとする仕草に、美奈の肩に置かれた手の優しげな様子に、世界の美奈に対する気持ちが表れていたように飛葉には感じられた。それが恋だとか愛だとかいうものかはわからないが、それに似たものは確かにある。

 世界に話すべきだと、飛葉は考えた。しかし美奈には世界とやり直す気はない。裕美の父親はいないのだとも言った。今さら見知らぬ男に父親ヅラされても、裕美は戸惑うだけかもしれない。第一、世界が美奈とやり直すつもりがあるかどうかもわかりはしない。けれど昼間会った刑事の話では、世界は美奈と彼女の友人のために、随分と親身になっていたようだったという。ならばやりなおすことは可能ではないのか。飛葉の知る世界は自分のテリトリーの中に存在を許した人間の全てに親身になれる人間だ。だからこそ十数年ぶりに再開した美奈に対しても、他の仲間に対するのと同じように親切になれる。しかし……。

 不意に窓から明るい光が飛び込み、出口のない、堂々巡りし続けていた飛葉の思考の鎖が断ち切られた。静かなエンジンの音に、窓の外の道をタクシーが通過したことを知った飛葉は、頭の下に置いた両手を抜き、寝返りを打つ。

「俺があれこれ考えたところで、何も変わりゃしねぇよな……」

胸を刺す、微かな痛みをごまかすように、飛葉は独り言を口にした。

「結局、なるようにしか、ならねぇんだ」

そう独りごちると飛葉は、一向に重くならない瞼を無理矢理に閉じて布団の中に潜り込んだ。


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