残像 10
つかの間のツーリングは終わりに近づき、美奈の美容院が視界に入る。飛葉が店の前にバイクを停めると、美奈は軽やかな動作でバイクから降りた。
「ありがとう……懐かしかったわ」
美奈の短い言葉が飛葉の心に沁みる。バイクを走らせている間、美奈が自分と同じように世界のことを考えていたことが嬉しかった。
「これ……」
飛葉がポケットから小さな紙片を取り出した。それは美奈の店の電話の隣に置いてあるメモ用紙だった。飛葉は店の後片づけを手伝っている時に目についたメモに、『ボン』の住所と電話番号を控えていたのだが、それを渡していいものかどうか迷っていたのだ。けれど美奈の心の中、おそらく最も柔らかくあたたかい場所に今も世界がいることを知り、それを手渡すことに決めた。
「俺たちがよくいる店の住所と電話番号」
美奈はそのメモを受け取ろうとはせず、飛葉の手に握らせた。
「言ったでしょう? やり直そうなんて考えられるほど、若くないの」
「嫌いじゃないんだろ?」
「今も好きよ。彼、幸せそうだから、いいの」
「なんでだよ?」
「私ね、今幸せなの。とてもね。だから、同じように幸せでいてくれるなら、それでいいのよ」
「なんで、あいつが幸せだってわかるんだよ」
「君みたいに親身になってくれる仲間がいるんでしょ? それから、昨夜会った人たちだっているんでしょ? だからね」
飛葉は何も言えなかった。
意気消沈した飛葉を元気づけるように、美奈が飛葉に問いかける。
「バイク、習ったんだ」
「今の仕事に就く時に仕込まれた。俺の走りは邪道だとか言って、言われたとおりにできない時は容赦なく殴るんだぜ? 仕事の時はけっこう無茶なことするんだけどよ、俺たち全員、あいつにしごかれてるからこけたりしねぇんだ。で、首になった時には、7人でサーカスにでも潜り込もうかって言っててよ。『すぐにスターになれる』って、あいつ、言うんだ」
飛葉の言葉に、美奈は笑った。
「素手で殴ると手が痛いとか言って、途中で鞭とか棒切れとか持ってくんだぜ。でも、できねぇのはホントだから、誰も文句言えなくてよ。けど、どっか捻ったりしたの、本人が気がついてない時にも、あいつにはわかるんだ。で、マッサージしてくれて……。仏頂面だけど面倒見いいし……だから、あいつのこと、誰もからかったりしねぇよ。
俺ン家、あいつン家と割と近いんだ。で、たまに風呂借りたりすんだけどよ。俺ン家、風呂ねぇから、仕事で遅くなったりして風呂屋閉まって行けなくなること、よくあってさ。ブツブツ文句、言いやがるんだけど、貸してくれるんだ。家、近いから飯も一緒に食うこと多いんだけどよ、大食らいだって笑うんだ。あいつだって結構食うんだけどよ。あ、酒飲みながら飯、食うな。他の連中とたまに飲みに行ってるぜ。ザルなんだ。顔にもあんまり出ねぇからよ、どんだけ飲んだかわかんねぇの。俺たちの中で一番強いかもしんねぇ。よくわかんねぇけどな。みんな、あいつのこと気に入ってるし……うまくいってると思うぜ。仕事ン時とか、つい熱くなっちまったりするじゃねーか。そしたら、あいつが何か言うんだ。そしたら冷静になれるんだ。あいつ、見てないようで見てるから……ちゃんと見てくれてるって知ってるから、安心できんだよ。そんなのは多分、俺だけじゃねぇと思う」
飛葉の言葉に美奈は、微笑みを浮かべながら耳を傾けている。世界が気の良い仲間と共にいることを、彼が頼りになる存在であることを美奈に伝えたかった。美奈の思いとは違う形をとってはいるが、世界を掛け替えのない存在だと考えている仲間が大勢いることを知ってほしかった。彼女にうまく伝えられただろうか。現在の世界を。美奈が抱いている世界への思いと同じだけの重みをもって、自分たちもまた、世界への思いをそれぞれ抱えていることを――。
「ありがとう」
静かに美奈が言った。短いその言葉の中に込められた、言葉にできない思いが強く感じられる。飛葉は再び、先刻その手に戻されたメモを再び美奈に手渡そうとしたが、彼女は頭を振るばかりで、決して白い小さな紙片を受け取ろうとはしなかった。
「いいのかよ?」
「いいのよ」
飛葉はメモを丸めてポケットに入れた。
「帰るよ。夕飯、ごっそーさん」
「気をつけて帰るのよ。いつでもご飯、食べにいらっしゃい。裕美、喜ぶわ。一人っ子だから、良いお兄ちゃんとでも思ってるみたいね」
「約束は……できねーんだ」
「いいのよ、それで」
全てを承知しているように、美奈が微笑んだ。
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