残像 9


 家のドアを開けた裕美は急いで靴を脱ぎ、居間にいた美奈に初めてバイクの後ろに乗った感想を早口で報告する。飛葉は三和土に立ったまま、そんな二人を眺めていた。靴を脱ごうとしない飛葉に気付いた美奈が、飛葉を手招きした。

「どうしたの? 上がんなさいよ」

飛葉が美奈に言った。

「あんたも乗るかい?」

「お母さん、乗っけてもらえば? すごく楽しいよ」

美奈は少し考える様子を見せた後、

「いいかもしれないわね。……15年ぶりだわ」

と言い、ゆっくりと立ち上がった。

 飛葉の腰にゆったりとまわされた美奈の腕は、無邪気にしがみついてきた裕美のそれとは違っていた。ほんの少しの躊躇いを感じさせる、遠い思い出を辿るような美奈の仕草から、彼女が世界と暮らした日々の断片を見たような気がした。

「行くぜ」

飛葉が美奈に声をかけると、彼女は飛葉の胸の下で重ねた両手に力を入れた。

◇◇◇

 飛葉は裕美を乗せた時とは違うコースを選んだ。ライダーの癖が出やすいコーナーの多い道で、できるかぎり世界のライディングをトレースする。

 それはワイルド7が結成されて間もない頃、軽井沢にあった、その時には既に打ち捨てられていた牧場でたたき込まれたライディングだった。車体と身体を完全に一体にし、どんな時にも揺らぐことがない、突発的なアクシデントや激しい車体の移動にも柔軟に対応できるポジショニングは、世界がサーカス団にいた頃、バイクを使ったスタントの訓練の時に身につけたものだと聞いたことがある。

 人並み以上の反射神経と運動神経に恵まれていた飛葉にとって、オートバイの操縦などは難しいものではなかった。だが充分な基礎訓練を受けることがなかったため、暴走族に特有の荒っぽい癖の強い走りしか知らなかった飛葉は、世界の指示通りの走りができるまで、何度も殴られたり罵られたりしたものだ。妥協を許さないその態度に、最初は腹を立てることも多かったが、世界に教えられる走りを身体が覚えるにつれてどんな悪路も難なく走り抜けられるようになり、車体が無駄に揺れることもなくなった。スタントマンでも転倒しかねないような状況でも、バイクを手足のように動かせるようになった。

 それから彼らは世界のハーレーのシートの後部に装備された補助オプションを使ったジャンプの練習をはじめとする、曲芸やスタントの範疇に入れられるようなライディングの訓練に入った。その時にも世界は一切の妥協を許さなかった。『時間が惜しい』などと言い出しては、いきなり自分と同じレベルのテクニックを要求し、それをこなせない時には鳩尾に拳を打ち込む。そうかと思えば、『焦ることはない』などと言う。飛葉にとって世界のそういった態度は、最初こそ不可解なものではあったが、次第に世界という男の輪郭のようなものが見え出し、その男自身が彼の操るオートバイのように、少々のことでは揺るぎはしないのだという確信を持つようになった頃には、世界という人間に一目を置くようになっていた。

 数週間の特訓の末、飛葉が全てのコンビネーションプレイを完全にものにした時、世界は初めて満足そうな笑顔を飛葉に見せた。仏頂面を絵に描いたような男が、その奥深くに秘めていた、懐の広さのようなものをかいま見た気がしたものだった。

◇◇◇

 飛葉の腰にまわされた美奈の両腕に、緊張や恐怖のために力が入ることはなかった。彼女はまるでバイクの動きを全て承知しているかのように重心を移し、直線では心からリラックスしているように感じられる。

 夜の空気を切り裂いて走る間、飛葉は世界に思いを馳せていた。今、飛葉の胸の下にまわされている手の温もりを、かつて世界も感じていたであろうことを。ワイルド7のメンバーとして血生臭い生活を送っている男にも、かつて平穏な生活があったことを。そしてもはや、それは過ぎ去った過去でしかなく、二度と取り戻せはしないことも――。


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