残像 6


 美奈はそう言ってマグカップに口をつけた。それから新しい煙草に火を点け、深く息を吸う。その仕草は、どこか世界に似ているような気がする。そんなものは誰のものでも大した違いはないとも思うのだが、二人が一緒に暮らしたことがあると聞いたせいで、似ているはずだと決めてしまっているのかもしれない。

「どうしたの?」

美奈の手元に視線を注いでいる飛葉に、彼女が訊いた。

「同じ煙草だと思って……」

「ああ、そうね」

「女は吸うなって、言われたりしなかった?」

美奈は何かに思いを巡らすように目線を上げ、

「そんなこと、言わなかったわね。あ、というより、言えないのよ。向こうのほうが、ひどいヘビースモーカーだもの。今は? 相変わらず多いの?」

と言った。

「俺は煙草、吸わねぇからわかんねぇけど……俺たちの中では一番よく吸うな。本数までは知らないけどな」

飛葉の言葉に短い返事を返し、美奈は微笑みを浮かべる。

「なあ……」

言い淀む飛葉の言葉を美奈は静かに待っていた。その表情は美奈がこれまで飛葉に見せていたものとは少し違っている。年少のごく親しい人間に向けられるかのような笑みは、飛葉が美奈に対して抱いていた警戒心を解くに充分な力があった。美奈に対する意識の変化のせいか、飛葉は自分でも驚くほど素直になることができた。

「あんた? あいつに散髪教えたのって」

「そうよ。今も覚えててくれてただけじゃなくて、他人の髪を切ってるなんて嬉しいわ」

そう言うと美奈は、飛葉の髪を指先でくしゃくしゃとかき回す。

「旅暮らしでしょう、サーカスって。だから皆、自分たちでできることは自分たちで片づけるような感じがあるの。ずっとサーカスで暮らしてる人は芸とか、そんなのを教えてくれて、私みたいに後から入った人間は、得意なことを仕事にするの。その時、美容師はいなかったから重宝されたのよ。髪を結い上げる時のちょっとしたコツとかね、見よう見まねだけじゃわかんないとこあるの。髪を切るのものね。

 私が髪を誰かの髪を切ってるのを、よく眺めてはいたの。で、ある日、『こうやるのか』って、訊いてくるじゃない。驚いたわよ。他の人に教えたりしたことはあったけど、そんな時は知らん顔してたくせにね。いつの間に覚えたのかしら、髪の切り方を覚えるくらい、私を見ててくれたのかしらって思ってね、すごく嬉しかったわ。それから何人かの団員に練習台になってもらって……。元々器用なのね。基本はすぐに覚えたわ。他にも色々できるのよ。機械だとか電気製品の修理とか、簡単な大工仕事とか……。あとね、仕事柄ケガとか多いじゃない? だから傷の手当も、手術を受けなくちゃならないくらいひどくなければね、大丈夫。肉離れなんかの時のマッサージなんかもね……。彼だけじゃなくてね、誰が教えたのかは知らないけど、古株の団員は皆上手かったわよ。」

「けど、料理はできねぇよな。台所でよ、馬鹿みてーに突っ立てるだけでよ」

飛葉が笑いながら言った。すると美奈は、世界を庇うかのような口調で言葉を返した。

「しょうがないでしょ。料理とか洗濯とか針仕事は女たちの仕事だったんだもの。そのかわり、猛獣の世話が上手だったから、いいのよ。ね、どうして、そんなこと知ってるの? 料理が苦手だってこと」

「前に……仕事で山ン中の一軒家で住んでたことあんだよ。男ばっか7人で。そん時、一人だけ米も研いだことねぇとか言ったもんだから、俺たちに散々笑われてんの」

「本当のこと言われると、何も言い返さないのよね。で、つまんなそうな顔してたでしょ」

「そうそう、そんな感じ」

「いくつになっても、変わんないのね」

二人は笑った。世界を知っているという共通点を持ちながらも、異なる場所に立っていた筈の飛葉と美奈の距離が急速に近づいたように感じられた。

 ひとしきり笑った飛葉が、美奈に尋ねた。

「なんで、別れたの?」

美奈が飛葉の目を見つめる。

「あ、いいんだ。言いたくないんだったら。おもしれぇ話じゃねーもんな」

飛葉は慌てて言い足した。そして足下に目を落とすと、

「ごめん。変なこと訊いて」

と、謝罪の言葉を口にした。飛葉の言葉を予想していたのか、美奈はまるで昨日の天気の話をするかのような口調で

「別れたっていうより……戻ってこなかったの。で、それっきりよ」

と言った。

◇◇◇

 「一緒に暮らすようになって……1年……2年くらい経った頃よ。ある日、出かけたまま、何日経っても戻ってこなかったの。もうその頃には他の女の気配もなかったんだけど……でも時々、何も言わずに出かけることがあったわ。女の所に行った時はわかるじゃない。香水とかお酒とか石鹸とか、残り香とか移り香とかでわかるの。どこにいたのか。でもね、そんな気配が全然ないのに、ひどく疲れた顔をして戻ることがあって。たまに2〜3日くらい戻らないこともあったけど、舞台に穴を空けたことなかった。どんな時も、戻ってきたわ。

 サーカスが、いろんな人たちに夢を見せることのできるサーカスが、本当に好きだったのよね。空中ブランコで誰よりも難しい技をこなすことに誇りを持ってた。だから練習の時だって妥協しないし、いつでも完璧を求めるの。舞台に関しては完璧主義者だったから、パートナーとよく衝突してたわ。でも絶対に折れたりしない。舞台の上では実力のある人間が勝つの。だから、いつもいつも、もっと高いところへ行こうとしてた。そんな彼だったからサーカスを、空中ブランコを投げ出すことなんて絶対にしない。そう確信してたわ。だから、必ず舞台の前には、そう、舞台に上がる直前にはきっと帰ってくるって信じてた。私も、他の仲間も、そう信じてたわ。

 でも戻らなかった。噂一つ聞かなかった。私も探したし、他の仲間もあちこち探し回ったのに、まるで彼は最初からこの世にいない人間みたいに、誰も何も知らない。彼を見かけた人も、彼の噂を聞いた人も見つからないし、そうこうしてる間に次の街に移ることになって……。もしかしたら戻ってくれるかも知れないって――もう戻らないって、わかってるのにね、戻ってくるって思いたかったのよ。好きだったから。最初は私だけが彼に恋をしていた一方的な片思いだったけど、私の思いを受け止めてくれたんだもの。だからね、もしも何かの事情ですぐには戻れないかもしれない。でもきっと戻ってくる。その時に彼の心も身体も受け止めたかった。そう思うことが唯一の絆だったから、彼を待つことにしたの。

 他の人たちも勧めてくれたから、しばらくサーカス団の人たちと一緒にいたの。半年くらい。サーカスの人たちは旅を続けたけど、私はこの街に残ることにして、それから働き口を探して、ずっとここに住んでるわ。

 美容師って便利なの。資格と技術と経験さえあれば、どこでだって暮らしていけるのよ。女一人でも頑張りさえすれば、これくらいの店を持てるようになるしね」

そう言って、美奈はあっけらかんと話を締めくくった。

◇◇◇

 「大変だったんだ」

「誰だって似たようなもんでしょ」

「なんで、ずっとここにいたの?」

「色々と事情があったの」

そう言うと、美奈は新しい煙草に火を点けた。飛葉は煙草をくゆらしている美奈の横顔を眺める。

 美奈は何も言わなかった。

 飛葉は、彼女が今も世界を想っているのではないかと思った。根拠はない。けれど何かのきっかけさえあれば再び、二人が幸福な暮らしを取り戻すことができるのではないかという考えは、どんどん強くなる。

「やり直さないの? あいつ、今、一人だぜ」

飛葉が言った。

 美奈は飛葉の言葉に、心持ち目を見開きはしたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて答えた。

「それができるほど、もう若くないのよ」

「二人とも、嫌いで別れたわけじゃないんだろ? だったら……」

「そうね。嫌いじゃなっかたわ。今も好きよ、私はね。でも……そういうのじゃないの」

美奈は飛葉の言葉を遮るように言い、煙草の灰を灰皿に落とす。ゆっくりと息を吸うごとに火は明るさを増し、次いで、美奈が紫煙を吐く。それが何度か繰り返されたが、美奈は無言のままだった。美奈の様子は飛葉に話せるようなことが何もないようにとることができたが、飛葉の突飛な言葉に思案を巡らせているようにも見えないこともない。だから飛葉は、美奈の考えがまとまるまで待つことに決め、既に冷めてしまっているコーヒーをゆっくりと飲んだ。コーヒーがなくなったら帰るように言われるかもしれない。そう考えた飛葉は注意深く、少しずつ、乾いた唇をほんの少し潤すだけを口にする。美奈は何も言わない。飛葉もまた沈黙を守っている。

 居心地が悪いような悪くないような、不思議な静寂が店の中を満たしていた。

◇◇◇

 「ただいま」

溌剌とした声が、声に飛葉が顔を上げると、セーラー服に身を包んだ少女が立っていた。少女は飛葉の顔を見ると、

「いらっしゃいませ」

と、笑顔を浮かべて言った。そして美奈に

「母さんたら、煙草吸ってる場合じゃないでしょ。お客さん、ほったらかしたままで」

と、咎めるように詰め寄る。

「ああ、ああ。しっかり者の娘が帰ってきた」

美奈は笑いながらそう言うと、煙草を消して立ち上がり、少女の肩に手を置いて

「娘の裕美(ひろみ)。私に似て美人でしょ?」

と言い、それから裕美を見て

「裕美、この人、母さんの昔の知り合いのお友だちよ。挨拶しなさい」

と言った。

「こんにちわ。はじめまして。加納裕美です」

少女がぺこりと頭を下げるのにつられるように、飛葉も慌てて立ち上がって挨拶の言葉と名前を告げる。

「裕美、早く着替えてらっしゃい。それからね、こっちのお兄さんの分も夕食、お願いね」

「うん、わかったわ」

こちらの都合などお構いなしに夕食を共にすることにされた飛葉が異を唱えると、少女が驚いた表情で

「大丈夫。子どもの頃から母さんの手伝いしてるから、お料理上手なのよ」

と言って笑う。

「そうよ。最近じゃ私が作るより美味しいのよ。ね、食べていきなさい。若い男の子が遠慮なんかするもんじゃないわ」

と、当然のように美奈が言った。それでもと、飛葉が遠慮するような素振りを見せると

「いいわ。じゃ、夕食代の代わりに店の後片づけを手伝ってちょうだい。それなら、遠慮しなくてすむでしょ?」

と、美奈が言い、少女は母親の図々しさに多少呆れながらも、その言葉に賛同の意を示す。強引ではあるが、決して不愉快ではない二人の態度に飛葉は、お手上げだと言いたげに肩を竦め

「あんたらには、かなわねーよ」

と笑った。


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