残像 5


 週明けの夕方からは暇だからと、美奈は飛葉を片隅にある椅子に座らせ、店の奥へと消えた。居心地の悪い思いがしないでもなかったが、美奈の妙に押しの強い言動にかなわないことが身に染みてしまっている飛葉は、逆らおうなどとは考えもしなかった。本人が語らない話を世界以外の人間から聞き出すことに気が咎めないではなかった。けれど今は、美奈と世界の過去に対する好奇心のほうが遥かに勝っていたのだ。

「コーヒー、飲めるでしょ?」

美奈が湯気の立つマグカップを二つ、テーブルに置く。そして飛葉の隣に腰掛けて灰皿を引き寄せて、ポケットから取り出した、世界のものと同じ銘柄の煙草に火を点けた。

「何から話そうか?」

飛葉はつかの間の沈黙の後、美奈の問いに答えた。

「わかんねぇよ。俺……俺たちはたぶん、何も知っちゃいないんだ。……だから……何っつっても……」

飛葉は両手で持ったマグカップから目を離さない。美奈もまた、手にした煙草の先端から上る紫煙を眺めていた。

「そっか……。じゃ、適当に話すわね」

そう言うと美奈はコーヒーを一口飲み、昔語りを始めた。

◇◇◇

 「中学を出てすぐに美容師の勉強を始めたの。働きながら専門学校で勉強して、資格取って……結構真面目だったのよ、これでも。

 18歳の時、私が働いていたお店がある町にサーカスが来てね。店が休みの日に同僚と一緒に見物に行ったのよ。素敵だったわよ。舞台全部、キラキラ光ってて……。特に空中ブランコがね。人がまるで猫や小鳥やリスみたいにね、ブランコから飛んだり、向かいのブランコに飛び移ったりするじゃない。動いてるブランコからブランコに飛び移るのを見た時は、本当にドキドキしたわ。サーカスを見たの初めてだったから、テントを出る時には夢見心地でね、うっかり誰かにぶつかっちゃったのよ。それが質の悪い男で、私と友達二人して絡まれちゃってね。その時、助けてくれたの」

「ケンカになった?」

「ううん。彼、結構いい身体してるでしょ? 私たちに絡んできた男の腕を簡単に捻りあげてね、何か小声で言ったのね。すぐに顔色が変わったもの、そいつ。で、すぐに逃げてったわ。私たちがお礼を言ったら、『気にしなくていい』って言ってくれてね。笑った顔がステキでね。今なら営業用の笑顔だったってわかるけど、あの頃はそんなの知らないじゃない。一目惚れしちゃったのよ。次の日も、次の日も仕事が終わってから会いに行ったの。びっくりはしてたみたいだったけど、迷惑そうな顔はしなかったから毎日押し掛け続けて、とうとう押し掛け女房になっちゃったのよ」

「あいつ、何か言った?」

「何も」

「なのに、なんで……」

「私が好きになったからよ。他に理由なんかないわ」

美奈はそう言って笑い、話を続けた。

「最初はね、冗談じゃないって言われたの。一緒に住む気がないどころか、私のことなんか好きでも何でもないって。でも私、美容院を黙って飛び出してきちゃったもんから、帰ろうにも戻れる所もなくてね。居候させてほしいって――修行中とはいえ美容師の端くれだから、サーカス団の皆の髪の手入れをするし、和服の着付けもできる。裁縫だってできるって言って頼み込んで、殆ど無理矢理にサーカス団に入れてもらったのよ。サーカスの人たち全員に思いっきり呆れられたわ。決まってるでしょ?

 で、最初は独身の女性団員の部屋で寝泊まりしてたの。それからチャンスを見つけては側にくっついているようにして、髪を整えてあげたり……ヒゲを剃ってあげたこともあったな。周りの人たちが冷やかしたり、乗せようとしたりするし、私は私で始終一緒にいたんだけどね、それでも彼、指一本触れようとはしなかったな。……そうね、サーカス団に入って半年くらい……それくらい経った頃からね。一緒に暮らし始めたのは。

 旅暮らしでしょう? 何カ月か経ったら次の街へ移るんだけどね、行く街、行く街に女がいたわ。舞台がはねるとね、誰かが訪ねてくるの。で、出かけちゃうのね。一つの街で女が何人も来たこともあったわ。口数が少なくて無愛想なんだけどね、あれで結構もてたのよ」

美奈は短くなった煙草を灰皿に押し付けた。

「でもね、私の知らない女が何人来ても気にならなかった。気分がいいわけないけどね、でも、いつだって優しかったから。とても優しくてね。それに、いつだって朝になる前に戻ってきてくれたもの。誰かとどこかに出かけても、必ず戻ってきたの。だから待つのも苦にはならなかったのよ。口数は少ないし、愛想があるわけでもなかったけど、とても優しかったな……」

「そういうとこが好きだった?」

「ええ。それから強いとこ……我慢強いところもね。

 舞台でスポットライトを浴びてる姿がカッコいいの。新しい技だとか、難しい技を決めた時はね、普段よりももっとステキな顔になるの。でもね、練習の時はすごく厳しい顔になっちゃうのね。そんな厳しい表情も好きよ。技が上手くいかない時とか、舞台に立ってテントの一番上の方にあるブランコを見上げてるの。何時間も。その時の真剣な目がね……本当はステキだなんて言ってる場合じゃないんだけど、でもステキだったわ。練習の時も、舞台に立ってる時も、思うように身体を動かせた時も、そうじゃない時も、いつだって真剣で一生懸命で、素敵だった。惚れてたせいでそう見えたって言われたら、何も言えやしないんだけど……でも……そうね、私は好きだったな」


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