残像 4


 警察署から20分ほどバイクを走らせた街に、美奈が経営する美容院はあった。駅から少し離れた、簡素な造りの店の向かい側、車がやっと行き違うだけの幅しかない道路の端にバイクを停め、飛葉はぼんやりと店の様子を眺めていた。

 何をどうしたいというわけではない。ふと八百の言葉を思い出した飛葉は、何故美奈の存在がこんなにも気にかかるのか考えてみるのだが、美奈が世界と親しいからという理由しか思い浮かばなかった。もしも美奈が八百と親しかったのであれば、これほど気になることはなかったかもしれない。日頃から女性に対してまめな八百の場合、両手の指を使っても数え切れないほどの恋人が過去に、そして現在いても不思議ではないからだ。だが飛葉の知る限り、女の気配さえ見せない世界に深い付き合いの女がいたことが意外だった。僅か数カ月のこととはいえ、ワイルド7のメンバーの中で最も付き合いの長い仲間だからなのか、ワイルド7結成時に何かと世話になったからなのか、その両方なのか、それとも違う理由からなのか。

 とりとめのない思考は堂々巡りを始め、求める答の輪郭はどんどんとぼやけ始める。思いを巡らせるほどに、核心が遠のいてしまうことに苛立ちを覚えながらも考えることがやめられない。飛葉は心中に焦燥めいた感情が生まれつつあることに気がつき、この場から立ち去ろうとも思った。しかし彼の意思に反するかのように、身体は動かない。

 不意に飛葉の肩に誰かの手が置かれた。飛葉が驚いて顔を上げると、そこには昨夜、世界が美奈と呼んだ女がいた。

「やーっと、こっち向いてくれたわね。さっきから呼んでるのに、全然気がつかないんだもの」

女が笑う。その笑顔は警察署の廊下で世界に向けらた鮮やかなものではなく、適度に親しい者に向けられる表情だった。

「仕事は?」

美奈がオイルタンクを指で辿りながら尋ねた。その仕草と表情からは、見知らぬ男に対する警戒の念は感じられない。変な女だと飛葉は思ったが、敢えてそれを口にはせず

「もう、終わった」

とだけ、答えた。

「そう。こんなとこに突っ立ってないで、店にいらっしゃい。」

当然のように飛葉を誘う美奈に飛葉は少々面食らい、辞退の言葉を口にしたのだが、美奈はそれを聞き入れようとはしない。そして、やはり当然だと言わんばかりに、

「遠慮しないの。彼の友達は私の友達、彼の仲間は私の仲間。わかった? 店の前にバイクを停めてらっしゃい。あ、入口を塞がないようにね」

そう言い残し、飛葉を振り返ることもなく店に入った。まるで飛葉が美奈の言葉に従うことを確信しているかのような後ろ姿に、

「かなわねぇな」

と、飛葉は少々呆れながら独りごち、バイクを移動させた。

◇◇◇

 飛葉が店に入ると、美奈はナイロン製のケープを手に、待ちかまえていたかのように立っていた。彼女は飛葉の腕を取って無理矢理に椅子に座らせると、手際よくケープを飛葉の首に巻き始める。そんな彼女の行動に驚いた飛葉は、抗議の声を上げた。

「おい、あんた」

「あんたじゃないわ。美奈よ」

「美奈さん、いきなり何の真似だよ」

「髪、切ってあげる」

「いいよ。この間行った」

「嘘おっしゃい。耳のとこ、伸びてるわ」

「いいって」

そう言って席を立とうとする飛葉の肩に後ろから左手で押さえつけ、右手に持った鋏の切っ先を耳から5センチほど下がった辺りに当てた。

「おい……何するつもりだ?」

頚動脈の辺りに鋏を突きつけられた形になった飛葉は、ゆっくりとした動作で椅子に座りなおす。鏡に映った飛葉の様子を見続けていた美奈は、飛葉が椅子に落ち着いたのを見届けると、悪戯っぽく笑った。

「中途半端に伸びた髪って嫌いなのよ。観念なさい。私に少しだけつき合うだけで、今より色男にしてあげる」

 滑らかに動く櫛が飛葉の髪を滑る。初めて触れる飛葉の髪を吟味するかのように、美奈の左手も動いている。鏡の中の美奈の表情は昨夜世界に見せたものではなく、先刻から飛葉に見せていた大多数の親しい人間に向けられる種類のものでもなく、また客のために用意された営業用ものでもない。プロとして生きることを決めた人間だけが持ち得る、厳しさを秘めた眼差しだった。

 不意に鏡越し、飛葉と皆の視線が合う。途端に美奈はその面に笑顔を浮かべて

「柔らかくて、少しクセがあって……。まるで子どもみたいな髪ね」

と言う。

「あいつと……同じこと、言うんだな」

感心したような、驚いたような飛葉の言葉に、美奈は微かな微笑みを浮かべた。そして短い沈黙の後、

「髪、切ってもらったことあるの?」

と尋ね返してきた。

「時々。仕事が暇な時とか……」

「ふーん」

 美奈は世界を、飛葉の知らない名前で呼ぶ。その名前は世界のアパートで見かける表札に記されているものでもない。

 飛葉は彼の仲間の一人であり、ワイルド7のメンバーの最年長者であり、ワイルド7結成当初、元サーカス団員という経歴を生かしてバイクの操縦指導役を担った男を『世界』と呼んでいる。初対面の時、口ヒゲを蓄えた男は『世界』と自らを名乗った。以来、飛葉は『世界』と男を呼び続け、今では男が『世界』であることが当然のようになっている。

 美奈の使う名前、そして世界のアパートの玄関にある、部屋の主を示す筈の表札のどちらが偽りを、どちらが真実を語っているのだろうと飛葉は思う。だが両方が嘘だという可能性も否定できない。名前を変えるのは簡単なことだ。多少手間がかかるのだが、その気になれば住民票だのを操作して、社会的に他人になりすますこともできないわけではない。それを使えば、他人の名前で運転免許証を取ることもできる。だから自分が『世界』と呼んでいる男が、美奈が知っている筈の男でもなく、表札が存在を証明している男でもないという可能性も否定できない。

 まらば飛葉自身と共に死地で闘ってきた彼は一体、何者なのだろうか。

 そんな、答が見つかる筈のない思考にとらわれていた飛葉の両頬に、いきなり冷んやりとした手が当てられた。

「どうしたの? 気に入らない?」

鏡の中で、少し心配そうにしている美奈に向かって飛葉は軽く頭を振る。

「そんなこと、ねーよ。あんた……じゃなくて、美奈さん上手いね」

「そりゃぁ、そうよ。これで生活してるんだから」

そう言うと美奈は、再び鋏と櫛を動かし始めた。軽快なリズムを刻む鋏は、まるで精巧な機械のように動く。飛葉はぼんやりと鏡を眺める。

「訊きたいこと、あるんでしょ?」

美奈が手元から顔を上げずに言った。

「そんな顔、してる」

黙り込んだまま鏡を眺めている飛葉の表情をうかがうように、更に美奈が言葉を重ねる。

「当ててみようか……。そうね……昔話でも訊きたくて来たんじゃないの?」

美奈は仕上がり具合を確かめるように、あらゆる角度から飛葉の頭部を眺め、所々に少し鋏を入れる。

「……わかんねぇ。仕事でまた、あそこ……昨夜の警察に行ったんだ。で、あんたらの話を聞かされて、何となく……」

「で、道の向こうから店を眺めてたの? どれくらい?」

「さぁな……覚えてねぇ」

「入ってくればよかったのに」

美奈はヘアドライヤーを取り出し、櫛で髪を撫でつけながら熱風を当て始めた。入ってくるのが当然だと言わんばかりの美奈の言葉に、飛葉は憮然とした表情で黙り込んでいる。それを見た美奈が軽く飛葉の髪を撫で、

「怒んないの」

と言った。初対面同様の美奈に子ども扱いされて不機嫌になった飛葉は、そんな感情を隠そうともせずに

「ガキ扱いすんじゃねーよ」

と言う。

「今、いくつ?」

美奈の問に飛葉が

「もうじき18」

と答えると、美奈は母親のような表情で鏡に映る飛葉を見て言った。

「17歳か。まだまだ可愛い盛りね」

先刻の抗議を気にすることもなく自身を子ども扱いする美奈に、飛葉はもう何も言わなかった。


HOME ワイルド7 創作 長めの連載創作 NEXT