七夜目の真実―Side of Conclusion 6th―


 抱えていた事件を解決し、世界と共に家路を辿っている飛葉が

「腹減ったな」

と、言った。世界が腕の時計を見ると、既に時刻は10時をまわっている。

「この時間じゃ、飯屋はもう閉まってるな」

「寿司、食おうぜ。いつかの、威勢の良い爺さんの店なら開いてるだろ」

「ああ。そう言えば、お前の顔を見たがってたな。威勢の良いチビはどうしたって言ってたぞ」

「相変わらず、口の減らねぇ爺だぜ」

「達者な証拠だ。大目に見てやれ」

飛葉は面白くなさそうに鼻を鳴らすと足早に歩みを進め、時折少し遅れて歩く世界を振り向き、早く来いと声をかける。世界は空き腹を抱えた者には敵わないと文句を言いながらも、飛葉に合わせて歩調を早めた。

 引き戸を開けた二人を老店主の威勢の良い声が迎える。飛葉と世界がカウンターに座った途端、痩躯の老店主は相好を崩して飛葉をからかい始めた。飛葉は無遠慮な調子で店主にやり返すのだが、すぐにムキになる性格が災いし、逆にやり込められてしまう。祖父と孫ほどに歳の離れた二人のやり取りを眺めながら晩酌を楽しんでいる世界が標的になった。妙に呼吸の合う二人のからかいに辟易した世界は老人には苦笑で、そして飛葉には小言で応じる。そんな風に、彼らの陽気な食事は続いていた。

 佐倉川について、誰も話題にしなかった。世界と佐倉川が幾度か顔を合わせているところに居合わせていた筈の老店主は何も言わない。飛葉のような人間が佐倉川の友人であったならと言っていた、地域の世話人を務めている老人の楽しげな様子に、世界は複雑な心境になる。

 例えば――それはあり得ない仮定だと言えたが――一人でも心を寄せられる人間がそばにいたならば、佐倉川は罪を犯すことなく、平凡で幸福な一生を送ったのだろうか。何よりも欲した人間の自由を奪わなければならないほどに佐倉川が追い詰められていたのなら、彼を結果的に追い詰めてしまった周囲もまた、断罪されるべきではないのか。他者を侵すことなく暮らしている人々を糾弾するつもりもなく、正しい判断力を持ち得なかった佐倉川を擁護する気など、毛頭ない。しかし佐倉川の胸中が全く理解できないわけではなかった。愛しい者に対する独占欲の一つや二つ、世界とて人並みに持ってはいる。ただ、それが単なる自己満足であり、相手を苦しめることにしかならないのだということを承知している以上、誰も実際の行動に移したりはしない。

 常軌を逸した佐倉川の犯した罪が断罪されるべきものであることに間違いはない。それは真実だと言えた。しかし裁かれるはずの罪人は己の世界に閉じこもり、人としての責任を果たすことなく白い壁を唯一の相手に暮らしている。それが現実だった。もはや何人も佐倉川を断罪できず、彼はその生涯を清潔な病院の中で終えるのだろう。それは佐倉川にとっても、地下室から出ることが叶わなかった6人の被害者とその周囲の人々にとって不毛な結末でしかない。しかし、それもまた現実なのだ。

 「おい、世界って。聞こえねぇほど、酔っぱらっちまったのかよ」

飛葉の声に、世界は不意に現実に引き戻された。

「皿、空になってるぜ。もう、食わねぇのか」

飛葉は普段と変わらない食欲を見せ、次から次へと海苔巻きだとか、ワサビ抜きの胡瓜巻だのを食べている。世界はその姿に安堵を覚えた。

「そうだな……穴子をもらおうか」

「酒ばっか飲んでも、腹脹れねぇんじゃねーの」

「お前が食いすぎだ、飛葉」

「ああ、坊主は人の三倍は食うな。こっちの旦那は並みってとこだ」

老人が笑いながら口を挟んだのを機に、世界は再び和やかな食事に意識を戻した。

◇◇◇

 支払いをするのだと言い張る飛葉に追い出された世界は、既に暖簾が外された戸口に立っていた。

「ったく、あのジジイ。俺をガキ扱いしやがって……」

飛葉が悪態をつきながら、けれど嬉しそうな顔で店から出てきた。

「見ろよ、世界。あの爺さん、俺にこんなものを寄越しやがった」

そう言うと飛葉は、チョコレートとキャラメルを見せる。

「パチンコの景品だってよ」

「好物を貰っておいて、文句を言うな。爺さん、お前の顔を見られたのが、よほど嬉しかったんだろうよ」

「ありゃ、俺をからかうのが気に入ってんだ。そうに決まってる」

 微笑を浮かべて文句を並べる飛葉と世界は再び家路を辿り始める。

「それにしても、今日はどういう風の吹き回しだ」

世界が問うた。

「コイツの礼だ」

飛葉はそう答えると、ポケットから取り出したものを世界の掌に乗せる。世界が手を見ると、鈍く光る小さな鋼の棒があった。

「お陰で助かった。返しとくぜ」

もはや使い物にならないことが一目でわかるほどに歪み、刃こぼれしている細い鋸の刃に世界は苦笑する。

「返されてもな……これはもう、使い物にはならん」

「役に立ってくれた証拠だ。ありがたく受け取っときな」

軽く笑いながら、世界はポケットにそれを収めた。

 世界と飛葉の家路を分ける三叉路で、

「なんで、俺があそこにいると思ったんだ」

と、不意に飛葉が世界に尋ねた。

「お前を捜すことになった日、この辺りを回っていた時だ。あの親爺に偶然会って、店で夕飯を食った。あの爺さん、あれでこの辺りの世話役をしてるってのを聞いたことがあった。だから、何かネタが拾えるかと考えたってワケだ。

 俺の他には近所の夫婦連れがいて、そこに佐倉川が寿司を買いに来た。独り暮らしのはずなのに、ヤツは三人前の寿司を買った。次の日、また店に行ったら佐倉川が三人前の寿司を買った。ご丁寧にサビ抜きの胡瓜巻をな。それが妙に引っかかった」

「俺が、野郎の屋敷にいるって、思ったのか」

「サビ抜きの胡瓜巻を食うヤツを、他に知らんからな」

「それだけで糸鋸の刃を差し入れるのかよ。あんたって男は」

「俺たちが追っていた独り暮らしの男が三人分の寿司を買った。これは佐倉川以外の人間が、あの家にいる可能性を示している。そう考えるほうが自然だ」

「で、サビ抜きの胡瓜巻が、俺のいる根拠だったってワケか」

「こうも、見事に当たるとは思わなかったがな」

飛葉は束の間、呆気にとられた表情で世界を見た。それから足下に視線を落とすと、堪えきれないといった様子で笑い始める。世界はそんな飛葉を無言で見つめていたが、ふと思い出したかのように言った。

「俺より、ヘボに飯を食わせてやったほうがよかったかもしれんな。ヤツは殆ど毎日、お前を散々捜し回ったんだ。寿司より良いものにしてやれよ」

顔を上げ、いよいよ陽気に笑いながら、飛葉が世界を見た。

「まったく、どいつもこいつもしょーがねぇなぁ」

「どういう意味だ、それは」

飛葉は笑いながら目元を拭い、怪訝な顔の世界に言う。

「バカばっかだけどよ、頼りにならねーこともないって言ったんだよ、連中は。……それから、あんたもな」

 飛葉は世界の肩を軽く叩くと、再会の言葉を残して部屋を目指して歩き始める。飛葉の後ろ姿を束の間見送った後、アパートに向かって歩みを進めた世界は、ポケットの中の鋼に触れた。

 細く頼りない、けれど確かな存在感を持つ鋼の刃はもう本来の役目を果たすことはない。にもかかわらず手元に戻ってきたことが、世界には嬉しく感じられた。それは飛葉が絶望することなく仲間の下に戻ろうとした証であり、世界をはじめとする仲間が飛葉の救出を強く願い、その意志が飛葉に伝わった証のようにも思われる。

 子供じみた発想だった。少なくとも、飛葉たちに出会うまでの世界であれば一蹴したに違いない、感傷的でくだらない戯言にしか思えない考えが、今は心地よく感じられる。世界はどこか懐かしく思えるぬくもりを胸に、彼のアパートに続く道を急いだ。


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