七夜目の真実―Side of others 5th―


 名うての頑固者でありながら、地域の世話役を断りきれない老人の言葉に嘘はない。だが疑わしい点が皆無であれば、警察が佐倉川亮を捜査線上に挙げたりするはずもないだろう。世界は警察当局の作成した佐倉川に関する報告書と、地域住民の代表とも言える老人が語った簡単な佐倉川の生い立ちや素行に共通するいくつかの項目と、相容れられるとは考えがたい僅かな情報を草波に伝えると共に、彼自身が抱いているささやかな疑惑を裏付ける何かを手に入れるために訪れた草波のオフィスでのやり取りを思い返していた。

 世界の問いに草波は

「お前の推測はほぼ当たっていると言っても問題ない。佐倉川亮が容疑の対象になったのは本人はもちろんだが、奴の周辺があまりにも清潔過ぎたからだ。どんな人間でも生きていれば何らかの汚点のようなもの、他人には触れられたくない事情が生じる。佐倉川亮は恵まれた家柄に生まれながらも早くに母親を亡くしただけではなく、十代で保護者から引き離された状態にあった。にもかかわらず奴の身辺には何ら変化はない。複雑な家庭で育った者全てが道を誤る、或いは生活が荒れてしまうとは一概には言えん。だが、奴の場合は僅かな変化も見られない。それを不審に思った刑事がいた」

「刑事の勘……ってやつか」

「ああ。この話を持ち込んだ刑事のな。定年を迎えて退職する日、彼は私にこの事件の資料の一切を託した。間もなく事件は何ら関連性のない失踪事件や家出として扱われることが決まっており、従来の警察機構の中ではこれ以上の捜査はできなくなるのだと言った。そして汚点らしきものを何一つ持たない佐倉川亮に対する不信感と、最も疑わしい武田浩一についての心証についても話していったが、それらはお前たちがここ数日間に得たものと殆ど変わらない……。私としても、それが妙に気にかかったのだ」

草波はそう言い終えると、煙草に火を点けた。

「そう言えば……その刑事はこうも言っていた。犯罪というものは、犯した者の自覚の有無が結果を左右するのだと。罪の意識のない者は罪悪感を塵ほども抱くことなく、呼吸をするように悪に手を染める。罪悪感を持たないが故に誰にも怪しまれることはない。普段と変わらない生活を送りながら、自然に罪を重ねるのだともな」

世界は紫煙を燻らせながら草波の言葉に耳を傾けていた。そして草波は一通りの話を終えると、これ以上話すことはないという素振りで机の上に広げられた書類に目を落とす。

 しばしの沈黙の後、世界が口を開いた。

「飛葉のことだが……」

草波が無言で顔を上げ、次の言葉を待つ。

「どうにも……妙だ。飛葉の足取りが全く掴めない状態が続けば、最悪の事態を考えないわけにはいかない」

世界はそれだけ言うと煙草を灰皿に押しつけてドアのノブに手をかけた。

「飛葉に手が回ったとしたなら隊長、あんたの身辺も安全じゃないってことだ」

そして振り向くことなく、それだけを言い残して部屋を後にした。

◇◇◇

 世界は佐倉川家の張り込みに向かう途中、昨夜佐倉川本人を見た寿司屋に向かった。彼は二人前の盛り合わせの折を二つ注文し、それができるまでの時間をカウンターの端の席で新聞を読みながら潰していた。開店間もない店内に他の客はなく、老店主は相変わらず威勢の良い口調で世界に話しかけ、彼も適当に相づちを打ちながら手持ち無沙汰な時間をやり過ごしす。

 引き戸を開ける音に世界が顔を上げると、佐倉川亮がいた。店主は幼い頃から顔見知りだと言った青年に親しげに声をかけ、佐倉川は相変わらずの生真面目さを感じさせる様子で答える。

「え……と、いなり寿司と海苔巻きと、それから胡瓜巻を二人前の折に入るだけください。それと……盛り合わせの折を一人前。あ、そうだ。胡瓜巻にワサビは入れないでもらえますか」

「サビ抜きの胡瓜巻ぃ? なんでぇ、今度こそ子供が遊びに来てるのかい」

「そうじゃなくて、この間から友達が泊まりに来てるんです。それで昨夜のお寿司が気に入ったみたいで、また食べたいって言ってたから。どうやらワサビが苦手みたいです」

「はっ。まるで旦那がこの間連れてたボウズみたいだな」

店主の言葉に世界は曖昧な言葉と表情で答えた。佐倉川は世界の顔をちらりと見遣ったが、偶然居合わせた客に興味はないと見え、すぐに店主が寿司を握る手元に視線を戻した。

 世界は寿司の代金を店主に支払い店を出ると、店の脇の暗がりに身を潜めた。そして十数分後、寿司折を携えた佐倉川の後を追う。自宅に向かう佐倉川の様子に不審な点はなく、どこかへ立ち寄る素振りも見られない。犯罪を犯しているという意識による周囲への警戒心も感じられない佐倉川は、どこにでもいる勤め帰りの青年にしか見えなかった。罪悪感がないために警戒心を持たずにすんでいるというよりも、佐倉川はワイルド7が追っている事件とは全く関係がないと判断したほうが、これまで彼らが得た情報に似つかわしいように世界は思う。しかし先刻、偶然居合わせた寿司やで佐倉川が注文したワサビの入っていない胡瓜巻が、どうにもひっかかるのも事実だった。

 ワサビ抜きの胡瓜巻を好む飛葉以外の人間を、世界は知らない。子供ならまだしも、いい歳をした大人でワサビの入っていない胡瓜巻をわざわざ注文する人間など、数えるほどだろう。同じ嗜好を持つ人間は皆無ではないため、佐倉川が友人と呼ぶ人間と飛葉を同一人物であると確定するのはあまりに短絡的だと言える。しかし佐倉川と飛葉、そして世界の三人の生活圏内で同じ符号が揃った事実を見過ごせないばかりか、意味もなく神経がざらついてしまう感覚を無視することもできない。

「何かが腑に落ちない時は、何かある……か」

世界は溜息と共に呟く。

 それは長く一匹狼の殺し屋として生きてきた彼を度々窮地から救ってきた、鉄則とも言えるものだった。スナイパーとしての優れた腕を持つ者であっても、周囲の空気を肌で感じ取る能力が弱い人間は思わぬ落とし穴に足を取られて命を落とす。実際に世界は腕利きの殺し屋が初歩的なミスで最期を迎える場面を何度か目にしてきたし、彼自身も危うい状況に陥ったりもした。その時感じた、妙に神経に障るざらついた感覚を次第に強く意識するようになった。そしてそのお陰で何度か窮地から逃れるうちに、彼は無意識に空気の些細な変化を窺うようになり、それが闇の世界で生き残る術の一つとしたとも言えるのだが、今回もそれが有効だという保証はない。だが彼は彼自身が覚えたざらつく違和感を信じることにした。ワイルド7が追っている事件の核心につながるようなものを見つけられず、何の手がかりも残さずに飛葉が消息を絶ち数日が経過している現状では、取るに足りない情報さえも貴重であり、何一つ収穫が得られないよりもはるかに救いがある。

 佐倉川が門を潜り、屋敷の中へと消えるのを見届けた世界は、佐倉川邸を見渡すことができるアパートの一室に向かう。

「よう、ごくろうさん」

「おお、ようやく交替が来たか」

世界が声に八百が答えた。

「奴さんのいない間、ここは静かなもんなんだ」

「若い男を見かけなかったか」

「いや、ねぇな。だいたい佐倉川って男は極端に人付き合いが少ねぇ。まぁ、仕事柄ってのもあるだろうけどよ、個人的に誰かと話してるとこを、少なくとも俺は見たことがない。会社の中では多少違うのかもしれんが、同僚と飲みに行くワケでもなけりゃ、女遊びをするわけでもない。毎日毎日同じ時間に家を出て、仕事が終われば即、家に戻る。そんな生活の何が楽しいんだか、俺にはわからんな」

「ダチらしき人間は」

「いんや、知らねぇな」

八百と向かい合い、寿司をつまんでいた世界の手が止まり、何かを考え込むように黙り込んだ。

「何か、あったのか」

「ちょっと……な。明日、皆を集めてくれ。ちょっと気になることがある」

「そりゃ、佐倉川のことかい? それとも飛葉の……」

「佐倉川だ」

「わかった。明日、武田と佐倉川が仕事に入ったらすぐ、ガレージに集まるように言っておく」

八百はそう言うと、空になった寿司の包みを片手に部屋を出ていった。


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