七夜目の真実―Side of two persons 6th―



 朝食を差し入れにきた男は、部屋を出る時に昨夜の夕食の残骸も持って出た。裏面が人の目に触れないように細心の注意が払われながら乱暴に包まれた折り箱が、いつゴミの集積場に運ばれるかがわからないだけではなく、それが飛葉の思惑通りにワイルド7のメンバーの目に留まるかどうかもあやしかったが、自由を奪われた飛葉が外部と連絡を取る手段は他にない。どちらかというと考えるよりも先に行動に移る飛葉にとってそれはどうにも地道で、とてつもなくまどろっこしい方法ではあったが、脱出の手段を得るためだけではなく、地下室に監禁されて以来、飛葉が感じていた漠然とした数々の疑問を解決する時間を稼ぐためにも最良の手段だとも言えた。

◇◇◇

 飛葉がここ数日暮らしている地下室の壁の漆喰はそれほど古いものではない。洋式の水洗便所は、便器の汚れ具合から飛葉の下宿のものよりも新しいように見える。ベッドはマットレスこそ数年前に新調されたように見えたが、がっしりとしたムクの木材で作られたベッド本体は、かなりの年代物のように感じられた。それだけではなく、釘を一切使用せず、木組みだけで仕上げられたそれは見るからに熟練の職人の手による高級品である。そして床に敷かれた鈍い光沢を放つ石の表面はところどころすり減っていた。特に入口からベッドへ、ベッドから洗面台や便器に至る人が通ると考えられる部分の床の磨耗が激しい。それは飛葉がこの部屋の住人になる前に、誰かが暮らしていた証拠だとも言えた。もしもこの部屋に誰も出入りしなくなって長い歳月が経過しているのであれば、室内の空気がもっと澱んでいたほうが――それこそ微かな黴の臭いでもしてしていたほうが自然である。だが最初に目覚めた時から室内は新鮮な空気で満たされていた。それが飛葉には釈然としなかったのだ。

 ここで今の自分と同じように誰かが暮らしていた。それも、それほど遠くはない過去に。石の床がすり減るほどに長い日々を誰かがこの部屋で過ごし、天窓の枠に切り取られた空を見上げて続けていたことを、飛葉は確信していた。誰が、何の目的で、一体どれくらいの間ここに囚われていたのかを知るために、飛葉は何度か世間話を装い、男から手がかりを引き出そうとしたが、いつも答ははぐらかされ、収穫は何一つ得られなかった。だが夕食に差し入れられた寿司折りから、この部屋が飛葉や世界の住む地域からそれほど遠くはないことを知ってからというもの、飛葉の精神は任務の時と同じ高揚感に似た緊張感を帯びている。監禁生活に入ってから一度たりとも完全に絶望することはなかったが、自身のテリトリー内にいることがささやかな安堵を生み、それが揺るぎない自信となり、日頃の冷静さと余裕に化したのだった。

◇◇◇

 行動可能な範囲でしかなかったが、飛葉は床や壁、少ない調度の様子を子細に調べることに持て余している時間の全てを費やしていたが、複数の人間がかつてここで暮らした痕跡を見つけた他に、収穫らしいものはなかった。

 ベッドに仰向けになり、男が夕食を持ってくるのを待っていた飛葉の耳に、今や聞き慣れた足音が響く。男は静かにドアを開けた。

「今日も仕事が長引いたのか」

飛葉の声に、男は顔を上げた。

「うん……ごめんね。お腹、空いただろう? 今日も……お寿司なんだけど……」

「ああ、もらおう」

二日ほど悪かった飛葉の機嫌が多少良くなっているのを感じとったのか、男は嬉しそうな笑みを浮かべて寿司折りを飛葉に手渡す。

「胡瓜巻きのワサビは抜いてもらったよ」

飛葉は男に気付かれぬよう、慎重に寿司折りの包み紙の上に指を滑らせながら、いつものように乱暴に包装紙をはぎ取る。そして行儀良く並べられた寿司を頬張り、男にも寿司折りを差し出した。

「お前も、食うか?」

「あ……ありがとう」

稲荷鮨を摘む男に、飛葉が声をかけた。

「お前……ああ、まだ名前を聞いてなかったな」

「僕は佐倉川亮です」

「へぇ、ご大層な名前だな」

答に窮した男が浮かべた曖昧な笑顔を見やり、飛葉が言葉を続ける。

「お前、俺の着替えに白衣ばっか渡してっけどよ、仕事、何だ?」

「あ……あの、種とか苗を作る会社に勤めてるんだ」

「種っつーと、あれか? 畑とかに捲く……」

「うん。種苗会社で品種改良のための研究をしていて、僕は病気とか害虫に強い遺伝子を持つ品種の開発を担当してるんだ」

「そんで、白衣か」

飛葉の言葉に、男は小さく頷いた。

「必要な条件を満たした花粉を持つものだけを選別して作業を進めるから、白衣は毎日クリーニングに出さなきゃならなくて……。それで白衣ならたくさん持ってるし、クリーニングに出してるような服は、他にないし……」

「毎日クリーニングに出すのは、面倒じゃねぇか」

「習慣だから……。それに時には、作業がひと段落つく度に新しい白衣に着替えることもあるんだ。必要な遺伝情報以外のものを持つ花粉が実験室に入らないように気をつけなくちゃならなくて、実験室に入る前に手や腕や首を洗ったり、作業の内容によっては帽子を被ったりもするし……」

「ふーん。おめぇ、大学出?」

「うん。T大学の農学部。大学院に進んだ後、研究室の教授のお世話で今の会社に就職したんだ」

「エリートなんだな」

「そういうのじゃないと思う。僕は……僕は勉強しか取り柄がなくて、人付き合いが苦手だったから学者になりたかったんだけど、学問で身を立てられるほどの力はなくて……」

「ま、中学もろくに行ってない俺から見りゃ、立派なもんだ」

言葉をなくしたかのように立ったままの男の瞳は、驚きのために見開かれていた。

「おいおい、どうしたんだよ。俺はお前を怒らせるようなこたぁ、何も言っちゃいねぇだろ?」

「うん、僕は全然怒ってなんかいないよ」

佐倉川は俯き、頭を振りながら言葉を続けた。

「驚いて……それから嬉しいんだ。そんな風に言ってもらったのは初めてだから」

「何言ってやがんだよ。てめぇのガキの出来がよけりゃ、親ならそれだけで鼻が高けぇだろうし、先公だって他の大人だって褒めちぎるもんじゃねぇのか?」

「それは……そうかもしれないけど、父さんは僕がテストで一番をとっても何も言わなかったし、僕は人と話すのが苦手だったから、先生たちも僕にあまり関心を持ってくれなくて……。姉さんだけが……僕に優しくしてくれたのは姉さんだけだった……」

「姉貴がいんのか」

「もう、随分前にここからいなくなってて、今は僕一人で……」

「親父はどうした」

飛葉の問いに、佐倉川は頭を振るのみだった。

「そっか。じゃ、俺と変わんねぇな」

「君も家族がいないのかい?」

「ああ。親父は赤ん坊の頃からいねぇし、お袋と兄貴がいるにゃいるが、もう随分会ってねぇ」

「でも、会いたい時に会えるんだろう? それなら、いいよね」

「……だから始末が悪いこともあらぁな」

「仲……悪いの?」

「そんなとこだ」

飛葉はそう言って一方的に話を打ち切ると佐倉川に寿司を勧め、佐倉川はのり巻きに手を伸ばした。

 「そろそろ俺を自由にしろよ」

しばしの沈黙の後、飛葉が言った。

「それは……僕と友達になってくれるってこと?」

「飽きたんだよ、狭っ苦しい部屋は好きじゃねぇ」

「だったら、僕の家に住んでくれないかい? こんな言い方は失礼かもしれないけど、君のアパートよりも広い部屋を提供できるよ」

勢い込んだ佐倉川は飛葉の肩に両手を置き、言葉を続ける。

「君は仕事に行くだけでいいんだよ。洗濯とか掃除とか食事の用意だとか、そんなのは絶対にさせないし、お手伝いさんを頼んでもいいよ。君には何の干渉もしない。今みたいに一緒に食事をしたり、もしも……もしも君の気さえ向けばだけど、休日にどこかに一緒に出かけられたら嬉しいけど、でも君が嫌ならいいんだ」

飛葉は大袈裟な溜息をつき、佐倉川の手を払った。

「お前、そんなに俺のケツに突っ込みてぇのかよ」

佐倉川は飛葉の言葉が理解できないのか、惚けた表情を浮かべている。

「それとも、てめぇのケツに俺のを突っ込んでほしいのか? ま、どっちも勘弁願うけどな」

飛葉は一旦言葉を切ってから意地の悪い微笑を浮かべ、挑発するかのような台詞を口にした。

「人をさらって、こんなとこに閉じ込めて! おまけに素っ裸にひん剥いたりするヤツはホモって相場が決まってんだよ!! けどお前はただのホモじゃねぇ。人間以下の変態野郎だ。親切ぶって飯を運んじゃいるが、その腹の中はロクでもねぇ思惑で一杯だ。そうじゃねぇのか?!」

「……」

「何だよ。言いたいことがあるなら、はっきり言いやがれ! それともてめぇ、文句一つ言えねぇ、腰抜けなのかよ!!」

「違う! 僕はそんなのじゃない!! 変態じゃない!!」

飛葉の前で初めて感情を露にした佐倉川が飛葉に掴み掛かった。しかしその手は簡単に飛葉にねじ上げられ、上半身をベッドに押しつけられる。

「何だったら今、お望み通り、お前のケツに突っ込んでやろうか?」

低く落ち着いた声で飛葉が言う。俯せになった佐倉川の身体が強張り、首を回して彼の身体の上の飛葉を見上げる。その顔は恐怖に歪んでいた。

「僕は……君と……友達になりたいだけなんだ」

「オトモダチってのにも、色々あらぁな。女に相手にされなくて、男に走ったんだろ? 誰からお構いなしにそのへんの男にケツ振って差し出して、喜んでんじゃねぇのか?」

「そんなこと……してない」

力無く反論する佐倉川の言葉は既に涙声になっている。飛葉は佐倉川の背中に押しつけた膝に力を込め、更に彼を追いつめる言葉を続けた。

「じゃ、ケツのまだ青いガキに悪さでもしてんのか?」

飛葉の言葉に激高した佐倉川は、意味を成さない言葉を叫ぶと渾身の力で飛葉の身体を払いのけた。勢い良く床に叩きつけられた飛葉が形勢を整える一瞬前に、佐倉川が飛葉を床に押さえ込む。手足の自由が利かないため、飛葉よりも幾分体格に恵まれている佐倉川を押し退けることは叶わなかったが、飛葉は不敵な表情を浮かべて自分の上に馬乗りになっている男を見上げた。

「とうとう本性を現しやがったな。こうやって、何人の人間をいいように扱ってきたんだ? 気を失わせて姦っちまったのか? それとも……」

その言葉が終わらないうちに、佐倉川は飛葉の首に両手をかけた。

 ゆっくりと首に回された手に力が入っていくのを、飛葉はまるで他人事のように感じていた。身体の上にいる佐倉川の顔は溢れ出た感情に紅潮し、普段の気弱で人の良さそうな気配は微塵も感じられない。完全に正気を失っている瞳は焦点が定まっていないようで、飛葉の下にある石の床の遙か下に存在している闇の世界を見つめているようにも思える。目の前にあるものを何一つ映し出していない瞳からは大粒の涙がこぼれ落ち、飛葉の頬を濡らす。飛葉は彼を組み敷いている相手に気取られぬよう静かに両手に力を溜め始める。そして何の前触れもなしに佐倉川の鳩尾に容赦のない拳を入れた。

「隙だらけだな……」

首に手をやり、ゆっくりと飛葉が立ち上がった。飛葉の渾身の一撃を受け、石造りの床の上で苦しげに身体を折り曲げている佐倉川を飛葉が足先で小突くと、男は恐怖と絶望に満ちた顔で飛葉を見上げた。

「人の首を絞める時はな、喉を塞ぐだけじゃ時間がかかるばっかりなんだよ。苦しいだけでいつまで経っても引導を渡されもしねぇし、締められるほうもいい迷惑だ

「ご……ごめん。飛葉君、ごめんね。謝るから、だから……お……怒らないで……。何でもするから、だから僕を一人にしないで……後生だから……」

涙を拭おうともせずに床に額を擦りつけ、飛葉に懇願する佐倉川の姿に、飛葉は嫌悪の表情を浮かべて言い捨てた。

「なら、足のザイルを解いて、俺をここから出せ」

佐倉川は目を見開いた。

「嫌だ……それだけは、嫌だ」

「何でもするって言ったそばからこれだ。大嘘つき野郎だよ、おめぇは」

「嘘じゃない。でも、君がいなくなるのは嫌だ。まだ僕たちは友達にもなっていないのに。出ていったら君は、二度と戻ってきてくれないに決まってる」

「当ったり前だ!! こんな目に遭わされて、誰が友達になろうって考えるよ!! 俺はお前なんか大嫌いなんだ!! いつまでもこんなとこにいられるか!! ナイフか鋏くらいは持ってんだろ? そいつを俺に寄越せ!!」

飛葉は佐倉川の胸元に掴み掛かったが、足に結ばれたロープに阻まれた飛葉の手は男に僅かに届かず、空を切るのみに終わった。勢い良く繰り出された飛葉の手は、座り込んだまま後ずさった佐倉川の足首を掴むことには成功したが、佐倉川は飛葉の両手を足で引き剥がすようにして飛葉の行動半径外へと逃れる。飛葉は恐怖に竦む佐倉川に向かい、忌々しげに言い捨てた。

「出てけ。てめぇの顔なんざ、二度と見たかねぇ!! 俺の前にそのツラァ出してみろ! 今度は金輪際お天道様を拝めないようにしてやる!! いいか! わかったら、さっさと行け!!」

 佐倉川は飛葉の剣幕に恐れをなし、転げるように地下室から出ていった。飛葉は床の上から起き上がると、手当たり次第にそこいらの物を投げ始める。手にした物を全て外へと通じるドアにぶつけてみたが、頑丈な扉はびくともしない。投げる物がなくなったことに気付いた飛葉は、ようやく振り上げた拳を降ろした。

「ちっ。ドジ、踏んじまった。あの野郎はもう、ここにゃ来ねぇな。また出る方法を考え直さなきゃなんねぇや」

そう独りごちた後、飛葉はベッドに仰向けに横たわり、右の拳に目を落とす。

「痛てぇと思ったら、拳、破っちまってらぁ。また、後先考えて行動しねぇだの何だのって、世界に説教されちまうな……」

飛葉は緩慢な動作で洗面台に向かうと、蛇口から勢い良く流れ出る水を拳の傷に当てる。白い陶器の中央に空いた闇の中に、渦を巻いて赤い血が流れていくのをぼんやりと眺めている飛葉の脳裏に佐倉川の絶叫が浮かぶ。

 周囲の人間全てに見捨てられた男の叫びがいつまでも耳から離れない。見捨てられることをひたすらに恐れ、なりふり構わずに相手の気を引こうとする姿を知らないわけではなかった。選んだ方法こそ異なってはいたが、同じものを欲している人間同士だとだと感じたから手荒な行動にとれなかったのか、無意識のうちに同病相哀れむといった感情と抑えがたい嫌悪感を抱くに至ったのかはわからなかった。だがいずれにせよ、そんな感情を一瞬でも抱いた可能性を認めることが、飛葉にはできなかった。

 自分は愚かなほどに無防備で世間知らずな男に同情しただけなのだ。それ故、敢えて今日まで実力行使に出てやらなかったにすぎない。飛葉は自分自身にそう言い聞かせるつもりで顔を上げた。滑らかな表面を持つ金属板でできた鏡の中には嫌悪感をもよおさずにいられない表情が歪みながら写っている。これ以上ないほどに情けなく、媚びているかのようなその面が、落ち着きかけていた飛葉の精神を逆撫でした。飛葉は血と水に濡れた拳を鏡面に仕上げられた金属板に打ち込むと、力無くその場に座り込んだ。


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