ビクトールの災難 1

 人々に見捨てられて久しい巨大な廃墟――数えきれない魔物の巣窟となっていたトラン湖の中の島にある湖上も、解放軍の本拠地となってからは打ち捨てられていた頃の姿を思い出せぬほどの活気にあふれている。赤月帝国の圧政からの解放を目指して日々を生きている彼らは誰に言われるともなく自ら為すべきことを行う。腕に覚えのある者は武具を整え、腕に磨きをかけていた。戦場に赴かない面々はそれぞれの特技を活かし、ある者は場内で必要とされる物資の収拾と提供に努め、またある者は108の星々の下に生まれた仲間のために料理の腕を振るう。中には単なる居候にしか見えない者もいたが、何かの拍子に隠された特技や知識を披露して周囲を驚かすことも少なくない。

 運命の星の下に生まれた者、圧政の中から立ち上がった市井の人々、そして自らの正義を貫くために武器を手にした戦士達が集うトラン城は、今や多くの人々が頂く希望を守り育む城塞としての役割を担うようになっていた。

◇◇◇

 開け放たれた窓から聞こえてくる戦士達の稽古や手合わせをしている声の中から、確実に主人の声を聞き取りながら、グレミオは解放軍のリーダーとして日増しに人々の信頼を勝ち得ていく少年・ティルの居室を掃き清めていた。

 物心がつくかつかないかといった年齢で母を亡くしたティルと彼の父親――テオ・マクドール将軍は赤月帝国でも比類なき勇将として知られており、その実力と人望故に日々、軍務に追われていた。戦災孤児だったグレミオは縁あってテオ・マクドールと出会って以降、将軍の愛息の付き人として暮らしている。頬にある大きな傷に似つかわしいとは言えない穏やかな人柄や、お節介が過ぎると周囲の苦笑を買うほどの優しい心根。食事の際に披露される抜群の料理の腕前は、トラン城の誰もが好意的に受け止めていたし、誰もが敬遠するような地味で根気が必要とされる仕事を自ら進んで引き受けようとする姿勢に対しては、篤い信頼が寄せられてもいた。

 決して少なくはないと言える人々のリーダーを務めることになったティルだけは、いつまでも自分を子供扱いしてばかりのグレミオに多少の不満を覚えていたが、それでも幼い頃から寄せている全幅の信頼は何ら変わることなく、『グレミオがうるさいから仕方がない』などといった言い訳をしながら、何かと世話を焼かせてもいる。グレミオはといえば、ティルの側近くに仕えることが喜びと言って憚らず、トラン城の住民の中でただ一人、ティルを『坊ちゃん』と呼び続け、そして周囲の人々はそんな二人を微笑ましく見守っていた。

◇◇◇

 まだ太陽の匂いが感じられる洗濯物をたたみながら、グレミオはティルの衣服の隅々を確かめ、手を入れなければならないものを脇に選り分けていく。成長期のティルは数カ月前まではぐんぐんと背が伸びていたため、少し大きめに作ってあった服の裾や肩幅を出すのに忙しかったが、トラン城に移り住んでからというもの、ティルの成長の証を目の当たりにすることはなくなった。その代わりに武術の訓練の時にできたであろうかぎ裂きなどの補修が目に見えて増え、彼らを取り巻く環境の激変を知らしめる。

「ぼっちゃん……」

齢15歳の少年が耐えるには厳しすぎるのではないかという生活を想い、形容しがたいやるせなさに耐えかねるように、グレミオは小さな声でティルの名を呼んだ。

「何? グレミオ」

声のほうに顔を向けると、そこには黒い髪を緑色のバンダナで巻いた少年が佇んでいる。訓練の名残なのか、居室まで駆けてきたせいなのか僅かに息を弾ませている様に、グレミオは思わず目を細めてしまう。

「いえ、何でもありませんよ。訓練はもうおしまいですか?」

「うん、今日はビクトールから新しい訓練方法を教わったんだよ」

グレミオが差し出したタオルで汗を拭きながら、ティルが自慢げに言った。

「腰の強化運動なんだ。一人前の男たるもの、自在に腰を使ってこそ一人前だって。今から腰を鍛えておけば、いざっていう時に困ることはないからって、教えてくれたんだ」

こんな風にと、ティルは直立姿勢のままで腰だけを突き出したり引っ込める動作を繰り返す。短い間隔で素早く腰を突き動かしたかと思えば、次の瞬間にはゆったりと大きな動作になったり、腰だけを回転させてみたりと、自在に身体を操る主人を呆然と見つめるグレミオは沈黙を守っている――というよりも、思いがけない出来事に言葉を完全に失っている。

「時々こうやって、腰を回すのも効果的なんだって」

 無邪気なティルの言葉に眩暈を感じたグレミオは全身から血の気が引くのを感じた。しかし次の瞬間には滾るように熱い血が身体中を駆けめぐる。

「そう言えばお師匠も棍を自在に操るためには、腰をしっかりと据えておかなくちゃいけないって教えてくれたんだ。だから毎日この運動をしておけば、きっと僕だってビクトールに負けないくらい強くなるよね?」

 ティルがグレミオに話しかけた時、既に穏やかで人望篤い彼の付き人は姿を消していた。

◇◇◇

 休憩所のあるトラン城の1階では、先刻までティルやビクトールと共に訓練に参加していた面々が集まっていたが、そこに突然飛び込んできたグレミオの顔を見た途端、彼らは悪い夢を見ているような表情を浮かべる。

「ビクトールさんは、どちらですか」

上がる息を抑えながらグレミオが問うと、

「一風呂浴びるとか、言ってたかな」

と、誰かが答えた。

「いや、先に腹ごしらえをするとか何とか……」

「部屋に戻ったんじゃあ……」

「まだ、訓練してるかも……」

不穏な空気を感じてか、誰もグレミオと視線を合わせようとはせず、また取り立ててビクトールを庇おうとしない。かといってグレミオの求める答えを口にしない態度に焦れたのか

「庇い立てすると、あなた方のためになりませんよ」

と、グレミオが静かに言った。

 その場に居合わせた誰もが、またビクトールがグレミオの逆鱗に触れたことを確信する。ビクトールがティルに悪さをしたのか、余計な知恵を吹き込んだのかは定かではない。しかしビクトールに向けられたグレミオの静かな怒りは尋常ではなく、下手にビクトールを庇おうものなら、数日間はグレミオの料理が食卓に上らないだろうことは火を見るよりも明らかで、そうなると娯楽の少ない日々の生活からささやかな幸福さえ奪うことになる。だからといって仲間を売るようなことは、共に死線をかいくぐってきた仲間としてはできない相談だ。そこにいた全員が明後日の方向に視線を巡らせ、自分以外の誰かが行動を起こすのを待った。

 様々な思惑や逡巡が交錯する、緊張した空気の均衡を破ったのはビクトール本人だった。

「こりゃぁ、随分と賑やかだな」

グレミオの怒りなど知るよしもないビクトールは暢気な足取りでグレミオを囲む人の輪に近づいてくる。

「ビクトールさん、お話があります」

何かを堪えるように床に視線を落としたまま、グレミオが言った。

「なんだ、なんだ、改まって話ってのは」

何も知らないビクトールが気安げな態度でグレミオの肩に手を置いたが、グレミオはすぐさまビクトールの手を払いのける。状況がまるでわかっていないビクトールは所在を失った手をブラブラとさせながら、

「おいおい、穏やかじゃねぇな、グレミオ」

とぼやく。

「穏やかでいられないことばかりしているのは、あなたですよ、ビクトールさん」

ゆっくりと向き直るグレミオが全身に纏う怒りのオーラに気圧されるように、一歩一歩後ずさるビクトール。ビクトールの動きに呼応するように歩みを進めるグレミオ。体格においては遙かに優位にある筈のビクトールを気迫で圧倒しているグレミオは、戦場で大斧を振るっているよりも、厨房で包丁を使っているほうが似つかわしい体躯と風貌の持ち主である。それだからこそ一層、偉丈夫を絵に描いたようなビクトールを圧するほどの迫力に、周囲は畏怖の念のようなものを感じていた。

「手合わせをするのは、まことに結構です。けれど……けれど……素直でお優しいぼっちゃんに、あんな下品な真似をさせるなんて……!!」

「下品だぁ? 俺がいつ、ティルにどんな悪さをしたってんだ?」

「今更言い訳など……!!」

 グレミオが大斧を握る手に力を込めた途端、周囲が一斉に後ずさる。一度でもグレミオと戦闘に出た者であれば、誰もが“キレタ”グレミオの恐ろしさを知っていた。彼にはティルに危険が迫った時には火事場の馬鹿力的ともいうべき力を発揮し、渾身の一撃を連発する傾向がある。そして今がまさしく、その時なのだ。もちろん、解放軍の戦力の主力であるビクトールもそれを充分に承知しており、それ故に下手な反撃ができずにいる。

 じりじりと追い詰められているビクトールは、あと数歩で進退窮まる位置にあった。もはやビクトールに勝ち目はない。その場に居合わせた全員が確信した瞬間、

「あ〜っ、ティル、どうした!!」

と、ビクトールが素っ頓狂な声を上げた。グレミオは彼が守護する少年の名に、他の者はその声の大きさに釣られるようにビクトールの指さす方向に視線を向ける。その間隙を縫うようにビクトールは逃げ出した。

「逃げるためにぼっちゃんの名を出すなど、卑怯千万!!」

自らの失態を悔やむ間もなくグレミオは言い捨てると、軽々と斧を持ち直してビクトールの後を追った。


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