あどけない空の色 2


 夜明け前、誰も起き出さない頃合いに山男が累々と横たわる、やや酸欠気味の狭い部屋を抜け出して深く吸い込む空気の冷たさに、山の本質が人間の進入を拒んでいることを実感する。太陽が顔を出す前の、星が昼の光に紛れる直前の刹那にだけ晒す山の薄情さ。それは山田が最も好む山の姿でもあった。冬の厳しい寒さよりも、昼間に見せる人の好い表情に隠された頑なな姿は、店先では愛想が良いクセに実はひどく偏屈で、煙草呑みが大嫌いだった、遠い昔には看板娘と評判だった煙草屋の老女を思わせる。

「ほんでも、山にしか生えへんもんもあるし、生きられへんもんもおるんやなぁ」

 山は基本的に、その標高が上がるに連れて生物にとって厳しい環境に変化していく。故に多くの植物が程々の気温と降水量を維持できる地点を限界としているのだが、時にまるで己の限界に挑戦しているかのように高みを目指す生物がある。

 その多くは敢えて厳しい環境に身を置くことで外敵を退けたり、生存競争に参加する個体を減じているのだろうと推測できるのだが、環境に適応できるか否かを問題としないその選択は潔いというよりも、滑稽なほどの頑なさを見せつけるようだ。楽な場所で適当にやっていればいいのにと、高山植物の群や、そこに暮らす昆虫などを見かけるたびに、山田は思う。

 わざわざ面倒事を選ぶ酔狂さに呆れる一方で、自分にはとてもできないことだとも羨んでいる自分を、彼は知っている。決して火の粉が降りかからない安全な位置に立つこと自体、間違ってはいない。安全策を採ることで、種の繁栄を実現した生物が当たり前のように存在していることが、それを証明している。それに高い標高にいるから種として優れているというわけでもない──実際、進化よりも退化を選んで環境に順応しているケースも少なくない。

 退化というよりも変化と呼ぶにふさわしいかも知れない、環境に適応しようとする大いなる意志は、感情を持たないといわれている植物にさえあるというのに、山田は強い欲と呼べるものを持たない。それは謙遜でも誇張でも思い違いでもなく、純然たる事実だと自覚している。実際、大学時代に懇意にしてもらった教授からも、ばかばかしい程の欲のなさを指摘されたことは数知れず、それが山田を研究者にも登山家にもしないのだと言われたものだ。何事にも中庸をもってよしとする山田は、地学も山も極めたいとまでは思わなかった。どちらも程々でいい。物事をとことん突き詰めるよりも中間地点に立ち、そこから広がる色々なものを見る方が性に合ってもいる。

 そんな山田に教授から紹介されたのは、鄙びた中学の理科教師の職だった。辺鄙な場所にあるばかりに、ただでさえ不足しがちな理科教師が居着かないというそこは、山田にとっては理想的な職場だった。すぐそこに雑木林があり、その奥に進めば丘陵から続く里山に至り、更に進めば葛城山系につながる獣道を見つけることもできる。強い地縁が未だに残る田舎故に人の出入りは殆どなく、昔ながらの人的つながりが未だ残る校区の雰囲気は穏やかで、余所者とは言え、地域とのつながりの強い学校で教鞭を執る山田対して住民は概ね好意的だけれども、地元の者ではない人間に対する遠慮のようなものもあり、それが適度な距離感を作っていて、その適度なよそよそしさは山田にとっては、心地よく感じられた。

 山瀬一郎という同年代の同僚の登場は、山田の平穏な日々を変えた。山田にとっては親友であるはずの山瀬だが、いつの間にやら自分が山瀬にとっての恋愛対象になっていて、けれど山田は色恋沙汰とはとんと縁のない生活が長く、突然の告白にひたすら戸惑ってはいるのだが、どう反応すればいいのか正直なところ、分からないままでいる。

 いい加減、答を出さなければならない。わかっているのだが、自分がどうしたいのかがわからない山田は、山瀬から急かされないのを幸いに友人の位置から動かなかった。

 山田の心情を知ってか知らずか、山瀬も親しい友人の距離を守ってくれている。時折、何かの拍子に友人の域を超えたスキンシップを仕掛けてくることがあれば、思わせぶりな言葉を投げかけてくることもあるのだが、あまりにも自然な流れの中で行動を起こされるがために、山田は手も足も出せない。そうと確かめたことはないのだが、山瀬もまた、今の、第三者から見れば焦れったいものでしかない中途半端な状況を楽しんでいるのではないかと感じる節もあり、山田はできるだけ自分のペースを崩さないようにしていた。

◇◇◇

 誰もいない山頂から臨む空は、夜と夜明けと朝とに漫然と分けられている。明確な境界を持たない、けれど異なる世界を内包する空の色を美しいと思う。何度かこの不可思議な空の色をフィルムに写してきたが、四角く切り取られた空は山田の愛する空ではない。美しいけれど硬質で、雑多なものを抱え込める懐の深さのようなものが感じられない空は、本当の空ではないように見えてしまい、それに気づいた時から山田は、空を切り取るのをやめた。

 プリズム作用により振り分けられた太陽の光が、暗いバラ色を夜明けの部分に差し入れ始めた。しばらくすると空の半分が菫色に変わり、地平線に近い方から僅かに黄色がかった茜色が見え始める。赤が青を中和するように空は明るい色を帯び始め、ほんの短い間、クリーム色に近い白になった。大気の状態が安定した、澄み切った空気の中でしか見られない白い夜明けの空は一瞬だけ姿を現すだけで、そんな色などなかったことにするような薄情さで青く変わる。

 時間にすれば二十分にも満たない、刹那の空の変化を見届けてから、山田は歩き出す。

 初心者にも登りやすいと言われている山並みの北西。冬の間、殆ど太陽の恩恵を受けられない一画に、ほぼ一年中雪が残っている。夏も残雪を楽しめると有名な場所とは異なり、そこに辿り着くまでには急傾斜の岩肌を数度、登ったり降りたりしなくてはならない。故に人が訪れることはごく稀で、春先には5センチほどの積雪が、そこに降り積もった時と同じ状態で残っている。それを確かめるためだけに、山田は山頂には向かわないコースを黙々と進んだ。

 額に汗を流しながら、足場の悪い岩肌を登ること数時間。太陽が中天に至る少し前に、山田の目に白い地面が飛び込んできた。

 誰の手も触れていない新雪の眩しさに、山田は目を細める。暖冬のせいなのか、少しばかり小さく感じられる残雪は、それでも硬質な光と柔らかな陽光とを同時に放っていて、その複雑な光の調子は、少なくとも山田の知る言葉では言い表せない。

 言葉にも、写真にもできない冬の名残がただそこにある。

 指先を軽く置くだけでホロホロと溶け崩れてしまう、儚い雪の感触に山田の胸は騒ぐ。

 初めての感情に山田は戸惑いを覚えた。けれど、今は何も考えずに衝動的に動いた方がいい。そう、本能的に判断した山田は、半ば無意識のうちに動き出していた。


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