あどけない空の色 3


 誰かを訪ねるには甚だ非常識な真夜中である。

 勢いだけで列車を乗り継ぎ、長野から大阪まで戻ったまではよかった。

 問題は山田の背中を押した、急いで戻ってきた理由が自分本位なものでしかないと思い至ったことだ。衝動のままに行動している時は問題はなかった。ただひたすらに、目標達成のために進めばよかったのだから。けれど新幹線の座席に腰を落ち着けた時、新大阪到着の時刻が午後11時を過ぎることや、それから地下鉄経由で乗り継ぐ在来線は限りなく最終列車に近いことに気づいてからは、これから自分がしようとしていることが実は、世間一般の常識から大きく逸脱している野ではないかという疑問を抱くに至り、目的地を目前にしてからの山田は先に進むきっかけを掴むことができないばかりか、完全に怖じ気づいてしまっている。

 朝がきてからでは、遅すぎる。しかし日付がとうに変わった刻限に、誰かを訪ねられるほど腹が据わっているわけではない。厚かましいと疎まれるのは困るが、肝心の目的を果たせないのであれば、予定を切り上げて戻った意味がなくなってしまう。会いたいと、直接手渡したいと思うのに、そこまでする程のものではない気もする。

 一体、何がしたかったのか。そんな簡単なことさえ見失ってしまっている自分に、山田は失笑した。

 これまでの経験から考えれば、既に時は失している。山田が行動を起こそうとすると大抵、時は既に遅く、自分の知らないところで事態は進んでいて、タイミングの悪さをごまかすために取り敢えず戯けてみせるしかなかった過去が脳裏を掠めた。ボケ役には慣れている山田だが、今回ばかりはそんな気にはなれない。

 駅から徒歩数分の地点で立ち止まり、思案に暮れていた踵を返そうとした時、山田は自分を呼ぶ声に動きを止めた。

「どうしたんですか? 山から戻るのは、明後日じゃありませんでしたっけ」

 街灯の下で山瀬が笑う。

「え……と、山瀬センセーは、コンビニですか」

「小腹が空いたものですから……よかったら、一緒に夜食でもどうですか?」

「だいぶ遅いですけど……」

「明日も休みですから、僕はかまいませんよ。何だったら、泊まってっても」

 山田の返事を待たず、山瀬は歩き始めた。思いがけない展開に山田は戸惑ってはいたが、急ぎ戻ったことが無駄足にならずに済んでホッとしてもいる。

 散らかっているけれどと招かれた山瀬の部屋で、山田は背負ったままの背嚢を降ろした。見せたいものがあるからと、山瀬に一番大きな皿を貸してほしいと告げ、山に行く時にはいつも持参している魔法瓶を取り出す。野営用の断熱シートにくまれていた銀色の筒は、蛍光灯の下で鈍い光を反射している。

「何が入ってるんですか?」

山瀬の問いに答えず、山田は差し出された大皿を断熱シートの上に置いてから水筒の蓋を開け、ゆっくりと中身を皿の上に移した。

「これは……雪……ですね?」

「日本アルプスの雪です。食塩を足して温度、下げてたんやけど、ちょっと溶けてしもてるな……根雪のある場所のんで……去年のと今年のんと。もしかしたら、もっと前のも混ざってるかも知れへんけど」

「触っても?」

目を輝かせながら訊く山瀬に、山田は頷く。

「溶けかけのかき氷みたいで、あんましようないですね。上ではもっと白かったんですけど……」

「でも、冷たいですよ」

そう言って微笑う山瀬の指先に触れた途端、かろうじて個体を保っていた二つの水素元素と一つの酸素元素が結合体は、ただの水になってしまう。

「山で触った時は……溶けるまでの時間がもっと長かったんです。溶け方も、そんなあっさりしたもんやのうて……ちょっと霙みたいになってから凍ったとこと水になるとことがあって、もっと……」

「どうして、そうなるんですか?」

「周囲の温度の絶対的な差が原因やと思います。上は地面も空気も下よりずっと冷たいから、北向きの斜面の何かの影になってる場所の周辺温度は安定してて、せやから雪の、表側と違う場所もあんまり温度が上がったり下がったりせーへんから、固体から水への変化する段階をちゃんと見られるんです」

「へぇ……そんな風に教えてもらえると、何だか違うものに見えてくるもんですね」

 自分の中の雪のイメージは、降っているのと積もっているもの、少し溶けているものくらいしかないのだと、山瀬は言葉を継ぐ。

「水になる寸前の雪はもしかしなくても、触れるのも見るのも初めてだな」

 見た目を裏切る儚さが不思議だと、山瀬は繰り返し雪に触れては、その冷たさと一瞬で水に変じる様を眺めている。

「この雪は、どれくらいの高さの場所にあったんですか?」

「2000メートル級の……多分、九合目の手前くらいかと……」

「だからかな。透明感がありますよね、町中に降る雪より」

「あんまし変わらへんと思いますけど……」

「空から地面までの距離が短い方が、汚れにくい気がするんですけど」

違うのかとでも問うように、山瀬は山田を見た。

「その……空中の不純物は確かに山の方が少ないですけど、けど、目に見える程ではないんちゃうかと……空の色とかは町中と全然違うけど……」

「空……ですか」

 山田は夜明けの空の色が刻一刻と変化する様と、何度も挑戦してみたが結局、思うような空の写真を撮ることができなくて、もう何年も空を仰ぎ見ているだけでいることを話した。おそらく山瀬は、つまらないことにこだわるものだと呆れるか、困った顔で笑うかのどちらかだろう。無視されるくらいなら笑い話にする方が救いがある。

「『あどけない空の話』みたいですね」

 思いがけない返答に、山田は山瀬を見た。

「知りませんか? 高村光太郎の『智恵子抄』」

「や、それは知ってますけど……ええと、多分……」

「高村光太郎の妻の智恵子によると、東京の空は本当の空ではないと。故郷の阿多々羅山の上に見える空こそが、本当の空だと語る彼女を描いた一編なんです。結婚して間もない頃、二人は本当の空について語り合うんですが、詩の中で光太郎は空を仰ぎ見るのだけれど、そこに広がっているのは、光太郎にとっては昔なじみの空だけで。だから光太郎には、智恵子のいう本当の空がどういうものであるかがわからなくて、おそらく彼にとってはその違いが幸福でもあったのかと、僕は思うんです」

「何で、わからへんのやろ……」

「多分……光太郎にとっての本物の空は、東京の空だからじゃないかと……」

ただの独り言に返事されて、山田は驚いた。

「さっきの山田先生の話なんかも考えると、同じ空でも時間や季節、天候によっても色なんかが変わるんですよね。だったら智恵子が本物だと思っている空は、本人にしかわからないかも知れない。阿多々羅山の、どの季節の、いつ頃の時間帯の空が本当の空なのか、知っているのは、もう今はいない彼女だけなんですよ」

「そしたら、あの山の上の空を誰かに見せるんは、無理なんや……」

「物理的には、不可能でしょうね」

山瀬には珍しく、断定的な物言いだった。

「写真には本物の空の色が写らなかったとしても、例えばさっき、山田先生が僕に雪の話をしてくれたみたいに、写真を前に色々な話をしてもらえたら。僕が訊くことに答えてもらえるのなら、時間はかかるかもしれなけど、きっといつか、本当の空を共有できるようになるんじゃないかと」

「ホンマに、そんなこと、できると思てはるんですか?」

 山田がおそるおそるといった様子で問うと、山瀬は肩を竦めながら、わからないと答えた。そして、同じ時、同じ場所で、同じ時間を共有していたとしても、寸分違わぬものを共有するのは、限りなく不可能に近い奇跡だとも笑う。

 山田は落胆した。言葉で何かを伝えるのが極端に苦手な質だという自覚のある山田は、確実に自分の思いを手渡すことのできる手立てがあるのであれば、多少の面倒事も凌げるだろうとも思っている。けれど、山田の友人・知人の中でも川辺と並ぶ説得力のある話し方をする山瀬が不可能だと言うのなら、ボキャブラリーが極端に少ない自分が、暗から明に転じようとする刹那の空を誰かと共有するのは、絶望的だというしかない。一人で山に行くのが不満だというのではないが、この先もずっと、唯一人で黙々と険しい斜面を上り下りするだけで、そこで見つけた色々なものも、自分の記憶の中だけにあるきりなのかと思うだけで意味もなく生まれる侘びさに、我知らず意気消沈してしまう山田だった。

「個人的には、完全に同じものを共有する必要はないって、僕は思いますよ」

山瀬の言葉に、山田が顔を上げる。

「そういう貴重な経験は素晴らしいと思いますけど。でも、一緒に同じ体験をした人同士が、互いに違う印象や感動を持ったとしたら。そして、それぞれが感じたものを伝え合えたら、一度の経験で二倍の楽しみというか、感動とか、そういうものを味わえるでしょう? そっち方が得なんじゃないかな。それに、ほら、レジャーとかイベントの後って食事とか飲み会とか、そんなのに流れてくでしょう。その時に共通の話題で、人それぞれの話の内容になった方が、場も盛り上がるような気がするんですよね」

 だから、同じでない方が自分は好きだと、むしろ違っているからこそ楽しみが多くなるのだと、山瀬は笑う。

「それに、山田先生の『あどけない空の話』だったら、僕はいくらでも聞かせてほしいんですけど。何千メートル級の山に登る体力も根性もないだけに、山田先生の経験は僕にとって、とても興味深い未知の分野なんです」

「え……」

「気が向いた時でいいですから。さっきの……夜が朝に変わっていく話のような……とても楽しかったですよ」

「けど……俺はセンセーとかべーやんみたいに、うまいこと、よう言われへんし……」

「なら、僕が先生をサポートしましょうか。これでも一応、国語の教師ですから」

 山田は何と答えればいいのかがわからなかった。けれど、多分、わからないままでも山瀬は許してくれるのではないかとも思った。だから、答える替わりに笑ってみせた。


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