幸福な諍い


 世界は飛葉の部屋の扉を叩いた。飛葉はなかなか顔を出さない。世界は再び、ゆっくりと扉を叩く。扉の向こうで誰かが動く気配を世界が感じて間もなく、木製のドアが少しずつ開いてゆく。飛葉は世界の顔を見ると、ふてくされた様子を隠そうともせずに言った。

「なんだよ」

「話がある」

世界が飛葉の目を見つめて、静かに言った。

「俺にはねぇよ」

飛葉はそう言うと、扉を閉めた。

 世界は目の前で閉じられた扉を再び叩いてみたが、飛葉は何も応えない。しばらくドアの前で待ってみたが、飛葉に世界を部屋に上げる意志はないらしいことを悟ると、世界は静かに階段を降りていった。

◇◇◇

 翌日、草波からの連絡を受けたワイルド7の全メンバーは、草波がオフィス代わりに使っている立体駐車場で落ち合い、新しい指令を受けた。次のターゲットは贈収賄で思う存分に私腹を肥やし、少しでも風向きがおかしくなった途端に対立候補を、時には自分の秘書さえも身代わりにして罪を逃れてきた悪徳代議士だった。多くの腹心を抱えるターゲットの周囲から切り崩しを図るため、まず八百がゴルフのインストラクターとして接近することになり、他のメンバーは八百からの連絡が入るまで待機することに決まった。待機中であると言っても、彼らは一つの任務に専念しているわけではなく、他の指令を受けて別行動を取ることもある。特にリーダーであり、一つ所にじっとしていることが苦手な飛葉と、他のメンバーとがチームを組んで現場に走ることが多く、メンバー最年長の世界はどちらかというと全体の動きを掌握し、実際にターゲットを相手にしているメンバーの後方支援などをすることが多い。もちろん、大がかりな作戦の際には全員が出動するのであるが、そういった事件が頻繁に発生することはなく、日常的にはメンバーそれぞれの特技を生かした活動を展開している。

◇◇◇

 数日間、世界と別行動で任務に当たってきた飛葉は、少々落ち着かない気分になっていた。唇の傷を世界以外のメンバーにからかわれた日、彼は自分の下宿までやってきた世界を追い返してしまったのだ。話があると世界が言ったにもかかわらず、話すことなどないと言い捨て、扉を叩く世界を部屋に入れようとしなかった。一晩中、そんな自分の子どもっぽい振る舞いを後悔していた飛葉は、翌朝にでも世界に詫びようと考えていたのだが、少々大がかりな任務が入ったこと、そして飛葉にとっては取るに足りないいくつかの任務をかなすために、なかなか世界に話しかける時間を作ることができない。むろん任務を遂行する上で必要な連絡などの会話は普段と変わらないのだが、釈然としない気分を拭い去ることはできない。しかし、その理由は間もなくわかった。世界が自分と目を合わせようとしないのである。

 世界は普段、愛用しているサングラスを滅多に外すことはないが、黒いレンズの向こうにある瞳は必ず飛葉に向けられていた。それはバイクの操縦の訓練を受けていた時から感じるようになり、ワイルド7として共に行動するようになってからも、そして互いが掛け替えのない唯一の存在であると確かめ合ってからも、変わることはなかった。しかしここ数日間の世界は決して飛葉を見ようとはしない。そのことが飛葉にはもどかしかった。そんな事態を招いたのが飛葉自身であることは承知している。しかし飛葉が拗ねたり、自分に落ち度があるのに素直に謝れないでいる時などは、世界は飛葉が折れやすいような行動を、さり気なく取ってくれる。今回もそうなるだろうと飛葉は考えていたのだ。しかし世界は一定の距離を保ち、飛葉と視線を合わそうとはしなかった。

 同じ時、世界は彼と飛葉との距離を必要以上に近づけないよう、細心の注意を払っていた。自覚がなかったとは言え、飛葉が他のメンバーにからかわれるような傷が生じたのは、紛れもなく自分の責任である。傷を早く治すためにも、また飛葉の怒りが収まるまでの冷却期間として、一定の距離を保つべきだと考えたのだ。しかし無意識に目が飛葉の姿を追う。視界に入れば側にいたくなる。近づけば触れたくなり、触れれば口づけ以上のものを求めてしまうだろう。だから世界は唇の傷が消えるまでは、自らの行動を自制することにした。また子どものように拗ねてしまった飛葉の耳には、どんな言葉も入りはしないということも承知していたので、敢えて世界は必要事項以外を伝える時以外は、個人的に飛葉に話しかけることもしなかった。

◇◇◇

 オヤブンと任務に出た飛葉が戻ったのは、午前10時を過ぎた頃だった。二人が追っていた逃走犯は逃げ足が早く、実に諦めの悪い性格の持ち主だったため、任務を完了するために二人は徹夜する羽目になったのだ。朝から『ボン』に詰めていた世界は飛葉とオヤブンにねぎらいの言葉をかけ、三人分のモーニングサービスを注文した。面倒なことはさっさと済ますに限るとばかりにオヤブンは、草波に任務完了の報告を入れようと、店の前に停めてあるバイクの無線を使うために席をはずした。

「世界……」

飛葉が躊躇いがちに声をかけた。世界は飛葉の呼びかけに応えるために顔を上げたが、相変わらず飛葉と視線を合わせようとはしない。

「……その……今日、これから下宿に帰るんだけどよ……。一眠りしたら買い物に行こうと思うんだ……それで……今日、うどん、食いにこねーか?」

「……いや、今日は都合が悪い。すまんな。またにしてくれ」

「晩飯だぜ?」

世界は飛葉の唇に、本人に悟られないように視線を投げてみる。先日、他のメンバーにからかわれた傷は、まだ治りきってはいなかった。世界は胸に沸き上がる罪悪感をごまかすように煙草に火を点けると、ゆっくりと紫煙を吐き

「悪いな」

と、抑揚のない声で言った。世界の言葉は飛葉に落胆の表情を浮かべたが、次の瞬間には憤りが全身を満たしていた。飛葉は荒々しい動作で立ち上がると、力任せにドアを開けて出ていった。オヤブンが走り去る飛葉に声をかけたが、飛葉は戻ってはこなかった。

「世界。どうしちまったんだよ、飛葉のヤツ。とんでもねー勢いで行っちまったぜ」

飛葉と入れ替わりに店に入ってきたオヤブンが世界に声をかけたが、彼の言葉は世界の耳に届いてはいないようで、

「人の気も知らないで……」

と、世界は低い声で呟き、力任せに今しがた火を点けたばかりの煙草をもみ消し、大きな溜息をついた。


HOME ワイルド7 NEXT