チェリーな気持ち


誰がいつ、そんなことを言い出したのかは知らない。けれどもはや常識のように巷に流布している噂。それは『サクランボの枝を口の中で結べる人間はキスが上手いという風聞である。そんなものを鵜呑みにしているわけではないが、上手いに越したことはないなどと考えないこともない。普段は忘却の彼方にあるサクランボの枝は、ふとした拍子にほんの少しの注目を浴び、瞬く間に忘れ去られるものである。

そして、今度のこともそうだった。誰が最初に蒸し返したのかは知らないが、馴染みのスナック『ボン』のテーブルで両国やオヤブン、ヘボピーたちがサクランボ遊びに興じているのを八百は見た。半ば呆れながらテーブルについた八百がコーヒーを注文すると、先に店にいたメンバーがサクランボ遊びに引き込もうとする。それを適当にやり過ごしながら窓際の席を見ると、飛葉がいつになく真剣な表情で口をもぐもぐさせていた。

「飛葉……まさかお前まで、こんな子供じみた遊びに、本気になっているわけじゃあるまいな」

八百の言葉に飛葉はぎくりと肩を上げ、ばつの悪そうな薄ら笑いを浮かべる。

「飛葉ちゃんはよ、全然できねぇんだよ。要領さえ掴めば、簡単なのによ」

と、両国が言うと、他のメンバーが次々に囃し立てるように口を開く。仲間のひどいからかいが腹に据えかねたのか、終いに飛葉は子どものように頬を膨らませてふてくされてしまった。そんな飛葉の態度は仲間達の格好の玩具になってしまい、飛葉の機嫌はますます悪くなる。八百は半ば仕方なしに助け船を出してやった。

「サクランボで練習したところで、何にもなりゃしねぇだろう? キスってのはな、実地練習を繰り返して上手くなるモンだ」

その言葉に八百を除く全員が感心したような息をつく。それに気をよくした八百が更に言葉を継ぐ。

「というわけだ、飛葉。こんなとこで練習なんかしてないで、どこかの誰かさんの処にでも行ってこい。それとも……行く宛なんぞ、どこにもないってのなら、悪いことを言った」

「お……何を言い出すんだ、藪から棒に」

これ以上ないというくらいに狼狽えた飛葉が、やっとのことで答え終えた時、ドアベルを揺らして世界とチャーシューが入ってきた。

「おいおい、飛葉はなんで茹で蛸みたいな顔になってんだよ」

チャーシューが飛葉の髪をクシャクシャとかき混ぜながら言うと、

「どうせ、からかわれたか何かだろう」

と、世界が笑う。飛葉は耳まで紅く染めると、

「うるせー!! 後から来て混ぜっ返すんじゃねー!」

と、迫力など毛頭感じられない様子で凄んだ。それから自分の分のアイスコーヒー代を乱暴にテーブルに置くと、肩で風を切って店を出ていった。

「おい……飛葉はどうしたんだ」

世界が飛葉の背中を見送りながら問うと、それまでのいきさつを盛大に誇張したセリフがそこここから聞こえる。話を聞いたチャーシューは思い切り吹き出し、世界は呆れてものも言えないと言った顔で

「子どもをからかうのは、悪趣味だぞ」

と言う。

 飛葉を除くワイルド7のメンバーたちはそれから、和やかなコーヒータイムを楽しんでいた。途中、八百が世界だけに聞こえるように何事か囁いたが、世界は得意のポーカーフェイスを崩すことはなかった。しかし、残ったメンバーの中で最も早く家路にはついたのである。


【憂鬱なチェリー】


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