憂鬱なチェリー


 飛葉は卓袱台の上に並べられた5つの紅いサクランボの缶を眺めながら、溜息をついた。

◇◇◇

 何日か前、『ボン』でコーヒーを飲んでいた時、誰かがサクランボの枝を口の中で結ぶことができるのは、キスが上手い証拠だと言い出したのだ。『ボン』の店主のイコにサクランボを分けてもらい、それぞれに口を動かしてみたものの、何故か飛葉は上手くできなかった。あまり器用そうには見えないヘボピーや両国までが、あっという間に結び目を作って見せたにも関わらず、飛葉だけはいつまで経ってもしなやかな紅い枝は結べず、飛葉は完全に意地になってしまっていた。

 その時だった。遅れてやって来た八百が、サクランボの枝などで練習したところで、何の役にも立たない。それなりの相手と実地練習を積む他に方法がないと意味深に笑った。

 八百の言葉に飛葉は狼狽えた。しかし世界とのことは誰にも話してはいないのだし、隠し通せるだけの自信もある。八百のセリフはありきたりのからかいにすぎず、いつものように恋人もいない子供扱いをしたいだけなのだと自分に言い聞かせ、飛葉は何とか平静を保とうとしたのだが、間の悪いことに世界とチャーシューが続いて現れた。サクランボの悪戯の経緯を最初から明かされてしまった飛葉は、誰にも気取られぬように世界を盗み見る。世界は苦笑を浮かべて、飛葉をからかうメンバーをやんわりと諫めた。だが、その態度には明らかに飛葉を子供扱いする様子が見て取れたため、またた、単なる悪戯のつもりの遊びをキスの練習だと世界の前で言われてしまったため、どうにもいたたまれずに『ボン』を後にしたのだった。

◇◇◇

それからしばらくして世界を除くメンバー達が、この間の詫びだと言って寄越したのが、嫌がらせとしか思えない5つのサクランボの缶詰だった。

「腹の足しにもならねぇもの、寄越しやがって……」

飛葉は独りごちると、畳の上に仰向けに転がる。

 キスが上手いとか上手くないとか、そんな考えを持ったことなど今まではなかった。キスはデートやナンパの延長上にあるもので、ベッドインに至るまでの手順の一つに近いものであって、強く意識するようなものではない。少なくともこれまでの飛葉の感覚は、そんなものだった。

 軽い気持ちだったりしたこもある。反対に、それなりに真剣に恋をしたこともあった。それでもキスは恋の中のステップの一つにしか感じられなかったというのに、今では行為そのものの何かを求めようとしている自分がわかる。楽しめばいい。少しだけ冷静になって状況を把握して、触れ合う唇の感覚だけを追えばいいのだ。なのに何故、それができないのか。唇を重ねる瞬間まではわかっていることが、何故できなくなってしまうのかがわからない。

取り留めのないことに考えを巡らせていた飛葉は、部屋のドアを叩く音に身を起こす。ドアを開けると世界がいた。世界は土産だと言ってブドウの入った包みを飛葉に渡し、三和土で靴を脱ぐ。流しでブドウを洗い始めた飛葉と二言三言、言葉を交わして奥の和室に向かう。

 ブドウの入った洗い桶と皮と種を入れる茶碗を持った飛葉が和室にはいると、世界は煙草を燻らしながらサクランボの缶詰を一つ、手の上で転がしていた。

「こんなものが好きなのか」

「俺が買ったんじゃねぇよ。連中が無理矢理押しつけやがったんだ」

飛葉は少しばかり乱暴に洗い桶を卓袱台に置くと、いかにもつまらなそうな素振りで腰を下ろした。

 ブドウをつまみながら、飛葉は世界の様子をうかがってみる。この間、飛葉が『ボン』を出た理由を、残ったメンバーが言わない筈がなかった。どうせ面白ろおかしく脚色され、背鰭や尾鰭が惜しげもなくつけられた話を聞いているに違いない。そう思うとばつが悪くて仕方がないのだが、世界は普段と変わらぬ様子で煙草を吸っている。飛葉は落ち着かない気分でブドウに手を伸ばし続けた。互いに口を開かないでいることは珍しくない。しかし、今日ばかりは沈黙に気が重くなる。

「飛葉」

不意に世界が言った。

「こんなもの使っても、練習にならんぞ」

世界は手の中の缶を飛葉に投げて寄越すと

「だいたい、上手い上手くないっていうのがだな、話にならん」

と、言葉を継ぐ。飛葉が視線を合わせると、世界が柔らかい微笑みを浮かべた。

「こういうのはな、気持ちの問題だ」

世界はそう言うと、静かに飛葉に唇を寄せる。

 触れ合うとすぐに離れ、次の瞬間に再び重なる唇が静かに熱を帯びていくのを飛葉は感じていた。深く求め合うのではなく、触れ合うだけでも高まる熱を不思議に思う飛葉が

「あんたの言うことは、よくわかんねぇ」

と、吐息と共に呟くと、世界が破顔する。飛葉の腕を取って、その身体を抱き込んだ世界は、飛葉の少しクセのある柔らかい髪に口づけながら、

「こればっかりは一人で練習するものじゃないってことだ」

と囁く。

「あんたじゃ練習になんねぇよ」

「どうしてだ」

世界の問いに飛葉は耳までを朱に染めて、うるさいと怒鳴った。世界は飛葉の怒声を笑いながら受け止めると

「気持ちの問題ってのは、つまり、そういうことだ」

と答える。世界の笑いに釣られた飛葉は、照れくさそうな微笑みを浮かべると、自ら世界に唇を寄せた。


実地練習をさせてみました。
つーか、これでは練習になりません。
本気ですね(笑)。
でも気持ちの問題らしいので、オッケーやな。


HOME ワイルド7