木村徹先生の、ピアニストを志す者への手紙第1弾です☆
僕がまだ小学生の頃に先生よりいただいたものです。
ピアノを弾くということがどういうことなのか、よく考えてみて下さい。
ピアノを弾くということは、ピアノという楽器の音で音楽を奏でることです。音楽は芸術のひとつです。芸術というのは、人と人との心の出会いです。言い方を変えれば、自分と同じことを感じながら生きている人がいるのだということを確認するということかも知れません。時には自分ではあまり気付いていなかった気持ちを発見させられるということもあるかも知れません。これは、絵や彫刻などの美術や文学、演劇などの音楽以外の芸術にも共通のことだと思います。 ピアノを弾くときには、(楽譜を見る前に聴いて知っていることもありますが)普通は楽譜を読むことによって曲を知ります。楽譜というのは、作曲者がいろいろなことを感じて心の中に(頭の中に)作った曲を他の人に伝えるために目に見える形に書いたものです。でも、音楽は耳に聞こえて人間の気持ちを動かすものだから楽譜のように目に見える形にするのには少し無理があります。 音の高さとか一応の長さ(リズム)のめやすなどは書き表すことができますが、本当にどんな音がするのか、その音でどんな事柄や気持ちを表わしたいのかは、全部書きつくすことは出来ません。だから、まず楽譜を読むには、書かれていることを手掛かりに作曲者と心を通わせ、そこに書かれているのは本当はどんな音楽なのかを感じとらなければいけないわけです。 別のたとえをすると、楽譜とは音楽を冷凍した状態のようなものです。冷凍した魚を解凍(書いてある音を何も感じないでただ弾く)しただけでは、どうにもなりません。煮たり焼いたり味付けをすれば、食べられるようにはなるかも知れません。でも作曲者の心の中にあった時、魚は生きて泳いでいたのです。だからその曲を弾く人は冷凍した魚をふたたび生き返らせ、作曲者の思い描いていたように泳がせるのでないと弾く甲斐がありません。作曲した人と自分とは他人だから、まったく同じことを感じるとは限りません。でも人間同士です。自分が生きてきた間に感じたことの中に作曲者が感じたことの共通の気持ち(接点)がきっとあります。それが、心の出会いであり感動となるでしょう。楽譜を読むということは、どんな音楽なのかを理解し、作曲者と自分の心が出会い、感動するということではないでしょうか。 ピアノを弾くということは、その感動を聴く人と一緒に感じようとすることだと思います。そこでは、作曲者とピアノを弾く人と聴く人の心が出会うのです。音楽は生き物であってその場の空気の中で弾く人と聴く人が感じ合う(感動を共有する)のだから、あらかじめ型にはめてつくっておいて、そのまま弾いてくるというわけにはいきません。一回一回まるで初めてのようにその音楽と出会うのです。 だから練習そのものが毎回感動的で、出来ればいつも新しい発見に満ちているのがいいのです。練習とは決してあるきまりきった型になるように自分の演奏を固めていくことではありません。むしろ、自分の耳(心)が完全に自由になるために練習するのが大切ではないでしょうか。毎回練習のたびにこのように弾く(ということは聴く)のは大変な心のエネルギーと集中力を必要としますね。でも心のエネルギーはすごい勢いで使うと疲れて減ってしまうというものではありません。夢中で使えば使うほど心の奥から沸き起こってあふれてくる強さは増してくるものです。 音楽は言葉で表すことは出来ませんから、ピアノを弾くとこの心の動きというのもここに書いたのと違う考え方や言い方もいくらでも出来ます。世の中には正しくないもの(考え方)がたくさんありますが、正しいもの(考え方)も一つではありません。………というより正しいものも無限にあります。正しいか正しくないかということも見方のひとつで変わってしまうということもあります。こうでなければいけないことなんてありません。君も音楽について何事にもとらわれず自由に考えてみると、自分が生きていることと音楽することの間に意味が生まれてくるでしょう。 |