作曲と編曲について(かとず)

別館"Feux follets"の掲示板にて、以下のような質問が出ました。

 
   「作曲と編曲ってどう違うのでしょうか?            
    歌などでは作曲者と編曲者が別の場合が良くありますよね?  
    平たく言ってしまえば、どこまでいじれるのかな、と思いまして。」

これに対して、僕自身は明確な答えを見出せなかったので、
作曲家の「かとず」さんに御助力を仰ぎました。

「歌なんかの場合、メロディーだけ作ったら作曲者で、      
オケの伴奏をつけたりした人が編曲者なのでしょうか??   
クラシックの場合はわかりやすいのですが・・・       
どうもこのへんのことはよくわからないです(@@      
パガニーニのカプリースの24番を用いてブラームスやリスト、 
シマノフスキその他がやったことは作曲だと思うのですが。  
            ・・・なんだか難しいです(;_;)」

と、かとずさんにメールでお伺いしたところ、
大変わかりやすく詳しい回答を得ることができました。
以下に掲載するのはかとずさんからいただきました回答です。
かとずさんの許可をいただき、一部文体を改めてここに御紹介いたします。


編曲、と一口に言っても、意味はとても広く、漠然としています。

まず、ポピュラー音楽の場合は一目瞭然です。
メロディ(と、かんたんなコード進行)をつくった人が作曲家、
それ以外の部分は、すべて編曲家、ということになります。
そうはいっても、作曲者(の力量)によってとうぜん状況は変わるわけです。
ただ、絶対的な権力は作曲者の方にあるので、編曲者は、
作曲家の言うことを(どんなアホなことでも)聞いてあげなければいけません。
だからといって、編曲者が絶対服従しなくちゃいけない、というわけでもないのですが。
人間関係次第ということでしょうか。

それに対して、クラシックの方は複雑です。
大きく分けて、2種類あると言えるのではないでしょうか。

まずは、「アレンジ(並べかえ)」。
もう一つは、「トランスクリプション(書きかえ)」。
この2つは歴然と分けられるわけではないけど、編曲者の創意、
いうなれば自己の主張が強いほど、後者ということになります。

つまり、リスト等の編曲作品は、「トランスクリプション」といえるわけです。

ただ編成を変えた、というだけではなく、編曲者自身の音楽があるわけです。
これは、限りなく作曲に近い(もしくは同一の)過程を経ていると言えます。
尤も、リストの場合は、自作品の編曲もやっているわけで、
どちらが原曲かどうかもはっきりしませんが。
というのは、同じ楽想で2・3曲違う編成で作ってしまったりすることがあるのです。

そうそう、日本語では編曲と近い言葉に「改作」というのもありますね。
そのほかに「注釈(コメント)」というのもあります。

現代作曲家のなかには、
「トランスクリプション」を自分の創作の基本にしている人もいます。
この人は、曲を聴くと、とても傲慢な人だと思います。
だって、他人の曲も自分の曲にしちゃうのだから・・・。
それだけ力がある証拠なのですが。
ちなみに、ベリオという人です。

結局は言葉のあや、ということになります。
(これでは、まったく質問に答えていないな・・・。)

「どこまでいじれるか」ということですが、
これは、自分の良心にかかってると思います。
結論は、原曲の姿が聴こえるかぎり、編曲の範囲になる、ということ。
(原曲の姿、というのはもちろんメロディラインに限ったことではないけど。)

ただし、編曲者は、傲慢になってしまってはいけない!
と、わたしは強く思うわけです。
その一方で、自分が編曲することで、原曲よりよくなるんだ〜、
と思うかぎり、やるだけやってみれば、とも思いますが。
そうしていると、いつのまにか、自分は編曲家から、
作曲家に、肩書きが変わっていることでしょう・・・・。

そんなものではないでしょうか?
本当の、100%オリジナルというのは、
この世に生きている限りあるわけがないのですから。

つまり、作曲は、「トランスクリプション」である。
ということは、作曲とは、「編曲」である(!?)。

・・・とも言い得るわけです。
が、飛躍しすぎたので、今のは撤回しておきます。
もしかしたら、核心かもしれないけど・・・。


以上です(^^)
かとずさん素晴らしい考察をお聞かせ下さり、
本当にありがとうございました。