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「ようし。用意はいいぞ。ミリオン」
 教授の声を合図にミリオンは、ヴァイオリンを左肩に構え弦に弓を乗せました。
 そして深呼吸をすると、さっきまで練習していた『お散歩めだまくん』という曲のメロディーを思い浮かべました。
 するとどうでしょう。ミリオンの左手の指がひとりでに動き始めました。弓を持つ右手もです。
 少し調子はずれな細く高いヴァイオリンの音が、丘の上に広がりました。
 ミリオンは満月を背にして目を閉じ、メロディーを思い描きながらヴァイオリンを弾きました。
 丘の上を、さらさらと渡る風に乗って最初は自信なさげに小さかった音も、少しづつ大きく軽やかに聞こえてきます。
 やがて曲は『お散歩めだまくん』から、ますます楽しげな『そらとぶ心臓』に変わりました。
 陽気なメロディーが何曲も続き、月がすっかり天空高く昇る頃、街から丘に続く一本道を何かが登ってきました。
 それは、奏でられるヴァイオリンに合わせて、まるで踊るかのように、ぴょんぴょんと跳ねながらミリオンの
 すぐ傍までやってきました。ミリオンがちらりと足下を見ると、2本の腕がミリオンを見上げるように佇んでいます。
 教授の腕にちがいありません。ミリオンは再び、『そらとぶ心臓』を弾き始めました。すると2本の腕は、
 その弾むようなメロディーに合わせて踊り出し、大きな木の周りをぐるぐると回り始めました。
 ミリオンもなんだか楽しくなってきて、くるくると踊りながらヴァイオリンを弾きました。
 月の光を浴びながら、ふたりのダンスは続きます。
 その時突然、バサバサッと大きな音がして、木の上から大きな網が落ちてきました。
 ミリオンは一瞬、何が起ったのかわからず、その場に立ちつくしてしまいました。
 見ると2本の腕が網の中でもがいています。「ミリオン!! 網を押さえてくれ!!」
 大きな声にミリオンは、教授が木の上から網を投げたということに気付き、大慌てでヴァイオリンを置くと、
 網をぎゅっと押さえました。

「やれやれ…。やっと捕まえたわい…」
 ホッとしたように呟きながら、教授が木から降りてきました。腕は網の中でバタバタと暴れています。
 教授は、そんな腕を押さえ付けて言いました。
「こいつめ! 逃げ出すだけならまだしも、盗みまでして…。帰ったらたっぷりとお仕置きをしてやるからな」
「捕まえられてよかったね! 教授」ミリオンは、網から手を放して言いました。
「ああミリオン、ありがとう。御苦労じゃったな。」
「なんだか、すごく元気がいいねぇ。この腕…」
 2本の腕はなんとか網を引きちぎろうと、中から引っ張り始めています。
「サバイバル生活が長かったから、野生化しとるんじゃろ。こら! いい加減にしないか!」
 そう言うと教授は、暴れる腕を平手で叩きました。腕はまるで飼い主に叱られた犬のように、急におとなしくなりました。
「ふう…、まったく困ったもんじゃ」汗を拭いながら、教授は言いました。
「不用心に、外に干すからいけないんだよ」
「そうじゃな。今度からは気をつけるとしよう。洗濯バサミくらいはつけとこう」
 そう言いながら、教授は持ってきた大きな鞄に、腕を網ごと入れました。
「教授。このヴァイオリン返すよ」ミリオンはヴァイオリンを差し出しました。
「ああミリオン、それはお礼にお前さんにやろう」
「う〜ん…、嬉しいけど要らないや」
「なんでじゃ? さっきは楽しそうに弾いておったぞ」
「だって…。これを弾いてたら、なにか変なものが来そうだよ」
「いかんなぁ。子供が遠慮をするなんて。人の好意は素直に受けるもんじゃ」
 そう言いながらも渋々、教授はミリオンからヴァイオリンを受け取りました。
「………教授。不思議なんだけど、この腕どうして音が聞こえるの?」
 ミリオンは、ちょっと疑問に思っていたことを聞きました。
「知らん。盗みをしたりパンを食べたりするのだから、音くらいは聞けるだろうよ。
 さて、と。取り敢えずは帰るとするかな…」
 教授が、そう言って鞄を持ち上げた瞬間、中に入っていた腕が、再び暴れだしました。
 そして、ぐいぐいと鞄ごと引っ張り、逃げだそうとします。
「わっ、わっ!! こりゃたまらん」教授は、鞄に引きずられるように、走り出しました。
「教授! どうしたの! 教授!!」ミリオンはびっくりして叫びました。
 教授は腕が入った鞄に引っ張られるまま、どんどんと丘を駆け下りていきます。
「置いてかないでよー。教授! 待ってよー!」
 ミリオンは一生懸命に教授を追い掛けました。でも、その距離は離れていくばかりでちっとも追い付きません。
 走れば走るほど遠くなっていくようです。.だんだんと足がもつれてきたミリオンは、大きな木の根っこに気付かずに、
 つまづいて転んでしまいました。
「あ…、痛っ、いたたた…」
 嫌というほど膝を擦りむいたミリオンが、ようやく立ち上がった時には、教授はどこにも見当たりませんでした。
「教授…。どこに行っちゃったの?」
 いつの間にか、明るかった月も隠れて辺りは真っ暗です。ミリオンが途方にくれていると、少し先の木の影で、
 がさがさ、がさがさがさ、と物音がしました。
「あ! 教授! 置いてきぼりなんてしないでよね」ほっとしたミリオンは、音のする方向に駆け寄りました。
 すると、そこには何十本という腕が、一斉にミリオンを見上げるようにずらりと並んでいました。
 ミリオンはギクリとして、思わず後ずさりし、お互いにしばらく凍り付いたように動きませんでした。

「や…、やぁ、こんばんは…」
 最初に、ミリオンが恐る恐る挨拶をしました。すると腕達もその掌を振って答えました。
 その中から、ひと組の腕がミリオンに近寄り、しきりに合図を送ってきました。
「えー…、なに? なにが言いたいの?」ミリオンは、どくどくと打つ胸の鼓動をおさえながら聞きました。
 腕は、左手の指を動かしながら、右手を小さく振りました。
「あー、わかった! ヴァイオリンだね? …ヴァイオリンを弾いてほしいの?」
 そうミリオンが尋ねると、腕達はみんな嬉しそうに拍手をしました。そして、ねだるように近づいてきました。
「ごめんね。今はもう、ヴァイオリンは持っていないんだ。教授に返しちゃったから。だから聴かせてあげられないよ」
 ミリオンは慌てて言いました。腕達は、そんなミリオンの言葉を無視するように、どんどんと近づいてきます。
「聞こえないの? もうヴァイオリンは持っていないんだってば!!」
 ミリオンは、ずるずると後ろにさがりながら、大きな声で叫びました。
 大勢の腕達はそんなことはおかまいなしに、ミリオンを取り囲むようにじりじりと詰め寄ってきました。
 囃し立てるように両手を叩くものや、ミリオンの服や髪を引っ張るものもいました。
「いやだよ! やめてよ!」
 ミリオンが、どんなに腕達を振り払っても、後から後からやってきて、きりがありません。
 何十本という腕が目の前に迫ってきて、ミリオンは気が遠くなりました。

「ミリオン!! ミリオン!! さあ、起きて!」
 激しく肩を揺さぶられて、ミリオンは目を醒ましました。
「あれ? パパ? ママ?」
「うたたねしていたみたいだね、ミリオン。風邪をひくといけないから、休むならベッドでお休み」
 パパはミリオンに言いました。
「…お帰りなさい。パパ、ママ」
「ただいま、ミリオン。帰るのが遅くなってしまって心配していたわ。だけど、いい子にしていたみたいね。
 留守中なにか変わったことはなかったかしら?」
 ママが聞きました。
「うん、……なにもなかったよ、ママ」
 ミリオンは眠そうに瞼をこすりながら、答えました。
「そうかい良かった。ああミリオン、お前にお土産があるよ」
「えっ、パパ。本当?」
「ああ、本当さ。さあこれだよ」
 そう言って、パパはリボンのかかった箱ををミリオンに手渡しました。
「わあ、ありがとう。なんだろう? 開けてもいい?」
「ああ、いいとも。開けてごらん」
 ミリオンは、リボンをほどいて箱を開けました。そこには、小さなヴァイオリンが入っていました。


 パパが、にっこり笑って聞きました。
「どうだい、ミリオン。気に入ってくれたかい?」
 


おしまい


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