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「街の連中は、アイリンのことは諦めろと言ったが、そんなことは聞けるはずもなかった。
ある日わしは街を出て、アイリンを捜しに行こうと決めたんじゃ」
「トーマスさん、それって何年も前のことでしょう? ずっと今まで捜していたの?」
「ああ、そうじゃ。何年も何年も捜した。気の遠くなるくらいにな。いろんな国、いろんな街を旅して捜した。
何度も諦めそうになったが、その度に、出征前夜の誓いの言葉を思い出して捜し続けた。
いつしかアイリンを捜すことが、わしの生活になっていった…」
「トーマスさん、でも、こうは考えなかったの? その人が生きているとしても、とっくに誰かと結婚して、
幸せに暮らしているって」
「ああ…。そうじゃな。考えないこともなかったが、その頃のわしには、それもどうでもいいことのようだった。
ただ、アイリンにもう一度会いたい。それだけだった…」
「ふうん」
ちょっと、迷惑な話だわ…。あたしは思いました。
「アイリンを探している間は、まるで彼女が傍にいるような気分だった。旅の途中、たったひとりで
寂しくはないかとよく聞かれたが、そんなことは少しもなかった。眠る時には夢にアイリンが
出てきてくれることを祈って眠った。夢に見るアイリンはいつも若くて美しいままだった…。
わしは少しづつ老いてくるというのにな」
「ふうん」
あたしはコーヒーのおかわりをカップに注いで、トーマスさんに手渡しました。「ありがとうよ。ブン。はて、どこまで話したかな…」 「夢の中に出てくる、アイリンさんは、いつまでも若くて美人だったってところまで」 「おお、そうじゃった。夢の中で、わしらはよく会えた。昼間はどんなに探しても会えないというのにな。 お互いを愛する気持ちは変わらなかった。そのことでわしはとても幸せだった」 「でも、今日、その人は本当に見つかったのでしょう? 会いにはいかなかったの?」 「ああ…」 「何故? そんなに何十年も捜し続けたのに。…あ、もしかして旦那さんがいたの?」 トーマスさんが、首を横に振りました。 「いや、アイリンはひとりだったよ。もっとも結婚はしていた。相手は先年亡くなったそうだがね」 「それだったら、なんの問題もないじゃない? どうして会いに行かないの?」 「さぁ…。どうしてだろうね。ブン。アイリンが見つかったとわかった時は、飛び上がるほど嬉しかったさ。 すぐに確かめにいったよ。物影からそっと見たが、わしにはすぐにわかったよ。老けてはいたがアイリンに 間違いはなかった。なのに足が前に進まない…。つらくなってきて逃げ帰ってきたんだ」 「……つらくなった?」 「わしにもよくわからないんだよ…。あれほど会いたくて、何十年とかけて捜したのにな…、 思うにわしは、この生活を終えるのが、嫌なのかもしれないな…。毎日の仕事とアイリンを探すこと…。 夢の中で彼女に会うこと…。もうすっかりわしの日常になっている。それが変わってしまうのが こわいのかもしれん。なによりもわしは、夢で会うアイリンを愛しているようじゃ」 「………」 「物影から見た本当のアイリンは、幸せそうだったよ。夫に先立たれたって話を聞いていたが、 今では小さな孫達に囲まれているようだった。わしのことなど、きっととっくに忘れてしまっているさ」 そう言ってトーマスさんは、少し笑いました。 「………」 「今さら、わしが会いに行って、なんになるというのだろう…」 「………」 「わしは、アイリンを探している間に、自分を失くしてしまったようだ…」 トーマスさんは、ゆっくりと立ち上がるとカップをテーブルに置きました。 「ごちそうさま、ブン。話を聞いてくれてありがとう」 「トーマスさん…」 「わしは、いろんなことに気付くのが遅すぎたみたいじゃな…」 トーマスさんは、それからしばらくして、街を離れました。「ブンや。来週、新しい人が部屋を借りにくるよ。トーマスさんが使っていた部屋がいいかな…。
掃除をしておいてくれないかい?」
鍵を渡しながら、パパがあたしに言いました。
「わかったわ。パパ」
あたしは、トーマスさんが使っていた部屋の扉を開けました。部屋は綺麗に片付いて、
ガランとしていましたが、窓の下に一枚の写真が落ちていました。
「あら? 忘れ物…」
その古い写真には、一人の若い女の人が写っていました。
伝え聞いた噂によると、トーマスさんは今でも違う街で靴磨きの仕事をしながら
生き別れた恋人を探しているそうです。
何十年と、探し続けた今までと同じように、これからも探し続けるのでしょう。
もう決して見つかるはずのない人を。「バカね…」
窓から見た宵闇通りは薄暗くどんよりと曇っていました。もうすぐ、雪の降る季節がやってきます。
END