トーマスじいさん
宵闇通りはいつだって暗いわ。心のさみしい人たちが住んでいるから なおさら…
あたしは、ブン。パパはアパートの管理人をしています。
この間、一人のおじいさんが部屋を借りました。名前はトーマスさんといいます。「ブンや、新しく部屋を借りたトーマスさんだよ。部屋に案内しておくれでないかい」
鍵を渡しながら、パパがあたしに言いました。
「初めまして、トーマスさん、部屋まで荷物を運ぶのをお手伝いするわ」
「ああ、ありがとう、お嬢さん。でもかまわないよ。荷物といってもこの鞄だけだから」
おじいさんの荷物は、少し大きめのトランクと小さな革の鞄でした。
「あら、たったそれだけなの?」
「ああ、わしはあちこちを転々としているからな。荷物はなるべく持たないようにしとるんじゃ」
「それじゃ、そっちの小さな鞄を持つわ。あら以外と重いのね? 何が入っているの?」
階段を昇りながら、あたしは尋ねました。
「商売道具じゃよ」
「商売道具?」
「わしは、靴磨きをやっとるんじゃよ」次の日から、トーマスさんは街に出て、靴磨きの仕事を始めました。
毎日、朝は決まった時間にアパートを出て、暑い陽射しが照りつける日も、強い風が吹く日も
夜遅くまで、部屋に戻ってはきませんでした。
雨の降る日は広場を離れて駅の軒先で。トーマスさんは一日だって休みません。
あたしは、不思議に思って尋ねました。
「トーマスさんが、休んでいる日をあたしは見たことがないわ。なんだってそんなに毎日毎日、
ずっと休まず働きに出るの?」
「わしは人を捜しとるんじゃよ。遅く帰ってくるのも、仕事を終えてから人捜しをしているからさ」
「人?」
「ああ、そのために街に出て、いろんな人に尋ねているんじゃ。街に立っているといろんな話が
聞ける。風の噂も流れてくる」
「ふうん。捜している人って、どんな人?」
トーマスさんは、困ったように笑うだけで答えてはくれませんでした。それから何カ月かたったある日のこと、まだ陽も落ちない時間に、トーマスさんがアパートに
帰ってきました。
「あらトーマスさん、今日は随分と早いのね? どうしたの?」
「ああ、ブンかい…。ついさっき、わしの探している人がみつかったよ」
「まぁ、それはおめでとう! よかったわ」
「ブンや。わしの話を聞いてくれるかい?」
「ええ、喜んで。ちょっと待っててね。今、コーヒーをいれるわ…。はい、どうぞ」
トーマスさんはカップを受け取ると、一口飲んで目を閉じました。「ブンが生まれるずっと前…、遠い昔に戦争があったんじゃ」
「知ってる。あたしのパパも戦争に行ったよ。たくさん人を殺してクンショーもらったの」
「そうじゃな…。たくさんの人が殺し合った…。わしだってそうだ。その頃、わしはまだ若くて…、
国には結婚を誓い合った恋人がいたのさ。名前はアイリンといった」
「ふうん」
「出征する前の夜、わしは恋人に誓ったのさ。必ず生きて帰ってくる。どんなことがあっても、
お前のもとに戻ると…。だから死ぬな、生きていれば必ずお前を見つけるから…と」
遠い目をして、トーマスさんが言いました。
「何度も死にかけたあの戦いの中、心の支えはアイリンだった。彼女の顔をもう一度見たい。
声を聞きたい。この手で抱き締めたい…。それだけが望みだった。そんな戦争もわしらの国が
負けて終わった。だが、わしには勝ち負けなんぞどうでもいいことだった。ただ生きている。
アイリンのもとに再び帰れる…それで嬉しかった。じゃがな…」
「アイリンさんは、いなかったの?」
あたしは聞きました。
「ああ、そうじゃ。アイリンはいなかった。街は、昔の面影がないくらいひどくやられていた。
わしは呆然とその場に座り込むしかなかった。やがて難を逃れて戻ってきた連中が、アイリンの行方を
教えてくれたが、みんな言うことがまるで違う。最後の大きな空襲で死んだという者…。
その前に遠い街に避難したという者…。敵の兵士に連れ去られるのを見たという者…。
噂を頼りに行方を探したが、はっきりしたことはわからなかった」
そう言ったあと、トーマスさんはしばらく黙り込みました。
「…くよくよしていても始まらない。わしは、アイリンがいつ戻って来てもいいように、街の復興の仕事に
力を注いだ…。生きていれば、約束したように、必ずここに帰ってくると信じていたんじゃ。
だが1年経って2年が過ぎてもアイリンは戻ってこなかった。もしや本当に死んでしまったのかとも考えた。
……そんなことは思いたくもなかった。それが事実ならわしの心は闇になってしまう…」
思い出したように、コーヒーを飲むとトーマスさんは続けました。