1999年の夢幻紳士 
〜WHEN YOU WISH UPON A STAR〜


 師走の街は、慌ただしい中にも華やいだ空気に溢れ、街は競うように飾られている。
 デパートのウィンドウでは、賑やかなクリスマスディスプレイが道行く人の足を止めていた。
 大きなツリーがきらびやかなイルミネーションに彩られて、街全体が輝いているように見えた。 

 大通りから離れた路地裏で、息を潜めるようにバーが一軒、静かに佇んでいた。  
 黒いコートを羽織った青年が懐かしい目をして、店の扉の看板を眺めていた。
 古ぼけた焦げ茶色の木の扉。街の中でもこのビルは旧い建物だった。
「ここに来るのは何年ぶりかな…」そう呟くと、少しだけ重い扉を押した。

「いらっしゃいませ」
 カウンターの中のバーテンは青年に声を掛けた。
 レコードがジャズを鳴らしている。青年はゆったりとコートを脱ぐと奥に近い席に腰掛けた。      
 きびきびとした動作で、バーテンは青年の前に灰皿とコースターを置き、お絞りを手渡すと尋ねた。 
「何に致しましょうか?」
 他に客のいない店の中に、サックスが奏でるメロディーが流れている。
「ドライマティーニを」
 青年はそう答えると、胸ポケットから煙草を取り出した。 
                            
「静かな夜だね」
 青年は、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「表通りはクリスマスで華やかですね…、でもこの辺りはいつもと変わらないかもしれません。
 それにまだ早い時間ですし…、9時を過ぎたらここも賑やかになると思います」
 バーテンは、にこりと笑った。笑顔があどけない。
「君は、この店の店主? 随分若いようだが…」
 青年が、マティーニの冷たいグラスに唇を寄せながら聞いた。
「ええ…。そうです。もっとも、一カ月前までは私の祖父がこの店の主でした」
 バーテンが、ミキシンググラスを洗いながら答えた。
「君のお祖父さんが…、そう…」
「祖父は、亡くなりました。ちょうど一カ月前です」
 バーテンは、そう言うと、濡れた手をふきながらカウンター越しの青年の前に来た。
「私は、他の店で修行中の身だったんですが…、祖父の築いたこの店を、終わらせるのが惜しくて、
 あとを継いだんです。この店には、まだ馴染んでいないかもしれません」
 バーテンは、カウンターの上の梁を撫でながら言った。
「確かにとてもいい店だ…、君のお祖父さんは、この店を大切にしていたんだね」
「ええ…、もうとても旧い店ですが…、50年くらい経つそうでです。…失礼します」
 そう言うと、付き出しのナッツの皿を青年の前に置いた。
「ああ、おかわりをくれないか?」
 青年は、空になったグラスを、コースターの上に置いた。
「かしこまりました」
 バーテンはカウンターの下にある小さな冷蔵庫からタンカレーの瓶を取り出した。
 青年は、バーテンが新しいカクテルを作るのを見ながら煙草に火をつけた。
 紫煙がゆっくりと天井に昇っていく。

「君の癖は、彼に似ているね」青年がそう言うと、バーテンは驚いたように顔を上げた。
「祖父を御存じなのですか?」
 いつの間にかレコードが終わったらしく、店の中の音楽が途切れている。
「ああ…、もう随分と昔だけどね」
「祖父がやっていたこの店に、来て下さっていたのですね」
 マティーニを青年の前に置くと、バーテンはレコードを仕舞い、今度はCDをかけた。
 甘い女性ヴォーカルが歌いだす。知っている曲のようだと青年は思った。
 だが曲名は思い出せない。カバー曲なのか印象も随分と違うように感じた。
「ああ、とても嬉しいです。昔の祖父を知っている人が来てくださるなんて…。
 私が主になってから、祖父の頃のお客様も遠のいたのです。それは仕方のない事ですが…」
「これだけの味を出せるのだから、きっと前の客も戻ってくるよ。新しい客もつくだろう」
「私は、お祖父ちゃん子で…、祖父の仕事に憧れていました。だから同じバーテンに…。
 何か祖父の事で知ってらっしゃる事はありませんか?」
「さぁ…、あまり話はしなかったからね。ただこの店を、戦後何年か経ってから持った事と、
 酒に対する愛情が深かった事。ああ、それからジャズをとても愛していた事は伝わってきていたよ」
 青年がそう言うと、バーテンは嬉しそうに顔を上気させた。
「祖父は戦後、進駐軍のキャンプでバーテンの修行をしたそうです。それがきっかけで、復興と共に
 この街に店を持ったそうです。だからジャズもその時に…。この店にあるレコードは、みんな祖父が
 集めたものです」
 そう言って壁一面のレコードを見た。レコード棚にある小さな写真立てに古い写真が収まっている。
 バーテンはそれを手に取ると青年に手渡した。
「若い頃の祖父と、この店です」
 青年は懐かしそうに写真を見ると、そのまましばらく黙り込んだ。

 曲が変わった。
「ああ…、私の好きな曲です」
 バーテンが青年のために3杯目のマティーニを作りながら言った。
 ピアノと共に、優しく包むような女の声が歌う。

  〜If you heart is in your dream   
           No request is too extreme〜

 カウンターの上に置かれた、タンカレーの緑色の瓶が美しく光っている。
 青年は何本目かの煙草に火をつけた。
 

「そろそろ帰るとしよう、勘定を…」やがて青年は、そう言って立ち上がりかけた。
「いえ、今日はお代はけっこうです」バーテンは両手で、小さく制して言った。
「今日は祖父の話ができて、とても嬉しかったです。祖父はいつまでも、私の憧れで目標ですから…。
 それに今日はクリスマスですしね」
「それでは僕の気が済まない…。次に来る時までつけておいてくれ」
「ええ…、是非また来てください」
 にっこりとバーテンが笑う。
「君の気持ちは、きっとお祖父さんに伝わっているよ。きっと喜んでいるさ」
 青年はそう言って立ち上がった。

 青年が出口に歩み寄った時、不意に扉が押され女が飛び込んできた。
 真っ白なロングコートに身を包み、長い髪を薄茶色に染めた浅黒い肌の二十歳前後の美しい娘だった。
 女は、急に自分の目の前に現われた青年にぶつかりそうになって、驚いたような表情を見せたが、
 すぐににっこりと笑うと「ごめんなさい」と小さな声で謝り、そのまま中に入っていった。
 青年は軽く苦笑すると、静かに扉を閉めた。
「星に願いを…、か」
 青年は路地裏で空を見上げた。ビルの狭い隙間からまばらに光る星が微かに見えた。
.

「なんだよ。仕事場には来るなって言ってるだろう」
 苦い顔をして、バーテンが女に言った。
「いいじゃん、ちょっとくらい。お客だっていないんだし」
 女が店を見回して、弾けるような声で言った。
「それに今日はクリスマスなんだよ! すぐに帰るから少しくらいなら、いいでしょう?」
「まぁ…、ちょっとの間だけだぞ…」
 不承不承、承知したような顔をしてバーテンが横を向く。
「相変わらず暇そうねぇ。こんなでやってけんの?」
「うるさいなぁ。まだまだこれからだよ。まだまだ修行中の身なんだから」
「はいはい、頑張ってね。おかげでアタシは寂しいけどね」
 金色に光る唇を尖らせて女は言った。
「痛い所を突くなぁ…。そう言えば、さっき祖父さんの時代のお客様が来て下さってたんだぞ。
 僕の作ったカクテルを褒めてくれたんだ」
「うんうん。敦の作るカクテルは美味しいと思うよぅ。アタシにはベリーニをちょうだい。
 ところでお客様って、さっきの人?」女が扉の方に目をやって聞いた。
「ああ、そうだけど」
「敦のお祖父さんのお客にしては、若かったわね? アタシと変わらないくらいじゃない? 
 それにしても綺麗な顔の人だった!」
 女は、ほうっと思い出すように言った。
「何を寝惚けた事を言ってるんだよ。僕はさっき、お前がぶつかりかけた人の事を
 言ってるんだよ。老紳士って感じで、僕の祖父さんと同じくらいの歳の人だよ」
「敦の方こそ、何を寝惚けてるのよ。サンタさんでも見たんじゃないのぉ」
 女はそう言うと、けらけらと笑った。
.

 銀座四丁目の和光のウィンドウの前では、人待ち顔が溢れていた。
 青年が楽し気な道化師の飾り付けを見ていると後ろで声がした。
「お待たせしたね」
 青年が振り向くとそこには、一人の老人が立っていた。
「ああ…、やっと来たね」
「すまなかったね。変な頼み事をして…」
「まぁ、いいさ。孫が心配なのは、どこでも同じと見える」
 くすくすと笑いながら、青年は答えた。
「お孫さんは、大丈夫だよ。あんたが心配することもないさ。今は客足が遠のいているけど
 すぐに繁盛するよ。あの味だからな」
「ああ、ありがとう。なんだか安心したよ。さて何処に行こうか? 久しぶりに“L”にでも行ってみるかい?」
「それはいいが…、お前さん、そのままじゃまずいだろう。マスターが腰を抜かすよ」
 青年が笑いながら言った。

 師走の街は、慌ただしい中にも華やいだ空気に溢れ、街は競うように飾られている。
 デパートのウィンドウでは、賑やかなクリスマスディスプレイが道行く人の足を止めていた。
 大きなツリーが、きらびやかなイルミネーションに彩られて街全体が輝いているように見えた。

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