冬 景



 枯れ木が谷底に落ちる乾いた音が小さくなり、本格的に舞い始めた雪と共にやがて消えた。

「間一髪」

世界が安堵の息をつく。飛葉は世界の腰に結ばれたロープをしっかりと握り直し、

「危ないところだった」

と、小さく笑う。それから世界は飛葉の背中を片手で支えて

「とっとと上に行け」

と言った。

「あんたが先に登れ。こういう時は……年寄りが優先だ」

「お前を抱えたまま岩登りをしろって言うのか?」

世界は、それこそ冗談ではないと言いながら顎で上を指し示し、

「さっさと行け。俺はここでロープを抑える」

と、極めて事務的な調子で指示を出す。飛葉は一瞬だけ瞳に躊躇いの色を浮かべたが、すぐに迷いを振り切るように両の手でロープを握りしめた。

◇◇◇

 二人の生命を現実に繋ぎ止めているロープが谷底から吹き上げる突風に煽られて、ぎしぎしと軋む。世界は渾身の力で崖に取り付いた足を支点とし、肉体と精神を限界まで使って間に合わせのロープで二人の生命を支えている筈だ。

「よりにもよって、こんなボロを使いやがって」

慎重に、けれど急いでロープを伝い登りながら飛葉が独りごちた。

 グローブ越しに伝わるざらついた感触がロープが極めて粗悪なものであることを、そして彼らには一刻の猶予もないことを物語っている。飛葉は焦りを身中深く押さえ込みながらロープを手繰り、窮地では常に背中を預けることになってしまう男の安否を気にかけずにはいられない。けれど彼を無事に崖上に生還させるためにはまず、飛葉自身が2本の足で大地を踏みしめることを優先すべきであることを自身に強く言い聞かせ、確実な上昇を目指す。

 仲間と共に死地から生還し続けること──それがかつて飛葉の教育係でもあった男から教えられたリーダーとしての責任であり、自身の生命と引き替えてでも守りたいと思わずにいられないことが飛葉の願いでもある。単なる風花だと思っていた雪が次第に勢いを強めるのを認めた飛葉は小さく舌打ちをして、ロープを揺らさないように崖を登る速度を上げる。

 ようやく崖の上に辿り着くと、白い雪片が吸い込まれていく谷底を覗き込む。

「おい、上がってこい。上から補助する」

飛葉はそう怒鳴ると、世界が崖を蹴るタイミングに合わせてロープを少しずつ引き寄せる。ロープが切れる前に、雪が吹雪に変わるその前にと、飛葉は我知らず呟いていたが、唇の端を僅かに振るわせただけの声は木枯らしにかき消され、誰の耳に届くこともなかった。

 やがて崖の空と大地の境にグローブに包まれた指先がかかり、飛葉は先刻まで死の淵で格闘をしていたはずの男の名を呼んだ。その腕をすっかり引き上げてしまおうとする飛葉に片方の口角を上げて世界は応えながら、世界は崖の向こうにあった身体を完全にこちら側に移した。

 「やってくれるじゃねぇか、その歳で」

緊張から解放された飛葉が早速軽口を叩き、世界は呆れたと言わんばかりの表情を浮かべる。それから懐から煙草に火を点け、深く息を吸い込んでから紫煙を吐き出した。

「ガキの頃からサーカスだの軽業だので鍛えていたのは、伊達じゃないってことだ」

実に美味そうに煙草を燻らせながら世界が言うと、飛葉が面白くなさそうに鼻を鳴らす。

「あんたは100歳になってもバイクを転がして、空中ブランコにぶら下がってるな、絶対」

「100歳まで生き延びたところで、お前に苦労をかけられるのはわかってるってところが、何ともやり切れんな」

「うるせー!! ボケたあんたの下の世話させられる心配をしてんだよ、俺は!!」

飛葉は怒鳴るとバイクのほうへと歩き出し、世界は苦笑しながらその後を追った。


某裏取引でいっしー石井さんに描いてもらった世界と飛葉です。
原作では早々に殉職してしまう世界だけに、
ついつい長生きしていただきたいと願ってしまいます。
飛葉が心労をかけなければ、大丈夫だと思います。

いっしーさんとは割かし裏取引をよくするような……。
本人達は結構楽しいんですけどもね(笑)。

いっしーさんのサイト:『真昼の星』はこちら


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