早春賦-3


「おやじ、もう1本つけてくれ」

世界が銚子を目の高さに上げて言った。ほどなくして老人が熱い銚子を世界の前に置く。猪口に注がれた日本酒はほのかに甘い香りを放ち、飛葉の鼻孔をくすぐった。

 飛葉は世界が鮪の握り鮨に手を伸ばした隙に、猪口を失敬しようとしたのだが、彼の手は間髪を入れずに世界に阻まれた。

「ケチケチすんなよ。いいじゃねーか、ちょっとくらい」

「下戸が何を言ってるんだ。ここで寝込まれたらおやじが迷惑するだろう。ここは山の中の一軒宿じゃないんだぞ」

「あんたが説教したって、何のありがたみもありゃしねーよ」

そう言って飛葉は、再び猪口に手を伸ばそうとするのだが、世界は頑として譲らない。

「未成年が酒を飲むんじゃない」

「今から練習すりゃ、成人するまでに飲めるようになるって」

「だったら、家に帰って一人でやれ。俺は、いつかみたいにお前の介抱を押しつけられるのはご免だからな」

世界と飛葉のやりとりを聞いていた老人が、二人の会話の中に割って入ってきた。

「おい、このボウズは下戸かい」

「ああ。この間、コップ酒一杯でぶっ倒れたんだ。おやじ、こいつに飲ませるなよ」

世界の言葉を聞いた店主が、カウンターの下から琥珀色の液体で半ば満たされたガラス瓶を出し、コップにごく僅かだけ注ぐと、炭酸水でグラスの大部分を満たした。

「梅酒、飲んでみるかい? ボウズ」

破顔する飛葉を押し止め、世界が老店主に言う。

「おやじ、酒は駄目だって言ったろう」

「おいおい、こんなもん、酒のうちに入りゃしねぇって。嘘だと思うなら、旦那が先に毒味してみな」

世界は差し出された梅酒に口をつけた。確かに酒が入ってはいるが、それは微かにその存在を感じる程度でしかなく、むしろ後から注がれた炭酸水の味のほうが勝っており、子どもが飲んでも問題ないように思われた。これならいかに酒に弱い飛葉であっても、酔いつぶれることはないだろうと考えた世界は、手にしたコップを飛葉に渡し

「いいな。一杯だけにしとけよ」

と、言い含めた。飛葉は

「わかってるって」

と言うと、飛葉は上機嫌で、アルコール度が限りなく低い薄い梅酒を飲み始めた。

 酒を飲み終え、寿司を摘んでいた世界が隣に目をやると、飛葉はカウンターに突っ伏して眠っていた。

「まったく、さっきまで一人で大騒ぎをしたあげく、これだ」

世界が呆れたようにつぶやいた。子どもでも平気で飲めるだろうと思った程度の酒にも耐えられない飛葉は、梅酒を飲み終えてしばらくすると睡魔にさらわれ、今ではすっかり夢の中の住人と化している。

「かわいいもんじゃねーか。まだまだ、おっかさんのオッパイが恋しい頃だろうよ」

老店主の言葉に、世界は笑みを浮かべる。

「こんなだから仲間からガキ扱いされる」

「そんで、店に入ってきた時みたいに、真っ赤な顔して怒るんだろ?」

「ああ。それが面白くてな、ついからかっちまうんだ」

「いい仲間だな」

「ああ」

◇◇◇

 「飛葉、しっかり目を覚ませよ」

重い瞼をこすり、飛葉は世界にムニャムニャとした返事を返す。

「寝たら捨てていくからな」

足下が危うい飛葉に肩を貸した世界に、老店主が折り箱を手渡した。世界が店主の顔を見ると

「うちのババァが作ったおはぎ、持って帰えんな。このボウズには酒より、こっちのがいいだろ」

「いいのか?」

「ああ、この時期には店に来た客、全員に出してんだ。ダンナは食わねーみたいだから、出したこたぁなかったけどよ」

「じゃ、遠慮なくもっらとくぜ。おい、飛葉。お前も礼くらい言え」

「いいって。このボウズ、半分寝てるぞ。このまま引きずって帰ってやんな」

「そうだな」

飛葉を抱えるようにして店を出ようとする世界のために、老人は白木の引き戸を開けてやり、そして

「このボウズ、また連れてこいよ」

と言った。世界は微かな笑みでそれに答えると、ゆっくりとした足どりで帰途についた。

◇◇◇

 半ば夢の中にある飛葉の重みを肩に感じながらアパートへの道を歩んでいる世界は、凄烈な花の香りを感じて足を止める。周囲を見ると、そこは往路、飛葉が今の世界と同じように足を止めた場所だった。

「八百の野郎、妙な知恵をつけやがって……」

世界はそうつぶやくと、花の香りと共に冷ややかな空気を胸に入れ、安心しきったように体重をかけてくる飛葉を見る。そのあどけない表情に世界は少し頬を緩めた後、再び家路を辿り始めた。


『下戸飛葉』は美味しい。『下戸飛葉』は使える。
ちなみに世界の行き着けの寿司屋は、町中にある庶民的なお店なので、
どなたにもお気軽にご利用いただけます(笑)。
この作品は、ももきちと司書の煩悩メールから誕生しました。
最近、こんなん多いです。


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