闇夜の道連れ 2


 闇の中、望美は目を覚ました。ついさっきまで、得体の知れない何かに追いかけられる恐ろしい夢の中にいて、ようやく追っ手を振りきったと思ったら本物の闇の中にいたのだ。

 幼い頃から怪談話を聞かされたりホラー番組を見た後には、必ずと言ってよい程に恐ろしい夢を見る。更に始末の悪いことに、夢から目覚めるとトイレに行きたくなるのだ。けれど真夜中のトイレなど恐ろしくて、とても一人では行けない。故に、子供の頃は母親にトイレへの付添役を頼んでいたし、用を足している間もドアの外で話しかけてもらったりもしていた。最近ではさすがにそういったことからも卒業したが、例えば修学旅行や林間学校といった行事などで出かけた先の、様子のわからないトイレに行く時に限っては思案を巡らせることも少なくない。しかし女同士の連帯感のお陰で、連んでトイレに行く仲間に事欠くことはなく、誰もが多少は似たような状況だということもあり、真夜中にトイレに誘っても問題はなかった。

 しかし、ここは望美が住んでいた世界ではない。水洗式のトイレしか知らない望美達は、彼女や譲達の感覚では既に過去の遺物でしかない汲取式トイレに慣れるまでにも相当な精神力と時間を要した。柔らかなトイレットペーパーがない不便さもだが、それよりも大問題なのは、無防備な身体の下にぽっかりと空いた、暗くて異臭を放つ穴だ。

 作り話、唯の噂や風聞、都市伝説の類だとわかってはいるのだが、幼い頃に物語やテレビや映画、マンガで散々見聞きし、想像してしまった諸々が脳裏をよぎる。

 そう、見たことはないけれど、きっと奈落に似ているその穴──肥溜めの中から突然に突き出される血まみれの手だとか、不気味に響く赤い紙と白い紙のどちらかを選ばせる声とか、空気をざわつかせながら這い上がってくる無数の芋虫だとか、何か言いたげな首のない落ち武者や濡れ衣を着せられて密かに命を奪われたお女中だのの影を、どうやっても振り払えないのだ。

 さすがの平家も、厠の中にまで怨霊を放ってはこない筈だとわかっている。それに景時が念には念を入れて邸の周囲に結界を張ってくれているわけなのだから、得体の知れない何かが邸に侵入することはない。わかってはいるが、それでも厠に行く勇気の出ない望美は、瞼を固く閉じる。朝になるまでもう少し、もう少しと自分に言い聞かせてみたものの生理現象には勝てず、褥をそっと抜け出す。

 几張の向こうで眠る面々を思い起こしてみたが、さすがに厠まで付き合ってほしいとは言えない。何かにつけて自分を気にかけてくれる八葉の彼らなら、望美の頼みを断ったりしないだろう。だが、一応は花も恥じらう17歳の乙女としては、そんなことは絶対に頼んだりできない。物心ついた頃から傍にいた有川家の二人──何でも笑い飛ばしてくれる将臣であれば冗談めかして頼めたかも知れないが、年齢不相応のしっかり者とは言え年下の譲に対しては、一応は譲よりも年長だという矜持もあるわけだ。リズヴァーンや敦盛には申し訳なく、小さな白龍は論外。ヒノエと弁慶は気遣いが細やかそうでもっとイヤ。九郎はきっと呆れ果てるに違いない。朔の兄の景時であれば、かなり情けない自分のままで甘えても笑って忘れてくれそうなのにと思いつつ、望美は意を決し、そっと部屋を出る。

 風を入れるために開け放たれたままの渡殿をそっと進んでいると、微かな足音が近づくのに気付いた。歩みを止めた望美が恐る恐る振り向くと、明るい髪を背中で緩くまとめた夜着姿の九郎と目が合う。

「厠か」

俺もだ、と言いながら隣に並ぶ九郎の、デリカシーの欠片もない、ストレートな物言いに呆れつつも、望美は多少アレではあるけれども一人で渡殿の端まで歩き、更に坪庭の向こうにある厠まで行かなくてすむ幸運に胸を撫で下ろす。

 「厠に化け物などいないんだ」

唐突に九郎が言った。

「それから、真夜中の厨で盗み食いをする子鬼もいない。経堂で念仏を唱え続ける死に損ないの坊主も見たことがない。真夜中にいるのは、経文を囓ろうとする鼠と、そいつを狙って忍び込む猫くらいだ」

「どうして、そんな風に言えるんですか? 怨霊がいるような世界なんですよ? そういうのがいたって不思議じゃない気がしません?」

自信たっぷりに断定する九郎に、望美が問う。すると九郎は当然だと、胸を張って答えた。

「子供の頃……鞍馬の寺で一緒だった先輩稚児や戒を受けて間もない若い僧侶共は、何かというと新入りの俺をからかうんだ。さっきのような怪談話もしょっちゅう聞かされた。だがな、全てが作り話に過ぎない。適当なことを、面白可笑しく話しているだけだということが、真夜中の探索でわかった」

だから恐れることなどないと、九郎が言う。

「あの……九郎さん。もしかして……恐いままなのが嫌で、それで調べたんじゃないですか?」

「幼き身とて、真実を知れば恐れるものはなくなる」

 それだけのことだと言って、決まり悪そうにそっぽを向く九郎がひどく幼く見えて、思わず望美は微笑み漏らす。それに気づかないのか、感づいていても知らぬふりを決め込んでいるのかわからないが、足早に厠を目指す九郎に望美は並び歩きながら、小さな九郎が怖々真夜中の古い寺の中を歩く姿を想像した。半泣きになりながらも周囲を窺い、闇の中を前に進む九郎はきっと今よりも格段にかわいげがあったのだろうと思うと、不思議と恐怖感が薄らいでいく。望美は心密かに感謝しながらも、ついついからかいの言葉を口にしてしまう。

「つまり、それまでは恐かったんですよね、オバケ」

「修行の足りぬ、子供の頃のことだ。いい歳をして、一人で厠にも一人で行けぬお前に言われたくはない」

「で、恐かったんですよね? そうですよね?」

 からかいながら言い募ると、九郎はむっつりと黙り込んでしまった。

 剣を振るう時や、見事な手綱捌きで駿馬に跨り戦場を駆け抜ける姿からは想像もできない幼い様子に、望美は忍び笑いを止められない。

「笑うな」

「はい、九郎さん」

「笑うなと、言っている」

「わかってますよ」

「わかってない」

「ちゃんと、わかってますって」

答えながら、それなりに頼りがいのある背中をパンパンと叩くと、落胆しているのか諦めているのか判じがたい溜息をつき、兄弟子は歩みを早める。望美は慌てて九郎に倣い、急ぎ足で皆が眠る広間に向かう」

「ちょ……待って。置いてかないでってば」

「お前など、もう知らん」

 勝手にしろと言い捨てる九郎は、それでも望美が無理をしない速度を守っている。その背中は、今は夢の中でさえもなかなか会えないでいる、懐かしい家族を思い起こさせた。


九郎と望美の関係は、リズヴァーンの不肖の弟子コンビが大好きです(笑)。
お互いにストレスを解消するための口喧嘩とか口喧嘩とか、
負けん気を発揮しての剣の稽古とか稽古とか。
そんな二人を微笑ましいと思いつつも、
もちっと大人になってくれんかなぁと密かに願うリズ先生というのが大好物(笑)。

ちなみに、ここまで臭い仲になってしまうと恋愛フラグは立ちようがないわけで、
個人的見解として、この二人は永遠の血のつながらない兄妹ではないかと。


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