異聞・微笑みの脅迫 2


 川の浅瀬で足を取られたのだと騒ぎながら、望美が濡れ鼠のヒノエと左手を繋ぎ、右手には竹箒を持ったまま弁慶の庵に飛び込んできたのは、それから程なくのことだった。桜の季節は終わっているとは言え、濡れたものを着たままでは風邪を引くからと、望美は甲斐甲斐しくヒノエの世話を焼く。弁慶も着物を乾かしている間の間に合わせにと作務衣を渡す。その間に朔が、望美への手土産にと持参したのか、熱い飴湯を作って皆に振る舞う。

「で、何が原因なんですか?」

騒ぎがひとしきり落ち着いてから、弁慶が口を開いた。

「僕だけならまだしも、結果的にはご近所一帯まで騒ぎに巻き込んだんです。教えてもらっても罰は当たらないと思いますが……」

「俺が悪かったんだよ」

望美が答えようとするのを遮るように、ヒノエが言う。

「俺が望美の機嫌を損じたんだ」

だから、この騒ぎの責は自分にあると、ヒノエが言葉を重ねる。その言葉に肩を振るわせ、ヒノエの方へと向き直る望美の瞳に弁慶は、剣呑な光を認めた。

「ヒノエ君……やっぱりわかってない……違うね、どうでもいいんだよ、最初から。私がどう思ってても関係ないんだ……お人形みたいに着飾って、笑ってたらそれで満足なんでしょう!! だからいつだって、私が怒るとすぐに謝ってくれるけど、でもそれは……本当は怒らせたままだと面倒だからって。それで、ただ謝ってくれるだけなんだ。『ゴメンね』って言えば、それで済むと思って……」

「ちょっと待てよ、望美。オレは綺麗なだけのお人形なんかに興味はないぜ? お前に本気になったのは、お前がお前だからなんだ。普段は危なっかしいくせに、仲間を守るとなったら先陣切って怨霊の群れに飛び込んでいくお前……どれほど綺麗か、分かってないだろう?」

「もう、いい!! いつだってスラスラスラスラ、どこかのチャラ男かホストか接客ロボットみたいにいいことばっかり言うのだって、計算ずくなんじゃない!! ヒノエ君の言うこと、全部真に受けてる私ってバッカみたいじゃないのよ!!! 情けなくて、情けなくて、もう……」

「ほら、やっぱりオレのせいだ……」

涙と共に感情をこらえたせいか、望美の語尾は頼りなく消え入ってしまう。それをヒノエは、弁慶にさえそうと分かる誠実さで受け止めようとするのだが、望美は差し出された手を拒絶する。

「何とも思ってないなら、そんなことしないで!!」

 話が全く噛み合わない望美とヒノエに、弁慶が言葉をかけた。

「ああ、もう二人ともいいですから。僕の質問にだけ答えてください」

いいですね、と、穏やかながらも有無を言わせぬような声で弁慶が二人を見据える。

「まず、ヒノエ。何故、君は望美さんの話を聞かずに、いきなり謝ったりしたんですか」

「姫君が眉を寄せてたからさ。二ヶ月ほど熊野を留守にしてたんだ。伊勢から運ぶ荷があって、そいつには別当の検分がいるって話で、荷送り人とちょっとした顔つなぎもあったのさ。野暮用が終わって舟を出そうにも、霧のお陰で船が出せなくて何日かつぶしちまってさ。結局、予定よりも帰りが遅くなった。オレの帰りを待ち侘びる奥方様はさぞ寂しいだろう、ご機嫌も斜めになってるだろうってね」

「では、望美さん。君は……?」

「ヒノエ君が……ヒノエ君が本当は鱒の味噌漬けは好きじゃないって……鱒は塩漬けのを少し水で塩抜きしてから焼いたのか、醤醢に漬けて干したのじゃないと食べないって……だけど私知らなくて……私だけが知らなかったのよ……!!」

思いもかけないことだったのか、驚きのあまり腰が浮きそうになるヒノエを視線で制し、弁慶は話の続きを望美に促す。

「ヒノエ君の留守に……お義母さんから聞かされて……子供の頃から絶対に食べなかったのに、最近は食べるようになったのねって。私、好き嫌いなんかないから、ヒノエ君に食べられないものがあるなんて考えもしなくて……何回も……何回も味噌漬けの鱒を出しちゃって……」

「それで?」

「謝ろうと思ったんです」

「なのにヒノエは勘違いをした?」

「だって……だって『おかえりなさい』って言う前に、先に謝っちゃうんだもの! だから……腹が立って……頭に血が上っちゃし……」

 夫婦喧嘩の理由など取るに足りないものとわかってはいたが、望美から聞かされたこの騒ぎの顛末のお粗末さに、弁慶は全身の力どころか気力さえも奪われるのを感じた。

「望美……ごめんな。知らなかった……」

「ヒノエ君……私こそごめんね。知らなくて、無理して食べてくれてたんでしょ? 今まで……」

「ああ、それだけどね、姫君。お前がオレのために用意してくれたものなら平気みたいだ」

「嘘」

「嘘じゃないって。オレも不思議に思って、出先で食べたんだよ、鱒の味噌漬け。けど、食えたもんじゃなくてさ」

「ヒノエ君は優しいから……そう言ってくれてるんでしょ?」

「オレが望美に嘘をついたことがあるかい?」

 いつの間にやら二人の世界に入ってしまった望美とヒノエを眺めながら、弁慶が溜め息をつく。

「よくも、まぁ……終いには舌が腐って落ちますよ、ヒノエは」

「でも弁慶殿。ヒノエ殿は軽口を叩くことはよくあったけど、嘘をつく人じゃないわ」

それにしてもと、朔は頬に手を添えて微笑みながら、二人の間の誤解が解けたことに安堵したと微笑む。

「朔殿はやさしいですね」

「弁慶殿もでしょう? 望美の気を紛らわせながら置いてくださるなんて」

 望美と同じくらいに素直な瞳を向けられて、人を疑うことのない精神こそが龍神の神子の資質なのだろうかと思いはするが、だからと言って八葉の一人でヒノエの叔父で、更に今では望美の義理の叔父でもあるという理由だけで、夫婦喧嘩に巻き込まれてはたまらない。正直なところ、望美が薬師の仕事を手伝ってくれるのは助かるし、侘びしい一人暮らしに彩りを添えてもらえるのは願ってもない話だ。だが、ヒノエまでを抱え込むというか、二人の諍いの喧噪に巻き込まれるのは御免である。

 弁慶が無言で思考を巡らせている間に、望美とヒノエは仲睦まじい様子で語り合っており、その傍らには朔が寄り添っていた。

「望美さん。君、京は久しぶりでしょう。どうですか、しばらく朔殿の邸に行っては。女性同士、積もる話もあるのでは? ああ、もちろん、ヒノエが許してくれればの話ですけどね」

「いいね、それ。そうしなよ、望美」

「でも……いいの?」

「もちろんさ。哀しませた償いを、オレにさせてくれよ」

「よかったわね、望美。私も嬉しいわ。ヒノエ殿が顔を出してくれて、もしかしたら貴女にも会えるかと思って、小豆餅の用意もしてあるの。久しぶりに一緒に作りましょうか。それから譲殿から教わった『ドリア』も随分上手になったのよ。是非、食べてもらいたいわ」

「嬉しい! ありがとう、朔。それから弁慶さんも」

「おいおい、オレは一番最後なのかい? つれないね……」

「最後にいっぱい『ありがとう』って言うつもりだったのに」

「ふふ、かわいいね。オレへの礼は、二人きりの時がいいな」

「それじゃぁ、望美さんは朔殿と先に行ってくださいね。ヒノエ、君、ここに残ってもらえますか」

あからさまに不満げな表情を浮かべるヒノエに一瞥もくれず、弁慶は望美と朔に言った。

「僕もヒノエに会うのは久しぶりですし、熊野の様子も聞かせてもらいたいと思いましてね。望美さんに寂しい思いをさせてしまうのは申し訳ないのですが、二、三日、君の大切な人を僕に預けてはくれませんか」

「私は全然オッケーです……あ、そうだ、今日のお手伝いがまだ……」

「そんなのは気にしなくていいんですよ。それともヒノエがいないと、寂しすぎますか?」

「朔がいてくれるから、大丈夫です。二人は親戚同士ですもんね。私、我慢できますから」

「お話が終わったら、お二人で来てくださいね」

 対の龍神の神子は慈愛に満ちた微笑みで応えると、男同士の話を邪魔してはいけないからと、手早く支度を整えて庵を後にした。

「おい、アンタ。どういうつもりだよ」

さっきまでの愛想の良さをどこに置いてきたのか、ヒノエの険しい視線が弁慶を刺す。

「因果応報って、知ってますか」

「因果応報? 話が見えねぇな」

「ここに居候するお礼を、望美さんは身体で払うと言ったんです。可愛い奥方様の代わりに裏の畑の草むしりと洗濯、頼みますよ」

「望美に洗濯までさせたのかよ」

「僕は止めました。何度も何度もね。けれど、聞いてくれないんですよ。本当に、熊野水軍の頭領には過ぎた人ですね、彼女は。兄上が彼女を可愛がる姿が見えるようだ」

「何で、そこで親父が出てくるんだよ」

「君の場合、親の因果が子に報い……ということもありますから」

 弁慶は表情の読めない微笑みを浮かべながら、昔話をしようと言った。

 ヒノエの父、藤原の淡快は旺盛な行動力を有する男と知られており、その活力は当然のことながら女性にも向けられる。正室を誰よりも大切にしてはいたが、外には常に数人の女がいたことは弁慶だけでなく、ヒノエも知るところだ。武家の生まれ育ちのヒノエの母は良妻賢母を絵に描いたような女性だったが、時に淡快の行いが彼女の許容量を超えると、熊野でも奥深いというか、獣道くらいしか通じていない、女人のためだけにある寺に隠ってしまう。そうなると淡快は慌てて末の弟の弁慶を遣いにやるのだった。

「君がお腹にいる時にも一度、義姉上は邸を出ていってしまいましてね。その時は……二ヵ月くらい隠ってしまわれて、僕は毎日のように訪ねていったものです。ようやく義姉上が会ってくれるまでには一ヵ月くらい。戻って欲しいという兄上の申し入れを受け入れるまでに更に一ヵ月。ようやく舘に戻ったと思ったら、義姉上は産気づいてしまわれた。いいですか、君が無事にこの世に生まれたのは、僕のお陰でもあるんですよ」

 兄どころか、その息子からも夫婦喧嘩のとばっちりを受ける自分に、多少は報いても罰は当たらないのではないかと弁慶が言うと、ヒノエはそんな理屈があるモノかと反論する。弁慶は、なるほど、それでは仕方がないと、ヒノエの言葉を飲んだ。

「仕方ないですね。じゃぁ、最初の約束通り、望美さんに頼みましょうか。畑の草むしりくらいなら……」

「おい!!」

「彼女は優しいですから、君の代わりに汗を流すのを厭うたりはしないでしょう。最初から、そういう約束でしたしね」

「おい! 弁慶!!」

「選びなさい、ヒノエ。望美さんから朔殿との楽しいひとときを取り上げるのか、それとも素直に僕に従うのか」

「きったねぇ……!!」

 ヒノエは歯ぎしりをして言い捨てると、そのまま庵を出ていった。弁慶がこの日届ける予定の薬を調合しながら裏手の気配を探ると、ヒノエが文句を言う声が聞こえる。その様子はかつて兄の淡快が、蟄居から戻った妻の機嫌を取るために甲斐甲斐しく動いていた姿を思い出させた。

「熊野水軍を動かすのは、結局、今も昔も奥方衆だということですね」

人の悪い微笑を浮かべながら、弁慶は一人呟いた。


個人的な主観として、遙かシリーズにおけるノーマルカップリングの立ち位置は、
やはり神子が左で八葉が右であってほしいというか、そうだと信じて止みません(笑)。
あと、神子とくっつくのは誰であってもこだわりはないです。
むしろ、そんな二人に振り回される人達が愛しい今日この頃。
ちなみにこのお話で一番苦労したのは、下らない夫婦ゲンカの原因を考えることでしたよ。


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