風 花

 月の光を受け止めてきらめく湖面に風花が吸い込まれてゆく。北東に海を臨んでいたグレッグミンスターよりも早い冬の使者の訪れを、グレミオはただ無言で見ている。水面に触れた途端、跡形もなく消えてしまう白い雪に再び責め苛まれる日がくるなどと考えたことがなかった。グレッグミンスターにいた頃は風花の到来は美しい冬の到来を告げる使者であり、幸福の印であった筈なのにとグレミオは短い間に遠くなってしまった過去を振り返る。

◇◇◇

 今はもう顔も思い出せなくなった両親の形見の斧を抱えて放浪していたグレミオはある年の冬の吹雪の夜、吹雪に行く手を拒まれて力尽き、斧を抱きしめたまま凍る大地を褥(しとね)に瞼を閉じたことがあった。睡魔に意識を絡め取られる寸前、グレミオの身体から熱を奪い続けていた雪が花弁に姿を変えた瞬間は、今も鮮やかな風景として彼の記憶の奥にある。

 雪に半ば埋もれていたところを赤月帝国のテオ・マクドール将軍に救われ、彼から乾いた衣服と暖かな部屋を提供された。命を助けられた国境近くの駐屯地ではマクドール将軍の身の回りの世話を仕事としてあてがわれ――グレミオにとっては恩返しのつもりだったが、軍の規定に倣った給金さえ与えられた。グレッグミンスターに戻ってからは将軍の愛息ティル・マクドールの付き人となり、グレミオは物心がついてから続いていた放浪の暮らしに別れを告げ、特定の場所で色々なものを築いていく生活を始めることになる。

 旅の空の下で暮らしていた頃は厳しい冬の訪れを告げる雪を嫌っていたグレミオだったが、幼いティルが雪を相手にはしゃぐ姿を目にするようになってからは雪にも好ましい面があるのだと知った。それでもテオが帝国の北の国境に赴いている時には雪を疎ましく思うのを止められず、はしゃぐティルに感じる愛しさと、雪に行動を妨げられているかもしれない北方で任務に就くテオの身を案じずにはいられなかったものだ。

 それでもマクドール家にいた頃は心を乱さずに済んだ。だが今は心を引き裂く痛みを押さえ込むほかに術がない。激しい流れの中で弄ばれるかのように変化した状況の中、ティルは少しずつ、そして確実に解放軍のリーダーとしての資質を示し始めている。腕に覚えのある戦士達との訓練を重ね、今ではグレミオにティルの棍の鍛錬の相手は務まらない。ティルの成長はグレミオにとってこの上もなく嬉しいことだったが、いずれ訪れるであろう、避けがたいテオとの対決の瞬間を思うと為す術もなく、ただひたすら祈るしかなかった。敬愛してやまないテオと、その一人息子であるティルが刃を交えるなど、グレミオとっては論外だった。決してあってはならない最悪の事態を目の当たりにするくらいなら死んだほうがましだとさえ思う。幼い頃からティルの傍近くに仕え、ティルの付き人ではない自分など既に考えられなくなっているのを承知で愚にもつかないことを考える己を嘲笑う一方で、グレミオは父と息子が肩を並べられる日を迎えるためにできることはないものかと思案を巡らせてみたりする。

 しかし解放軍の末席にその身を置いているとは言え、グレミオはティルの付き人でしかなく、例え戦闘に参加しはしても彼はティルを守るためだけに大斧を振るうのみで、解放軍の行く末を決める軍議に加わることはなかった。長年、共にティルの傍近くにあったクレオやパーンは戦士としての資質や経験の全てを解放軍のために注いでいる。解放軍メンバーの中には二人と同じように解放軍の運営に参加してはどうかと進言する者もあったが、グレミオは従軍経験がないことを理由にそんな勧めを断り、厨房や洗濯場や倉庫などで立ち働きながら付き人としての本分を果たしていたのだった。

 聡明なティルがこの先に待ちかまえているテオとの対立を――立場的には既に二人の対立は、もはや決定的だったが――予想していない筈はなく、その日のためにティルなりに心の準備を始めているのだろうことはグレミオも感じている。何よりも日々鮮やかさを増していく棍捌きがティルの心情を、テオを説得するために対等の位置を目指そうとしていることを雄弁に物語っていた。

 かつてグレミオのマントの裾に戯れていた幼児は既に一人で大地に立ち、力強い瞳で周囲を魅了し、多くの仲間の信頼を得ているのだ。彼は既に誰かに守られねばならないほど弱くはない。否、グレミオの庇護の下に留まる必要性さえ今はないと言えた。解放軍には多くの腕に覚えのある戦士たちがいる。その勇猛さで名を馳せた彼らのほうが自分よりも遙かにティルの守護役にはふさわしい。

 「それでも、まだ……私は……」

 吸い込まれるように水面に消える雪の儚さに、グレミオが眩暈を覚えたその時、

「おいおい、お前、何やってんだ? あぶねーだろうがよぉ」

と言いながら、ビクトールがグレミオの腕を引いた。

「ビクトールさん……」

「この寒いのに、よくもまぁ、こんな所にいるもんだ」

 粉雪にマントを染めたグレミオの姿に、ビクトールは苦笑いを浮かべる。

「魚でもいるのか」

「いえ……雪を……水に降る雪を……見ていました」

「珍しいのか、こんなもんが」

ビクトールが指先で鼻の頭を掻きながら問う。

「グレッグミンスターではまだ、風花には早い時期ですから」

「風花……て、グレミオ。この雪は積もるぜ?」

「え、でも月が……」

出ている筈の月を探すグレミオの視線が漆黒の空に向けられたが、落胆の白い陰がその唇から漏れた。ビクトールがグレミオの髪に肩に、そしてマントのそこここについた雪を払ってやれば、グレミオは慌てた様子でビクトールの手を止める。

「遠慮すんなよ」

「いえ、私の不心得で勝手に雪まみれになったわけですし、それでビクトールさんにご迷惑をおかけするわけには……」

グレミオが先刻のビクトールよりも乱暴にマントの雪を払い落とすのを眺めながら

「我らが軍師殿の話では、この冬は軍を動かさずに兵力の強化をするとかって言ってたぞ」

と、誰にともなくというような素振りで言った。

「ではマッシュ殿は、帝国軍は動かないと判断されたわけですか」

「ああ。小競り合い程度はあるだろうが、都市同盟との国境付近に配置された鉄甲騎馬兵は出てこないだろうって話だ」

「確かに……冬場のあの辺りは雪深くはありますが、それは誰もが知っていることです。テオ様なら敢えて兵を動かし、敵の虚を突くかもしれません」

「それも考えたんだがな、どうやら今年の冬は寒くて雪も多いんだそうだ。夏と秋の具合でわかるんだとか何とか……まぁ、そんなこんなで、な」

「そうですか……」

ようやくマントを叩き終えのか、グレミオが顔を上げた。

「あのよ、俺は……あんま難しいことも、ややこしいこともわかんねぇんだけどな」

思い詰めたように青ざめたグレミオに、ビクトールは思わず話しかけていた。

「けどよ、この世には考えても仕方ねぇことがごまんとあるもんだってことだけは、確かだ。考えても仕方ねぇことは、考えんのをやめちまえ。考えるのは軍師殿の仕事で、何かを決めるのはリーダーの仕事だ。お前さんや俺達がアレコレ悩むこたぁねんだよ」

「私……そんなに酷い顔をしているんですか」

グレミオが力無く笑う。

「ああ、まるで幽霊……いや、違うか。今にも身投げしそうなツラだった」

「ご心配をおかけして、すみませんでした。そんなつもりはなかったんですけど、つい雪に見入ってしまって……」

 それきりグレミオは黙り込んでしまった。おそらく軍議の間中、水に降る雪を見つめながら思案に暮れていたグレミオの心中を思いはしたが、それは誰かがどうこうできる種類のものでないことは明らかだったので、そしてグレミオもそれを承知で沈黙を守っている以上はどうしようもないのだと腹を決めた。

「そろそろ軍師殿がティルを解放する頃だ。行ってやれよ」

「え……ビクトールさん、あなた、どうしてここに? 軍議はまだ終わってないんですか?」

「ああ、俺ぁ便所に行くふりして、まぁ、アレだな。大筋は軍師殿だとか他の頭使う連中に任せときゃいいしよ、俺は戦が始まるまでは用無しってことで、なぁ?」

「そんないい加減な……」

「あれこれ考えたってしょーがねーんだよ。こっちにその気がなくったって、戦うしかねぇ時もある。やらなきゃなんねぇ時に役に立てねぇことだってあるし、そんなもんなんだよ、世の中ってヤツはよ」

だから適当にいい加減にやってるのだとビクトールが言うと、グレミオはようやくくつろいだ表情になり、ビクトールは気取られぬよう安堵の息をつく。僅かな苦さが感じられる微笑だったが、それでも親にはぐれた子どものように頼りなげな様子を見せつけられてはたまらない。

「ま、お前さんはしっかりリーダーのお守りをしてりゃぁいいってことよ。それで万事上手くいくってもんだ」

 ビクトールは殊更乱暴に、けれど身体のバランスを失わないように手加減しながらグレミオの背中を叩く。グレミオは迷惑そうに抗議の声を上げたが、既にその面には普段の穏やかな表情が戻っている。

「あなたの楽天的な性格は称賛に値しますよ、ビクトールさん」

「あんだって? なんか棘のある言い方だな、グレミオ」

「別にそんなつもりはありませんけど、普段の行いが悪いから、そんな風に思うんですよ」

「言ってくれるぜ」

 普段通りの憎まれ口の応酬を幾度か繰り返してからビクトールは、ティルが心配するからとグレミオを城内へと促した。その言葉に大人しく従うグレミオは、湖に張り出したバルコニーからの立ち去り際に囁くように

「ありがとうございました」

と、振り向くことなく言った。

 ビクトールは既に迷いの欠片も感じられない、深い色合いを持つ緑色の後ろ姿を見送りながら、夜空を覆う厚い雲の中から次々に生まれる雪が水面に触れた途端に消える様を眺めてみたが、グレミオのようにものを思う気分にはなれなかった。ビクトールにとって雪はただ雪であり、それ以上でも以下でもない。水に消える雪に誰かの行く末を――ましてや己自身を投影しようなどと考えてみたこともない、ただそれだけのものだった。

 しかし、それだからこそ尚更、雪に思いを馳せる姿に見入ってしまったのかもしれないと、いくらか自嘲気味にビクトールは思った。


対立を免れないティルとテオに心を傷めるグレミオ。
ゲーム中ではむしろクレオが案じていますが、
グレミオにとっては坊ちゃんが最優先事項なので、
普段は上手く忘れたふりをしている気がします。
でもきっと、何かの拍子にテオの身を案じずにはいられないのではないかと。

苦労人のビクトールは多分、そんなのもお見通しで、
でもどうしようもないのが歯痒いのでしょう。


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