幸福の印

 赤月帝国に対してゲリラ的な反抗を繰り返しているグループを解放軍に迎えるための会談は合意に達し、その報告のために急ぎ本拠地に戻ろうとしていた彼らを待ちかまえていたのは赤月帝国の刺客ではなく、濃い霧のような雨だった。

「坊ちゃん、身体を冷やしてしまいますから」

グレミオが緑色のマントで少年を包んだ。

「グレミオが濡れるじゃないか」

少年がマントを返そうとすると、

「いけません、坊ちゃん。坊ちゃんは風邪をひいて寝込んだりしてはならないお身体なんです」

と、グレミオは半ば無理矢理マントを少年に被せる。

「悪いこたぁ、言わねぇ。ティル、今はグレミオの言う通りにしろ」

先を歩いていたビクトールが振り返らずに言った。

「ティル殿、今は彼の言葉に従うがよろしいでしょう。あなたは解放軍の要。何かあったら軍の士気にかかわります」

しんがりを歩いていた解放軍の重鎮・レパントの言葉に、少年が拳を握りしめる。

「すまない、グレミオ」

感情を抑えようとする努力の跡が見える、僅かに悔しげな声にグレミオは微笑みで答えた。そして彼らは音もなく身体にまとわりつく霧雨の中を、トラン城を目指して進んでいった。

◇◇◇

 トラン湖の中央に浮かぶ古城に到着した一行は、解放軍の正軍師のマッシュのもとへ急ぎ、新たに合流することになったグループと取り交わした親書を渡す。マッシュは慎重に親書に目を通してから一行を労い、充分な休息をとるように進言した。

 「さぁ、坊ちゃん。お湯に入って身体を温めてきてくださいよ」

浴場の前でグレミオはティルの背中を押す。

「私は坊ちゃんのお部屋まで行って、着替えを取ってきますから。ちゃんとお湯に入って、それから髪を洗う時には耳の後ろもちゃんと洗ってくださいね」

いつまでも自分を子供扱いばかりしているグレミオに、ティルは苦笑した。

「グレミオも一緒に入ろう」

背中を向けて急ぎ足で立ち去ろうとするグレミオの手を掴んでティルが言う。

「え……でも、お風呂から出て濡れた服を着るわけにいきませんから……」

「サンスケに言えばいいよ。グレミオの着替えも借りられる」

ティルがグレミオの腕を掴んだまま脱衣所に入ると、風呂場を預かるサンスケから威勢のいい声がかかる。

「よぉ、どうしたい? ひと風呂あびるかい? 気持ちいいぞ」

「うん。外から戻ったばかりで濡れたままなんだけど、何か着るものを貸してもらえるかい」

「ああ、もちろんだとも。グレミオさんの分も出しといてやるから、ちゃっちゃと入っちまいな。一番風呂は最高だぞ」

 サンスケに礼を言って奥に進むティルが、サンスケに世話をかけることを恐縮してばかりいるグレミオに言った。

「着替えを持ってくるのを忘れる人がいるからって、マリーが風呂場用の着替えを置いてくれたんだよ。誰が使ってもいいやつだから、遠慮なんかしなくていいんだ。それとも、もしかしてグレミオは、僕とお風呂にはいるのが嫌なのかい」

「そんなことはありません。でも……」

「それじゃ、頭を髪を洗うのが嫌いだとか、耳の後ろを洗うのは面倒くさいとか、熱いお湯に肩までつかるのが嫌だとか……」

「坊ちゃん……」

「僕にマントを貸してくれたせいで、グレミオに風邪をひかれたらみんなが困るよ。ビクトールはきっとまた洗濯物を溜め込んでしまうし、アントニオは厨房を手伝ってくれる人が足りないって言うだろうし、僕はグレミオのシチューが食べられなくなるじゃないか」

「坊ちゃん……そうですね、グレミオの考えが足りませんでした」

微笑みを浮かべたグレミオが頭を下げると、ようやくティルの面に明るい表情が宿る。それを見たグレミオは普段の調子を取り戻し、

「さぁ、坊ちゃん。身体が冷え切ってしまう前にお湯に入ってしまいましょうか」

と言い、今度はティルの背中を押した。

◇◇◇

 「坊ちゃん、ちゃんと肩までつかって、100まで数えるまで出ちゃ駄目ですよ」

幼い頃から毎日のように聞かされたグレミオの言葉に、ティルはつい吹き出してしまった。

「今日は特によ〜く温まらなくちゃいけません。雨で身体がすっかり冷えてる筈ですから」

「相変わらずだなぁ、グレミオは」

「相変わらずって、ひどいですよ〜。坊ちゃんがお元気なのはよ〜くわかってますけど、元気すぎて風邪気味になっても気がついてないことが多かったじゃないですか。ほら……いつだったか、冬になって初めての雪が積もった日に外で遊んだことがあったでしょう。身体がすっかり冷えてしまってるのにも気がつかなくて、夕方にお家に戻ってからお風呂でちゃんと温まったのに、次の日に熱を出しちゃって……」

あの時は、本当に心配したんですよと、グレミオが気遣わしげな表情で思い出を辿る。

「そう言えば、グレミオと一緒に風呂に入るのは久しぶりだよね」

旗色が悪くなったと思ったのか、ティルが急に話題を変えた。幼い頃の思い出話をされるのが照れ臭がるティルの心情に思い至ったグレミオが、何事もなかったかのようにティルの言葉に相槌を打つ。

「ご自分で髪を洗えるようになってから……ですね」

「そっか。だったら、何年ぶりかってとこだ」

呟きながらティルはグレミオの顔をまじまじと見つめ、グレミオは微笑みを浮かべながらティルの視線を受け止める。

 しばらくの間、ティルは黙ったままグレミオの顔を見つめ、その後で不意に子供のような笑い声を零した。

「どうしました? 坊ちゃん」

グレミオが優しく問う。

「うん……グレミオのここ」

ティルがグレミオの両の目尻に指で触れた。

「ここ、笑いジワができてる」

「え……そうなんですか? 気づきませんでした」

それほど真剣に鏡を見ることがないのでと、言い訳めいた言葉を口にするグレミオの目尻に触れている指に少し力を入れて、ティルは嬉しそうに笑う。

「これはね、幸福の印なんだって。この間、オニールがマリーに言ってたよ。いつも笑ってる人にだけ、できるんだって」

「坊ちゃん……」

「よかったね、グレミオ」

そう言うと、ティルはグレミオから視線を逸らし、

「僕も、嬉しいや」

と、小さな声で呟いた。

 照れくさそうに下を向いたままのティルにグレミオが言葉をかけようとするのを遮るように、ティルは強い力でグレミオの身体を反転させて浴槽から押し上げた。

「背中、擦ってあげるよ」

「え、え、え、え、え……」

「遠慮しないで、ほら、グレミオ、そこに座って。早く」

「でも、坊ちゃんにそんなことをさせては……」

「嫌なの?」

「嫌て……そんなんじゃなくてですね、付き人の私が坊ちゃんの手を煩わせるようなことはですね……」

「グレミオが絶対に嫌だって言うんなら、残念だけどやめるしかないけど……」

ティルは幼かった頃、グレミオにそうしたように殊更沈んだ声音を使う。甘えたい時、我が儘を聞いてもらいたい時、ティルはよくこの青年に泣き真似をして見せた。そして人の良い子の青年はティルの芝居に毎度毎度騙されてくれ、ティルを幸福な気分にさせたものだった。ティルは既にあの頃のように小さな子供ではなかったが、グレミオの目には彼のマントの裾を引っ張ってばかりいた時から何ら変わるところはないようで、わざとらしいティルの泣き落としにオロオロとしている。

「ああ〜〜〜〜、坊ちゃん、あの、ええっと、その……」

「駄目なんだね」

「駄目じゃないんです。でも……」

「なら、ほら、あっち向いて、大人しくて。たまには僕の言うことを聞いてくれたっていいだろ?」

ティルの懇願に押し切られるようにグレミオが浴室に備え付けられた椅子に腰を落ち着け、ティルは石鹸の泡をたっぷり立てたタオルでグレミオの背中を洗い始める。

「痛くない?」

「痛いどころか、とってもいい気持ちですよ。ありがとうございます、坊ちゃん」

「そっか、よかった」

ティルはそう言って、幼い頃から知っているこの上なく優しい、けれど今は少し小さくなった背中を洗う手に力を込めた。


「グレ×坊」でも「坊×グレ」でもない筈やのに、
どう手直ししてもっつーか、手直ししても妙にエッチ臭い気がするのは、
やっぱり私の性根が腐ってるからでしょうか。

これはですね、限りなく肉親に近い坊ちゃんと付き人の心あたたまるお話です。
多分、こんな他愛のない坊ちゃんの泣き落としには
グレミオもすぐに降参するのではないかと思いました。
坊ちゃんは可愛い顔して、そこそこ知能犯です。


HOME 版権二次創作 幻想水滸伝 創作