刺激的な日常 2


 理科準備室に向かう途中で職員室を覗いてみたが、山田の姿はない。

 室内に唯一人残っていた日直の社会科教師は図書室が珍しく賑やかだと言い、川辺とそこの従業員達から焼肉バイキングに誘われたのだと山瀬が答えると、不惑も半ばになろうという教師は“ああ、肝試しね”と、笑った。その真意を確かめてみたが、ベテラン教師は人が悪いのか好いのかわからない微笑を口元に浮かべ、何事も人生経験だというばかりで埒があかない。訳のわからないことに巻き込まれるのを敬遠した山瀬が食い下がって見たが、あからさまに面白がっていることが感じられる表情で、彼は“何事も人生経験だから”と笑うだけで、ならば彼も一蓮托生にしてやろうと考えた山瀬は同行を勧めてみたが、一緒には行かないと言うばかりで、結局山瀬は何もかもをはぐらかされたまま理科準備室に向かった。

 川辺たちの来訪と、その目的を告げると、理科準備室の主は春先から熱心に手入れをしている押し花を作っているらしい、古新聞を積み重ねた山を整えながら笑った。

「うわ、久々の肝試しや」

「それ、どういう意味ですか?」

山瀬が職員室での顛末を話すと、山田は少しばかり考えてから

「百聞は一見に如かずっていうことで、こればっかりは実際に行かはった方がええと思います」

と言う。その前に心の準備をしたいからと言うと山田は、自分の貧弱なボキャブラリーではとても表現しきれないのだと笑って、当惑する山瀬の背中を押して理科準備室を出た。

 図書室では川辺興業の三人が、山瀬と山田の到着を今か今と待ち受けていたようで、引き戸を開けるとすぐさま彼らは立ち上がる。

「まだ入れる店あったんや」

と、山田が言った。

「まだ、て何やねん。まだ、て。人聞きの悪い」

そう、川辺が答える。

「実は外環沿いの、K市との境の辺にですね、新しい焼肉の店ができましてん」

「まだ顔、割れてへんのん?」

「オープンしたのは一週間前。今日が初出撃やからな」

「今なら中ジョッキ一杯サービスで、男性3,980円で90分食べ放題ですよ、センセー。行かへんかったら男ちゃいますて」

「言うとくけど、山ちゃん。お前は俺らと同類やで」

「わかってるて。山瀬センセーには気の毒かしらんけど、まぁ、珍しい肝試しができるっちゅーことで勘弁してもらわなしゃーないな」

 不穏な言葉が次々に耳に届くのだが、その言葉を全てつなげても真意がわからず、山瀬はただ途方に暮れた。取り敢えず確かなのは、自分は今から郊外型焼肉店でごく普通の食事を摂ることになっているのだが、そこには肝試しのような恐ろしい何かがあるということだけだ。

 こんな集まりに参加したくはないのが、山瀬の本音である。しかし断り切れないだろうというか、謹んで辞退したところで妙に押しの強い二人に押し切られるか、歳の離れた弟のように感じ始めた二人にほだされるか、そうでなければ容易に体格差にものを言わせられる誰かに連行されるのが関の山だということが経験上わかっている山瀬は表面上は快く、けれど内心では半ば不承不承という気持ちと、抑えきれない好奇心がない交ぜになった複雑な思いで、彼らとの会食を承諾したのであった。

 

◇◇◇

 

 甘いものは別腹だと言い切る川辺の鶴の一声で、食事を終えた一行は終夜営業のドーナツショップでデザートを楽しんでいた。国道沿いの焼肉店を追い出されるようにしてあとにするという、予想もしていなかった事態に未だ戸惑っている山瀬は沈黙を守っている。

「やっぱり、俺らは一回しか行かれへんなぁ」

「まぁ、今回は途中でストップかからへんかっただけ、マシやんな」

「この前、行った店がケチ臭かってん。90分一本勝負の途中で“お客様、そろそろお時間でございます”とかぬかしよって、結局1時間しかおられへんで」

「けど、社長。あの時はまぁ、何とか元は取ったし……」

「アホ。元取らんで店出られるかい。何のためのバイキングやねん」

「にしても川辺興業ご一行様は、そのうち、この辺の焼肉レストランに回状回されるんちゃうか」

「実は山田先生。俺の後輩の一人がファミレでホールスタッフしてますねんけど、取り敢えずブラックリストに社長とセンセーらしき注意人物の特徴が、ファックスとかメールとかで出回ってるらしいです」

「おい、河合。ホンマか、それ」

「金髪でちっこいガテンな兄ちゃんと、その連れのやたらでかいガテン系のニコニコさんには気ぃつけぇて、そいつも店長に言われたて……」

「ちょー、河合君。何で俺まで……俺は三回に一回くらいしか参加してないで」

「山田先生、ガタイでかいから目立ちますもんね。で、小柄な社長と一緒におったら、悪目立ちするんちゃいますか」

 牛飲馬食を絵に描いたような健啖ぶりを見せた山田と川辺、そして川辺興業の二人の従業員達が食べた肉は半端ではなかった。

 店に入り、無煙ロースターが熱を帯びるのさえも待ちきれない様子で、彼らは次々に肉をテーブルに運び続け、あっという間に食材を満載していたショーケースからは肉が消え失せた。他の客から苦情が出る前にとスタッフが急いで補充するのだが、そのスピードを遙かに凌駕する勢いで肉を焼いては食べ、食べては焼いている男達の存在が食材の補充を妨げる。途中、何度か店員達から冷たい視線が投げられたり、時には礼を失しない程度の嫌がらせめいた言動が見られたのだが、そんなものはどこ吹く風といったばかりに山瀬の4人の同行者は動じることもなく、大量の肉と野菜と丼飯を消費し続けたのであった。

 そして山瀬はというと、一気に大量の肉を咀嚼する人間を目の当たりにしたためか、すっかり食欲は失せ果て、ただ呆然と、元を取るどころか、投資金額の数倍になるであろう食事を腹に収める男達の姿をただ眺めているばかりに終始した。そして彼は、客観的に見ても明らかに店側にとってははた迷惑な人間であっても、正規の料金を払い、ルールに則って食事をしている以上、どれほど非常識な食欲を見せたとしても客として扱わねばならない飲食業従事者の悲哀を見たのである。

 「山瀬先生は小食ですねぇ」

と、河合が言い、山瀬は自分は標準だと答えてみた。しかし河合は普段は並でも、バイキングの時はアホほど食べるものではないのかと、実に不思議そうな顔で言うのだ。その言葉に一瞬、そんなものかもしれないと山瀬は思ったのだが、山田と川辺にかなり影響を受けつつある最近の自分を省みてから、

「少なくとも僕は今までで一度も、店の人から出入り禁止を言い渡されたことはないですね」

と、答えてみた。

「へぇ。俺らはたいがい、バイキングの店は一回こっきりで二度と来んなて言われるで」

「俺もです、社長。連れと行ったら大概、そないなるんですよ」

「山田先生は?」

「んー、俺は基本的に自炊やから……あ、けど大学時分、登山部の連中と一緒にメシ食いに行くのはいっつも焼肉バイキングで、二度と同じ店には行かへんかったような記憶が……」

「それ、営業妨害で訴えられませんか?」

「俺らは店ン中でたらふく食うてるだけやし、取ったもんは絶対に残したりせーへんからセーフやで。オバハンの中にはタッパに肉入れよる厚かましいのもいてるらしいけど、それは窃盗罪になるんやて、この間、おやっさんとこの顧問弁護士してはるセンセーに教えてもろてん。俺らのは法律ではセーフ。店の人は運が悪かった、野良犬に噛まれた思て諦めるしかないねんて」

「俺らの心配までしてくれはるやて、山瀬センセーてやさしーんですねぇ。せや、これ、してみはりません?」

 河合がテーブルの隅のスタンドに立ててあるブックレットを差し出す。表紙には“ラブラブ心理テスト”という可愛らしい文字が、ハートマークと一緒に踊っている。何が悲しくてラブラブ心理テストをしなくてはならないんだろうと山瀬が考えていると、

「あ、こんなんて、あんまりアテにならへんと思うで」

と、山田が言った。

「大学で教職も勉強し始めた時、心理学もちょこっとかじったんやけど、そん時に似たようなバイトしたで。ちょうどこんな感じの、イエス・ノーで答えていくフローチャート作んねんけど、答えははなから決まってんねん。どっかの会社が、この商品はこの性格タイプにピッタリとかって感じでアピールするとかいう感じの、化粧品とかヘアケアグッズとかのん、何回かやってん」

「山田先生に女性向け商品ですか?」

驚きのあまり、山瀬は己の失言を後悔しかけたが、山田は全く気にもせず、

「そうですねん。俺も言うたんですよ、話持ってきてくれた先輩に。大学院生がそれらしいこと書いたら、それだけで箔がつくから、かまへんねんて」

と、半ば強引に押し切られて引き受けたのだと笑う。

「答は決まってるから、適当に誘導してくれたええて言わはるんですよ。まぁ、それらしいもんは作ったんですけど、最初のんが評判良かったらしいて、しばらくやってましてん。何やかんや言うても割、良かったんですよ。コツ覚えたら時間もかからへんし」

「へぇ、そしたら、こんなんて、全部でたらめやったりするん?」

興味津々といった風で川辺が問うと、

「教習所とかでやる運転適性検査なんかは専門家が作った、ちゃんとしたのんやて聞いたことあるけどな。けどこういう、宣伝とか絡んでるのは割かしエエ加減なんとちゃうかな。なんせ、俺がやってたくらいやし」

山田の、妙に説得力があるのかないのかわからない言葉に、山瀬を除く一同は妙に納得したような顔で頷いた。

 

◇◇◇

 

 山田と過ごす学校生活は言うまでもないが、川辺や川辺興業の面々との交流もまた刺激的だというか、まったくもって肝試しのようだと山瀬は思った。そしてこれまでには縁などなかったこんな経験を手放すつもりなど毛頭持ち合わせていないことに山瀬は気づき、こちらに来てからの自身の著しい変化に改めて感じ入るのであった。


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