熱帯夜


 アパートの鉄製の階段の途中で、飛葉の鼻孔を煙草の臭いが刺激する。今ではもう慣れてしまった臭いに世界の来訪を知った飛葉の鼓動が早くなった。それを押し隠すように殊更ゆっくりと階段を昇りきった飛葉は、ドアに背中を預けている男に声をかける。

「待たせちまったか?」

「いや……そうでもない」

「来るとは思わなかった。あんたも、野暮用に駆り出されてたクチだろ?」

「悪党共も草波も、人使いが荒すぎる」

「まったくだ。奴らは夏バテなんかしねぇんだ。美味い飯食って、涼しいとこで遊んでりゃぁバテるもなにもねぇってよ」

「誰が言ったんだ? そんなことをよ」

「オヤブンと八百だ」

部屋のドアを開けた飛葉が世界を中へ誘い、世界は三和土(たたき)で靴を脱ぎながら

「奴らがボンで待ってたぞ」

と、言った。

「約束したんだけどな。ちょっと昼寝のつもりが、目が覚めたら夜になってて、慌てて風呂屋に行ったんだ」

決まり悪そうに答えた飛葉に、世界は黙って小さな箱を渡す。

「イコからだ。それからこっちの袋は志乃ベェ」

腰を下ろした飛葉が小箱を開けると、中にはケーキが一切れ入っている。チョコレートのプレートに書かれた“Happy Birthday”の文字に、小さなリボンのついた紙袋の中の御守りに、飛葉の頬が綻ぶ。

「なんだ……覚えてたのか……」

「お前だけが顔を出さなかった」

「え……」

 飛葉の誕生日を覚えていたのはイコと志乃ベェだけだった。他のメンバーはここ数日、複数の事件をそれぞれに追いかけていたこともあり、日付の感覚さえ失っていて、飛葉の誕生日を忘れてはいなくても、それが今日だとは思いもしなかったのだ。それを薄情者と志乃ベェになじられた6人は手ぶらながらも、イコと志乃ベェが用意したささやかな祝宴の主役を待っていたのだという。

「悪りぃこと、したな」

「俺達はいいが、イコと志乃ベェには礼をしてやれ」

わかったと飛葉は答えてから世界を見た。

「なんだ?」

「何か、くれ」

「何だと?」

「何か、くれ。誕生日なんだからよ。いいだろ、それっくらい」

「図々しいヤツだ」

「銭湯で、たまに顔を合わせるだけのジジィだって、コーヒー牛乳を奢ってくれたんだぜ? 番台のオヤジはフルーツ牛乳」

「明日、飯を奢ってやる」

「ラーメンはやだぜ」

「贅沢なヤツだ」

「いいじゃねぇか、年に一度の誕生日なんだからよ」

世界は苦笑しながら飛葉を引き寄せ、口づける。

「お前は年がら年中よく食うだろ」

「育ち盛りなんだよ」

自ら世界の首に腕を絡めて、飛葉が喉の奥で笑う。

「その割に、背が伸びない」

「ウドの大木は黙ってな」

 憎まれ口ばかり叩く唇をキスで塞ぎ、世界は飛葉の口腔をゆっくりと蹂躙する。深く進入してすぐに引けば、焦れたような所作で飛葉が追いかけてきた。シャツの上からも熱を帯び始めたのがわかる若い身体を組み敷くと、飛葉が掠れた甘い息を吐く。

「ウナギ」

「ウナギ?」

「食わせてくれ……明日」

艶めき汗ばむ肌には不似合いな言葉に世界は呆れた。

「飛葉……」

世界が名を囁くと、溜め息を零す飛葉が潤んだ瞳を向ける。

「もう少し……色気のあることを言ってくれ」

頼むから……と、世界が赤みを帯びた耳に息を絡めた途端、飛葉の肌が余すところなく朱に染まっていく。

 熱帯の国を思わせる熱い夜気のため、そして互いの欲望のために汗ばむ肌を合わせる。本能に従順な飛葉の若い肌は僅かな刺激にさえ鮮やかに反応し、熱い息で世界に応えた。

 快楽に貪欲な飛葉に誘われるままに、世界はその身体の奥を探る。

 幾度も幾度も繰り返し、執拗なほどに飛葉の肌を辿り、身中深くに潜む熱の源に触れる度に見せつけられる青い媚態に、世界は何度も息を呑む。鮮やかに艶めく肌に唇を落とすと、かわいげのない台詞しか出てこない唇からあえかな溜息が零れる。その甘さに心地よく酔っていた世界の背中に飛葉の腕が絡み付き、世界は飛葉が間もなく限界を迎えようとしていることを知る。

 焦れるように身体をすり寄せながら、飛葉は何度も年嵩の男の名を呼んだ。世界は飛葉の身体に負担をかけぬよう、ゆっくりと鍛え上げられた鋼の身体を開いた。

◇◇◇

 快楽の余韻に弛緩した手足を投げ出したまま、微睡みの中に漂う飛葉を視界の端に留めながら、世界はゆったりと紫煙を燻らせている。

 誰かの誕生日を忘れずにいる自分が照れくさい。そしてそれを心地よく感じるのも居心地が悪く、とうの昔に諦めた人生を取り戻してしまった幸運を認めるには、酒か煙草の力が必要だった。

「飛葉」

世界の声に、飛葉の意識が覚醒する気配を感じる。

「少しは大人になってくれ」

ストレートな言葉ではまともな反応が返ってこないことを、習慣として知っている世界は敢えて憎まれ口で、飛葉がこの世に生まれ出たことを祝福する言葉を贈った。

「うるせぇよ」

と、照れくさそうな声で、かわいげのない言葉が返される。

 そして穏やかな幸福になれていない二人は少しばかり手持ち無沙汰な気分で、一年に一度しかない特別な日を、それぞれの胸の中で想った。


食欲と性欲との間でヘロヘロになった飛葉。
翌日、彼らはまずボンに出かけて、
それから二人でウナギを食べに行くのでしょう。
色気はないけど、それなりに幸せです。


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