饅頭とうどん


飛葉の上機嫌の理由は、その手に提げた水無月堂の饅頭だった。それは飛葉が黴びさせた饅頭の代わりに世界が買い与えたもので、飛葉は包みを受け取ると子どものような笑みを刹那浮かべ、それから飛葉にしては珍しく素直に礼を言った。それからしばらく、彼らは連れ立って歩いていたが、不意に飛葉が急用を思い出したと言い出し、すぐに済むからと世界に自分の部屋の鍵を押しつけるようにして、飛葉の部屋とは反対の方向へと向かう。強引な飛葉の態度に鍵を返すことができなかった世界は、仕方のない奴だと独りごちながら飛葉の部屋へ急いだ。

何本目かの煙草を燻らしていると、饅頭の他にいくつかの紙袋を抱えた飛葉が戻ってきた。世界が荷物の中身を問うと、例によってうどんの材料だという答が返る。世界が呆れたように苦笑すると、飛葉はインスタントラーメンより上等だと憎まれ口を叩き、水無月堂の饅頭の包みを大事そうに水屋にしまい込む。そして飛葉は趣味の一つでもあるうどん作りを始めた。

◇◇◇

部屋の中に鰹節の芳香が漂い始めた。雑誌から目を離した世界が流しに目を遣ると、飛葉は鼻歌など歌いながら大鍋をのぞき込んでいる。その表情が随分と楽しげに見えたので、世界は飛葉の方へとゆっくりと向かい、右手に菜箸を持っている飛葉の身体を背中から抱きしめた。

「何のマネだ」

思いがけずに返された飛葉の険しい声に、世界は不覚にも僅かにたじろいだ。しかし、そんな動揺の素振りも見せず、世界は飛葉に上機嫌の理由を問う。

「俺の機嫌を悪くしたくねぇんなら、さっさとあっち行きな」

世界は飛葉の言葉などどこ吹く風といった具合に飛葉を抱いた腕に力を入れると、飛葉は菜箸の先を世界の喉笛に当てて

「突くぞ」

と、低い声で言う。

「うどんを作るのをジャマするな。腹が減ってるんなら、水屋の一番下にラーメンが入ってっから、それに湯でもかけて食ってろよ」

いかにも迷惑そうな飛葉の口調が勘に障った世界は、

「随分と薄情じゃないか」

と、恨み言めいた言葉を口にする。飛葉は世界の心中など一向に察する気配もなく、ギロリと背中に張り付いている男を一瞥してから、面倒そうに胸に回された手をほどく。飛葉はそれきり鍋に集中してしまい、世界は嘆息して奥の和室に戻った。

饅頭で簡単に懐柔されるような食い意地の張った飛葉が相手では……と、世界は苦笑する。生存本能に長けている分、飛葉はどんな状況でも本能に忠実に行動するのだから、仕方がないと言えるのだが、これほどわかりやすいというのがどうにも飛葉らしい。世界はそんなことを思いながら、くわえ煙草でモーゼルの手入れを始めた。

◇◇◇

銃をすっかり分解し終わった頃にできたうどんを平らげた世界は銃の手入れを再会し、飛葉は茶を啜りながら饅頭を食べている。時折交わす会話は、多少殺伐としている点を除いては、世界と飛葉にとって日常的な、取り立てて言うほどのものでもない。

午後の時間がゆっくりと流れる中、二人は思い思いのひとときを過ごし、一番風呂を目当てに風呂屋に向かう。平日の、開いたばかりの銭湯は人気も少なく、存分に手足を伸ばして湯船に浸かり、激務の疲れを癒す。気が向けば飛葉は流行歌をがなり、世界はそれを笑いながら眺めている。時には同じように一番風呂に訪れた客と取り留めのない世間話に興じたりもする。風呂から上がれば冷えた牛乳が待っている――というよりも、飛葉にとっては銭湯と風呂上がりの牛乳はセットになっているようで、世界が知る限りでは欠かしたことがない。世界も飛葉と銭湯を訪れた時には冷えた牛乳を飲むのだが、彼にとってはビールの方が有り難いものだと言えた。

風呂の道具一式を部屋に置いてから、世界と飛葉は夕食をとるために商店街へ行く。選ぶ店は世界の晩酌と飛葉の空腹を満たせる献立のある店ばかりで、この日は和服姿の女将のいる小料理屋にした。気の利いた酒の肴だけでなく腹持ちの良い一品や、客によっては丼ものを出しもするその店は、世界の気に入りの一つでもある。人当たりの良い女将は飛葉も気に入っているようで、飛葉もまたまんざらではないよう思われた。それ故、彼らは比較的頻繁にその店に顔を出すことになる。

◇◇◇

再び飛葉の部屋に戻ってからは特に何ということもなく、世界は冷えたビールを飲み、飛葉は麦茶で涼を取っている。

眠ってしまうには少し早い。夏を目前にした季節特有の重い空気に肌が汗ばむ。世界も飛葉も薄い肌着一枚だけの姿で扇風機の風を受けていたが、それでも滲むような汗はどうにもできない。

「蒸し暑い……」

飛葉がうんざりしたようにいうと、

「何度も言うな。ぼやいたところで状況は変わらんぞ」

と、世界が答える。それは承知していると言った飛葉が、もっと暑くしてやると言って世界の背中に負ぶさった。

世界は笑いながら飛葉を窘めてはいるものの、子どものようにふざけている少年を背中から引き剥がすつもりもなく、適当に相手を務めてやる。まるで思い出したように時折、自分の前でだけ、がんぜない子どものように振る舞うことが世界の独占欲を満たす。肩の辺りで聞こえる笑い声は嬉しそうで、無邪気な手足が触れる感触が心地よい。しかし、世界とて健康な成人男子であり、飛葉に長く密着されては身の置き所に困ってしまう。

世界が飛葉の名を呼ぶと、飛葉は何かを問いたげな目で背中から世界をのぞき込む。

「そろそろ、色気のある誘い方を覚えてくれ」

世界が笑いながら言うと、飛葉は気色ばんで反論する。

「誰が……!! 誰が、いつ、誘ったってんだよ!!」

つい先刻までのあどけない表情に代わり飛葉の頬には朱の色が浮かぶ。瞳には戸惑いが揺れている。世界は飛葉の身体を横倒しに抱え込み、唇を重ねた。飛葉はほんの少しだけ抵抗したが、やがてゆっくりと世界に応えるようになった。

◇◇◇

夏の温度と湿度のために帯びた汗は既になく、世界と飛葉の肌を覆っているのは互いの熱情と煽り合うばかりの身体から出る汗ばかりで、それが不可思議な感触を生み出す。汗のせいで滑る腕を世界に絡めながら、飛葉は熱に浮かされたようにアツイと繰り返し、世界に何度も口づけをねだる。

求め合い、奪い合い、与え合いながら共に高みを目指す瞬間、飛葉が熱い吐息と共に何か言った。言葉は聞き取れなかったが、世界は敢えて問いただそうとはしなかった。安心しきったように腕の中で瞼を閉じている飛葉を見ていると、それだけでいいと考えてしまう。もうしばらくしたら暑いだの何だのと文句を言い出すくせに、けれど離れようとはしないであろう素直でない飛葉はどう問うても、決して答えはしないだろうし、言葉そのものは問題ではなかったのだ。

互いの体温に安心できる平和なひととき。それだけが確かでさえあれば、とりあえず今は全ての不安から解き放たれて眠れるのだから――。


暑苦しい時でもベタベタと暑苦しい二人ではなく、
うどんを作るとなると人が変わる飛葉を書きたかったのでした(笑)。
つーか、飛葉は食べ物が絡むと人格変わると思う。
あとバイクとかもねぇ……。


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