甘い傷跡


 世界の唇が飛葉の肌のそここに残る傷跡に触れ、その指先は飛葉の鍛え抜かれた、けれど少年のしなやかさの名残をとどめた身体の線を辿る。その動きに応えるかのように飛葉の身体は緊張と弛緩を繰り返す。情事の時、飛葉が快楽の声を上げることはない。乱れる呼吸を悟られまいとするように眉根を寄せ、瞼と唇の両方を固く閉じて、彼を翻弄してやまない嵐が過ぎ去るまでの時をやり過ごそうとしているかのように見える。時折、本当にごく稀にこの上なく甘い、そして限りなく溜息に近い吐息をもらすことがある。だがそれが室内の空気を震わせた瞬間、飛葉は熱い吐息の余韻がまだ残っている唇を更にきつく噛み、ほんの微かな声さえもこぼさないよう、何かに耐えるように身体を固くしてしまう。

 初めて飛葉が、彼の全てを世界に委ねた夜から、二人は幾度も夜を共に過ごしてきた。しかし飛葉は最初の夜から何一つ変わらない。全身で世界を感じながらも、戸惑いや微かな羞恥に彩られた世慣れぬ姿が、世界には何よりも愛しく感じられる。そして世界はあらん限りの愛情をもって飛葉の全てを包み、慈しみ、共に高みへと昇り詰めるため、飛葉の身体の奥深くで目覚めつつある快楽の火種に、情熱という名の炎を注ぎ込むのだった。

◇◇◇

 額を世界の肩先に預け、乱れた息が静かになるまでの間、快楽の甘い余韻に身を委ねている飛葉は、あどけなさと色香が混在した、言葉では表せないような表情をする。自分以外の者には決して見せることのないその表情や、彼の愛撫に応え、耐える時の飛葉の仕草は世界に至福の念を与え、その幸福を独占している事実に、ささやかな優越感を感じてさえいる。

 世界は愛しくてたまらないといった様子で飛葉の頬に手を沿え、無意識に噛みしめられたために赤く染まった飛葉の唇に己の唇を寄せた。飛葉は瞼を閉じて、たどたどしいながらも懸命に世界の口づけに応えようとする。世界はより深く口づけるために舌先で飛葉の唇を辿る。

 その時、飛葉の唇に微かな血の味を感じた世界は、そっと飛葉から身体を離した。

「飛葉……お前、口にケガでもしてるのか? 血の味が……」

世界はそう言いながら、慎重に飛葉の唇に触れ、飛葉はわけががわからぬといった表情で、世界の目を見つめる。ゆっくりと動いていた指先がある一点で止まり、世界は

「切れてるな……」

世界の指が示す位置を認識し、彼の言葉を耳にした途端、飛葉は耳まで真っ赤に染め、力一杯に世界へ枕を投げつけ、

「うるせー!!誰のせいだと思ってんだよ!!」

と怒鳴り、素早く身支度を整えて世界にくるりと背中を向け、頭から布団を被って寝てしまった。

 飛葉に怒鳴られる理由に、最初は見当がつかなかった世界だったが、しばらくすると急変した飛葉の態度に合点がいった。

 世界はそっと布団をずらし、背中を向けている飛葉の肩に手を置いて、飛葉の耳元で

「悪かった」

と、囁いた。飛葉は世界の手を殊更邪険に振り払うと、

「寒いんだよ。さっさと寝ろよ」

と、ふてくされたように言った。

 世界は自然に口元が弛んでしまう自分自身に呆れながら寝仕度を終えると夜具に滑り込み、その両腕で飛葉の背中を包み込むように身を寄せた。全身に広がる心地よい倦怠感と共に、自分よりもほんの少し高い飛葉の体温を感じながら、世界は幸福な眠りに落ちていった。

◇◇◇

 「っつ」

一仕事を終えたワイルド7メンバーが、彼らの憩いの場となっているスナック『ボン』でコーヒーを飲んでいた時、飛葉が左手で口元を抑えながら、少々乱暴にカップをソーサーに戻した。その様子を見た両国が

「どうしたんだよ、飛葉ちゃん」

と、声をかけた。すると両国の隣にいたオヤブンが

「ありゃ、口んとこに傷があるぜ、飛葉。メシ食う時に慌てて口まで食べちまったのかよ」

と、笑いながら飛葉をからかい始める。飛葉は仲間の言葉を無視するように彼らから目を逸らし、窓の外をふてくされた様子で眺めている。

「そんなに急いで食べなくちゃならないくらい、夕べは豪勢なご馳走を食ったのか、飛葉」

そう言いながら、強引に飛葉の顔をのぞき込んだヘボピーが素っ頓狂な声を出した。

「おい、飛葉ぁ。お前、何赤くなってんだぁ? まるで茹でダコじゃねーか」

ヘボピーの言葉を合図に、全員が飛葉を取り囲むようにして集まってきた。彼らは口々に飛葉へからかいや冷やかしの言葉を投げかける。飛葉の堪忍袋の尾が切れてしまうよりもほんの少し早く、それまで表情一つ変えずに沈黙を守っていた世界が

「いい加減にしてやれ」

と言った。それを合図に彼らは冷めてしまったコーヒーを飲み干し、ある者は夜の街へ出るために、またある者は帰途につくために店を後にした。

 拗ねた様子を隠そうともしない飛葉が、足早に彼の下宿の方へと向かっている。世界は一定の距離を保ちながら、その後に続く。何の前触れもなく飛葉が立ち止まり、ようやく世界は飛葉に追いつくことができた。

「なんで、ついてくんだよ」

振り向くことなく放たれた飛葉の声は、明らかに剣を含んでいる。飛葉の唇の傷は飛葉自身がつけたものではあったが、その原因が自分にあることを充分に承知している世界は、飛葉がからかわれたことに相当な責任を感じていた。

「一人だけ、涼しい顔しやがって……」

飛葉はいかにも面白くなさそうにブツブツと文句を呟いている。罪悪感に苛まれている世界は周囲に二人の他に誰もいないことを確かめると、飛葉を背後から抱きすくめた。その瞬間、飛葉は身を固くしたが、次第に全身の緊張を解いて重心を後ろに移し、心持ち世界にもたれ掛かるような姿勢を取る。世界は飛葉の心が少しずつほぐれていくのを感じながら、慎重に言葉を選んで飛葉の耳元で言った。

「……その……口を切るくらい我慢しなくてもいいんだぞ」

その言葉を聞いた飛葉は渾身の力を込めて世界の鳩尾に肘鉄をお見舞いすると同時に、大仰な仕草で世界の腕を振り払い、駆け足でその場を立ち去った。世界は鳩尾に手を当て、苦しげにその場に立ち尽くしている。そして

「……ったく、どいつもこいつも……」

と、忌々しそうに言い捨てると、ほんの少し早い歩調で飛葉の下宿への道を急いだ。


なんのかのと言っても、デレデレのおやじ(笑)。
勝手にしてくだだい。


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