春 眠


 部屋に差し込む陽射しの明るさが、世界を眠りから呼び起こした。薄く瞼を開けば、越してから数える程しか拭いていない窓ガラスを隔てた空の青さに、久方ぶりに戻った世間は平和この上ないことを知る。

 胸元の温もりと左腕の軽い痺れもまた、およそ数ヵ月ぶりに得た貴重な休息の時を、そして惰眠で費やしてしまえるほどの平穏を示しているようだと、世界は思う。

 深呼吸を一つしてから、世界は傍らで眠り込んでいる少年を起こさぬよう、布団から抜け出す。窓を開けてから煙草に火を点けた世界は、紫煙を燻らせながら思案に暮れる。

 いつ何時、任務が舞い込むのか予想もつかない生活を送っているため、食料を買い置きする習慣など失って久しい。今すぐ口にできるものと言えばバーボンと、冷蔵庫の中に放り込んだままのウォッカ。カートンで買ったセブンスターの残りが少々。インスタントコーヒーと砂糖。酒の肴にと買っておいた缶詰が、確かいくつか残っていた筈ではなかったかと、世界はくわえ煙草のままで炊事場を漁る。

 流しの下には世界の予想通り、数個の缶詰が転がっていた。缶底を見れば賞味期限はとうの昔に過ぎ去っている。世界は慎重に缶側面や底の金属の継ぎ目に異常がないか、そして缶そのものの形状に異変がないかを確かめたが、特に目につくものもないことに安堵した。

 とりあえず、未だ夢の中にいる少年が目を覚ましたとしても、急場を凌ぐだけの食料を見出した世界は自分のためにコーヒーを入れようと、薬缶を火にかけた。

「おい、腹減った」

眠気が完全に抜けきっていない声に世界が振り向くと、寝癖で盛大に乱れた髪に手を突っ込んだ少年が立っていた。

「飛葉、起きたのか」

「ああ。何か食うもの。贅沢は言わねーから、何か食わせてくれ」

世界は苦笑いを浮かべ、先刻見つけだしたばかりの缶詰を投げる。

「缶切りは自分で探せ」

飛葉は短い言葉で礼を言い、小さな水屋の引き出しから缶切りと箸を取り出す。

「何だよ、コレ、食えんのかよ」

賞味期限を見咎めたらしい飛葉が言った。

「錆も出てなけりゃぁ、膨らんでも凹んでもない。充分に食える」

「俺は誰かと違ってデリケートなんだよ」

 ぶつぶつと何か呟いてはいるが、それでも飛葉は缶詰を離そうとはしない。畳の上に古新聞を敷き、缶切りを使っている飛葉の背中からは、昨夜ようやく終焉を迎えた死闘の陰はなく、その現実に世界はようやく死線を生き延びた手応えを得た。

 二人分のコーヒーを手に奥の部屋に行くと、飛葉は既に缶詰を頬張っている。

「鯖も鯨も鰯も、あんま、変わんねぇな」

「多少、歯応えは違うだろう」

「鯖と鰯は似たようなもんだぜ」

「贅沢を言うな」

世界が律儀に半分だけ残された鯨の大和煮を口に放り込み、飛葉は湯気が立ち上るインスタントコーヒーに角砂糖を二つ、三つと落とす。

「食い終わったらボンに行こうぜ。久しぶりにまともなものが食いたい」

飛葉の言葉に薄い微笑で応えてから、世界は飛葉を引き寄せる。

「おい……朝っぱらから……」

言いながら飛葉は形だけ世界を拒んでみせて、深い口づけにはすぐに夢中になった。

 苦しくなった呼吸を整えるためだけに、つかの間唇が離れることはあったが、二人は僅かな距離さえ惜しむかのように何度も口づけ合う。

 紅潮した頬の飛葉の目が潤んでいる。朱が射す瞼に世界が唇で触れると、飛葉は艶を含んだ声で

「もう終いにしてくれ。腹が減って、それどころじゃぁ、ねぇよ」

と言った。

 艶めかしい姿の飛葉の、僅かに掠れた声で放たれた、色事からほど遠い言葉に世界は脱力し、朝と夜とではまるで別人のような幼い情人の残酷なほどのあどけなさに溜息をついた。


春眠暁を覚えずって感じですかね(笑)。
缶詰は容器の金属成分が溶出したり、
空気が入って酸化したりして、
中身が変質しない限りは食べても問題ないそうです。


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