初  陣 2


 公園の中を自転車で5分ほど走らせた頃、アルフォンシアとルーティスの様子が変わった。怯えるように、そして何かを威嚇するかのような低いうなり声を上げている。ティムカはハッとして周囲の気配をうかがったが、特に変わった様子は感じられず自転車を走らせ続けた。しかし2匹の聖獣が突然進むのを止めたため、ティムカも自転車を止めた。

「どうしたんですか? アルフォンシア、ルーティス。別に何もいません……」

ティムカは最後まで言葉を続けることができなかった。何故なら彼が気づかない間に、白い毛皮をまとった草食動物が、一部の隙もなく彼らを包囲していたのだ。四角い瞳孔は自転車の前カゴと荷台に積まれた新聞を見つめている。最初に気づいた時にはゆうに10メートルはあった二者の距離はじわりじわりと縮められ、今では5メートルほどしかない。ティムカは生まれて初めて、命の危険を感じるほどの恐怖を覚えた。ヤギはゆっくっりと、しかし確実に前進している。背中を流れる冷や汗を感じたティムカは、彼を取り巻く包囲網の最も突破しやすそうな場所を探したが、何世代にもわたって毎朝新聞配達員を襲撃しているヤギの陣形は、ほぼ完璧な形を保っていた。

 ティムカの一瞬の隙を突いて1匹のヤギがティムカの左後方から自転車に飛びかかった。しかしティムカはすんでのところでその攻撃を避け、臨戦態勢をとった。ヤギとティムカ、そしてアルフォンシアとルーティスの緊張が高まり、たった1度の攻撃と防御により一触即発の状況となっている。右前方から繰り出された次の攻撃は、ティムカとヤギの間にあった自転車に的中したが、彼は必死に両足に力を入れて自転車の横転を防いだ。これまでの新聞配達員の殆どが、2度の攻撃で逃げ出していたが、未だ気丈に新聞を守っているティムカに、ヤギたちは警戒の念を強めると共に、更に強力な攻撃準備に入ったようだ。

 神秘の力を持つ聖獣を2匹連れているとはいえ、物理的戦闘能力の上ではヤギが優っている以上、正面から戦っていたのでは勝ち目はない。何とかヤギ軍団の間隙を突く策はないものかと、ティムカはこれまで学んだ知識と経験を総動員して、包囲網を突破する方法を考えた。その時ふと、出発前に新聞販売店の店主の妻の言葉を思い出した。

「いいかい、ティムカ。ヤギに周りを取り囲まれた時は、前カゴに積んだ新聞を半分、群に向かって投げるんだよ。ヤギが新聞に気を取られている隙に出口に向かって自転車を漕ぐの。そうしたら食いはぐれたヤギが猛スピードで追いかけてくるから、追いつかれそうになったら残りの新聞をできるだけ後ろに投げなさい。そうすればきっと、逃げ切れるから。新聞のことは気にしなくてもいいの。あんたが無事にお客さんのお宅に新聞を配達して、無事に戻ってきてくれれば、私たちはそれでいいんだからね。くれぐれも無茶をしちゃいけないよ」

彼女は自分の子どもを諭すように、ティムカに話した。彼女の手は、その震えを隠すかのように、力強くティムカの肩にかけられている。彼は自分を心から心配してくれている彼女を安心させるために、明るい笑顔で答えた。

「大丈夫です、奥さん。新聞は1枚だってヤギには渡しません」

◇◇◇

 十数分前に交わした会話は、既に遠い過去のように感じられる。ティムカはこんな理不尽なやり方で、大事な売り物である新聞を奪われたくはなかった。しかし彼に残された唯一の手は店主の妻が万が一の時のためにと持たせてくれた新聞を投げることだけだった。

「奥さん、ごめんなさい。僕……頑張ろうと思ったんですけど、ここで全ての新聞を奪われて、お客様に迷惑をかけたりしたら、お店の信用をなくしてしまうことになります。だから……だから……ごめんなさい!!」

ティムカは意を決したかのように顔を上げ、進行方向にいる、群のリーダーと思われるヤギの目を見つめた。闘志をたたえた四角い瞳孔も、ティムカの黒い瞳を見つめている。ティムカはそっと2匹の聖獣をつないでいる綱を滑り落とした。アルフォンシアとルーティスは神秘の力でティムカの意志を読み、すぐに走り出す態勢を整える。それを確認したティムカは前カゴに入れてあった新聞をいくらか掴み、正面にいるヤギに向かって投げつけた。地面に散乱した新聞にヤギが群がるのを見るやいなや、ティムカは自転車を力の限り漕いだ。後ろからアルフォンシアとルーティスの足音が聞こえたが、その足音に混ざって二つに分かれた蹄が地面を蹴る音が聞こえる。公園の出口は目前に迫っているが、ヤギを振り切って通過するには、遠すぎる。ティムカは叫んだ。

「アルフォンシア、ルーティス!!最後の新聞を投げますから、早く。早く出口に向かって走ってください」

2匹の聖獣はティムカの声に答えるかのように、出口に向かって全速力で疾走する。それを見届けたティムカは前カゴの新聞を力の限り、彼の後方に向かって投げ、一目散に出口へと自転車を走らせた。

  

 自転車の前カゴには十数部だけ、新聞が残されていた。たとえ一部でもいい、店に与える被害を少なくしたいと考えたティムカの機転により、僅かではあるが全ての新聞を奪われる事態だけは免れたのだ。通る自動車のない早朝の幹線道路の向こうに、アルフォンシアとルーティスがティムカを待っていた。聖獣のいる地点まで来るとようやくティムカは自転車を止め、呼吸を整えた。公園の出口付近には、彼らにとってご馳走である新聞にありつけなかったヤギたちが、恨めしそうな目をして佇んでいる。野生化したヤギたちも、さすがに車道にまでは出てこれないようだった。

 「アルフォンシア、ルーティス。今日、守ることができた新聞は16部だけでしたが、これから少しずつ、その数を増やせるように、僕は勇気を出してヤギたちと戦います。そしていつかきっと、ヤギたちに新聞を1部も渡さなくてすむようになります。獰猛なヤギたちから新聞を守ることはきっと、故郷の民を守れる人間になるために、僕が乗り越えなくてはならない試練なんです。長い時間がかかるかもしれないけど、きっと全ての新聞を守り抜いて見せます」

白んでいた空に登るまぶしい朝日に、未来の王位継承者である少年ティムカは強く誓うのだった。その勇気に心動かされたアルフォンシアとルーティスも力強い鬨の声を上げた。

「さあ、行きましょう。皆さんが僕たちの新聞を待っています」

ティムカは聖獣を伴い、新町の購読者に新聞を届けるために、力強くペダルを蹴った。


ヤギ……まさか公園のヤギを扱うことになるとは、
ももきっつぁんも司書も予想もしていませんでした(笑)。
ヤギの四角い瞳孔は、なんか妙にコワイよね。


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