銀座4丁目交差点の一角に、時計塔を配した瀟洒なビルが建設されたのは1932(昭和7)年のことであった。それから70年余り、戦災と高度成長期の激しい変化を乗り越え、この服部時計店※1(現・和光)のビルは現在も銀座のシンボルとなっている。
服部時計店が、京橋采女町から木挽町を経て銀座4丁目に本社を移し、初代時計塔※2を建設したのは1895(明治28)年のことである。1921(大正10)年に、初代店舗を解体、新築計画中の1923(大正12)年に発生した関東大震災とその後の復興計画の影響で工事が大幅に遅れてしまう。それに伴い、構造は耐震性を強めた鉄骨鉄筋コンクリート造に、当初、テラコッタの予定だった外壁は、強靱な天然御影石へと変更された。
設計を担当した渡辺仁は、東京国立博物館本館や第一生命ビルや旧日本劇場(現存せず)などを手掛け、依頼主の要求に応じて、あらゆるスタイルをこなす建築家であった。この服部時計店ビルのデザインは、店主の服部金太郎の意向を汲み、洒落たネオ・ルネサンス様式が採用された。
特徴的な塔屋の大時計は、明治以来の時計店の伝統的な建築スタイルで4面ある文字盤は正しく東西南北を向き、当時は銀座のどの場所からでも時間の確認をすることが出来た。塔時計は、文字盤のデザイン※3に、殆ど変化は見られないが、初期の頃のドイツ製の振り子時計から、国産のクォーツに変更されている。
竣工当時の服部時計店ビルは、卸、小売、管理機構のすべてを備え、地下1階から地上2階の店鋪の他に、4階にショールーム、5階に社長室、6階に社員食堂などがあった。店鋪は地下1階に紳士雑貨の喫煙具売場、1階に時計店、2階に室内装飾品等の売り場となり、東京の一等地に相応しい一流で時代を先取りした高級品が並べられていた。
東京大空襲では、時計塔の文字盤3面が壊れたが、建物は無事に残る。戦後の進駐軍の接収を経て、1947(昭和22)年、服部時計店小売部が独立し「和光」を設立。その
店鋪・社屋として、再スタートを切り現在に至るが、昭和7年竣工当時の姿を内外装とも比較的よく留めている点で貴重な存在である。
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