<<Back

羽鳥 & 功刀 (2) 

 台湾での仕事が決まったとき、功刀章は少しだけいやな予感がした。特にこれといった具体的な理由があったわけではない。経験からくるカンみたいなものだ。
 これまでに、仕事で一度、遊びで台湾には一度訪れている。時差は一時間しかないし、フライト時間も短い。ヨーロッパやアメリカに行くよりは体は楽なのだが。

「章、どうした?」
 ベッドの中で寝返りを打ち続けていた恋人の様子に、羽鳥は目を覚ます。そして体を横に向けた。
「い、や…なんでもない…起こして済まない」
 その場に体を起き上がらせた功刀は、額に下りた前髪を指ですきながら軽い嘆息した。
「なんでもない、という顔ではないだろう? 嫌な夢でも見たのか?」
 同じように羽鳥は起き上がり、功刀の顔を覗き込んでくる。眉間に皺の寄った男を安心させるように、功刀は肩を竦める。
「本当に平気だ。ありがとう」
 なんとか笑って見せ、額の汗を拭う。パジャマの下もぐっしょり汗をかいているのがわかった。
 羽鳥は功刀の頬を軽く撫で、そこに軽くキスをすると、そのまま再びベッドの中に沈み込む。すぐに小さな寝息を立て始める彼は、昨夜も帰りが遅かった。
 担当俳優である上條千里は、選手から映画の撮影に入った。初主演であり、事前の準備がかなり押したため、過酷なスケジュールになっているようだ。
 マネージャーである羽鳥も当然忙しくなり、上條の仕事を終えたあとも、事務所に戻ってきて翌日のスケジュールを確認し、映画以外の仕事のオファーを処理している。
 日々疲れが濃くなっていくのがわかっているから、功刀も羽鳥に心配をかけたくはなかった。
 目元には、クマができていた。
 額を覆う前髪にそっと指を伸ばし、軽く撫でてみる。微かに瞼が揺れるのを目にして、慌てて手を退ける。
 大学時代からの友人である男と、恋人になったのはワタセエージェンシーに転職してからだ。さらに同居し始めたのは、今年になってからのことだ。
 外見からは情熱的で強引に見えながら、羽鳥という男は驚くほどに優しい。常に先回りをして、功刀を気遣ってくれる。それはセックスについても同じだ。
 それこそ、初めて抱き合ったときは、丸二日ほどベッドから出られないぐらい、何もかも搾り取られるぐらいに愛された。しかしその後は、枯れているのかと思うほどに求められていない。
 互いの仕事が忙しくなったということが一番の理由なのだが、同居し始めてもそれは変わらなかった。
 功刀は特に性欲が強い方ではなかったが、だからといって、恋人がすぐ横に寝ていながら、何ヶ月も抱き合っていないとさすがに不満を覚えても仕方ないだろう。
 五月のゴールデンウィークには、互いに少し時間ができるから、一緒に一泊旅行にでも出ようと話をしていた。けれど、結局功刀の担当しているカムイ・J・ハヤシの撮影が入ってしまい、約束は反故になった。
 急の仕事であること、またその時期伊関拓朗の撮影がやはり台湾であるために、スタッフも必要最低限でいかざるを得ない。
 ハイシーズンのため、ホテルの部屋もかなり制限され、功刀はカムイと同室を余儀なくされた。北欧の血が半分混ざった青年は特に気にした様子を見せていない。
 大人びて見えていても、十歳以上年下だ。仕事だからと割り切れば、なんら問題はないはずだ。そう思っていても、なんとなく功刀の心は晴れていかない。
 足掛け四日の仕事だ。気づけば日本に戻ってきている。とにかく
 自分のことを長い間ずっと愛しつづけてくれている男の優しさを胸に抱きながら、功刀もまた再び眠りにつく。

 
 台湾での滞在期間は、三泊四日。秋に発売を予定している写真集用のグラビアを数枚と、同じく秋を予定しているコマーシャルの撮影を兼ねている。日程的にはかなり短く、強行軍だ。
 おまけに当日の昼間まで仕事があり、成田を出るのは午後三時を過ぎてからだった。Tシャツにジーパン、さらにツバの長いキャップにサングラスというラフな格好でありながら、彼の姿は人目を惹いた。銀に近い髪のせいもあるが、それだけではない。
 囁き声で「カムイだ」と言う中を、平然と歩いてくる姿が、また格好いい。
 現代のカリスマと呼ばれる伊関とはまるでタイプは違うが、カムイもまた将来的になんらかの形でより多くの人間の目に触れることになるだろう。
「チェックインすんだし、適当に時間潰してきてもいいですか?」
 サングラスの下に見える眼は、蒼い。実際は若干色素が薄い茶色程度なのだが、カラーコンタクトを使っている。
 透き通るように白い肌、骨格のしっかりした八頭身の見事なまでにバランスの取れた体をしている。学生時代からその頭角を示していたが、ここのところの成長ぶりには眼を見張るものがある。
「そんなに見つめて、俺の顔に何かついてますか?」
 思わずカムイの姿に魅入っていた功刀を揶揄するように、彼は笑う。功刀は内心で激しく動揺しながらも表情を変えず、ふいと顔を逸らした。
「誰かが一緒に行ってくれるなら、適当に過ごしてくれて構わない」」
「功刀さんは駄目なんですか?」
「最後の詰め作業が残っている。彼なら大丈夫だろう」 
 やってきたスタッフに機嫌良く挨拶するカムイを横目に、功刀は携帯のフリップを開けて事務所に連絡を入れた。
 さらに家に連絡を入れるが、当然誰もいない。携帯も留守番モードになっていた。
「功刀です。あと一時間したら出発です」
 特に話したいことがあったわけでもない。ただなんとなく声を聞きたかったのだが、仕方ない。
 
 
 飛行機に乗り込んでからも、功刀はスタッフとの打ち合わせに忙しかった。ありがたいことに機内は比較的空いていて、日本人は乗客の半分もいなかった。
 カムイは食事もせずすぐにアイマスクを掛けて眠りに落ちていた。
「昨日、遅くまで遊んでいたらしいんだよね」
 隣に座っていたスタッフが、そっと耳打ちしてくる。
「仕事のあとでですか?」 
「そうそう。六本木のクラブでコージと一緒にいるのを見かけたって誰かが言ってましたよ。で、今日早朝から仕事でしょう。多分、一睡もしていないんじゃないかな」
「コージの奴…今日は学校があるだろうに」
 思わず功刀は額に手をやった。
 まだ高校生の森田コージは何かとカムイに対抗意識を燃やして食って掛かってくるが、実はカムイのことが大好きで、まるで犬のように懐いている。カムイもなんだかんだ言いながらコージを可愛がっているのは知っている。コージの邪気がなくて素直な様子を見ていれば、その気持ちもわからなくはないのだが…。
「市川さんに今度きっちり頼んでおかないと駄目だな」
「市川さんも手をやいてるみたいですよ。東堂くんに比べると、相当やんちゃだから」
 市川高雄は、昨年まで東堂潮のマネージメントをしていた朴訥とした男だ。派手なタイプではないが、着々と仕事をこなしていく。
 ワタセエージェンシーに移籍して来た直後、コージよりも問題児だった東堂を見事にコントロールできたことでも有名だ。
 その市川をもってしても、コージに手を焼いているとしたら、残すところはもう、所長の渡瀬以外に彼を扱えないのではないか。
「まあ、あと半年もすればさすがにコージも落ち着くんじゃないか。まだ遊びたい盛りで、近い年齢の奴がいないから、カムイに甘えているだけなんだよ」
 二人が一緒に行動することにはなんら問題はない。ただ、翌日の仕事を考えず、彼らのイメージを崩すようなことをしてほしくないだけだ。
 カムイはまだしも、未成年で高校生のコージの場合、突っ走ると何をしでかすか図れないところがある。
 熟睡していても、カムイの横顔はため息が出るほどに整っている。北欧と日本の血が混ざった微妙な甘さが、彼の魅力でもある。人を揶揄するような口調や、視線。
 彼のそばにいることで知る彼の本性。パリコレクションのランウェイを、超一流と呼ばれるモデルの中に紛れ込んでも、まるで見劣りしない。功刀はパリまでは行かなかったが、それをテレビで見たとき、背筋がぞっとするような感覚を得た。
 それから、気づけばカムイを見つめていることがある。
 恋愛感情のせいではなく、視線を捕らえられてしまっている。
 

 台湾は五月でありながら、すでに真夏のように暑かった。
 沖縄よりもさらに南に位置するのだから当たり前のことだが、アジア特有の湿気を含んだむっとするような、強い陽射しに眩暈がしそうだった。
「……あっつー」
 スタッフの誰もがぼやいている中、カムイだけは涼しい顔で空を見上げている。
「いい天気で良かったですね」
 サングラスを外して満面の笑みで笑われて、その場の空気が和む。
「だよな。今日から早速撮影に入れるし! カムイ、覚悟しろよ」
 カメラマンは思いきりカムイの背中を叩く。
「お手柔らかに」
 そして満面の笑みで笑う表情は、夏の暑さを忘れさせるぐらいに涼しげで爽やかだった。
 早速仕事に、と言いながら、まず最初の撮影は台湾市街で一番大きな夜市でを予定していた。とりあえず手配していた車に分乗し、一時間弱かけてホテルに入ることになる。
 当初、市街の中心に位置するフォルモサ・リージェントを予定していたが、如何せん急な仕事であったため予約が取れなかった。天下の電報堂が裏から回しても、駄目だったのだ。そして今日から三泊、スタッフ全員の宿泊先は、台北市のランドマークとも言える圓山大飯店である。
 朱塗りの巨大な柱が支える屋根。高い天井には隙間なく赤と金で荘厳な彫刻が施され、絢爛豪華な中国宮殿の華麗な世界がそこには存在している。
「すげえー」
 市内の道路からも、ライトアップされた姿は一望できる。実際エントランスの前に立つと、その巨大さに口を開けて見上げてしまう。学生時代に訪れたことのある功刀でもため息が出てしまうのだから、初めて見る人間は、相当な驚きを覚えるだろう。
「飛行機が飛んでる」
 悠然と腰に手をやって空を見上げていたカムイの声に、誰もが同じように空を見上げた。国内線の空港が、すぐそばにあるらしい。暗くなった空に、ライトを点滅させながら飛んで行く飛行機の姿はなんとも雄大だ。
「明日、うまくあの飛行機を使って写真が撮れるといいですね」
 同行カメラマンである砧の言葉に、功刀は頷く。
 青い空に赤いホテル。背景に飛行機。今回写真集のテーマは「ストイック」だ。カムイの雰囲気には、さぞかし似合うことだろう。
「晴れてくれるのを祈ろう」
「あの。功刀さん!」
 ロビーに入って荷物をベルキャプテンに預けたところで、先にチェックインのために入っていたスタッフの服部が走ってくる。
「どうした?」
「すみません。部屋の方の予約に手違いがありまして」
「手違い? どういうことだ」
 功刀はすぐにその男と一緒にフロントへ向かう。ホテルの人間と話しをすると、どうやらホテル側のミスで、すべての人間がツインルームに入るだけの部屋しか用意されていないという。それも、すべてスタンダードタイプの部屋のみらしい。
 予約の取れた部屋と当初予定していた部屋割りを突き合わせる。
 どう捻り出しても部屋はこれ以上増えないのだからしょうがない。ホテル側も恐縮していて、その他の部分でサービスしてくれるいことにはなっている。
「とりあえずカムイだけは一人部屋にしたいから、他でトリプルにしてもらって…」
「女性スタッフは無理だから……部屋の広さは十分あるみたいだし。交代で回して行ってもいいし……」
 ああだこうだと言っていると、不意に頭の上で声がする。
「俺、別に一人じゃなくてもいいですよ」
「カムイ!」
 ソファの空いているところに腰を下ろし、部屋割り表を手に取る。
「俺がツインになれば、問題ないんでしょう? だったら気を遣ってもらっても仕方ないし、一人だからって誰か女の子と遊ぶわけにもいかないし」
「カムイ」
 あまり冗談では済まない話に、功刀は低い声で戒める。
「どうせ三日のことだし。部屋には寝るために戻るだけなんだから。誰と一緒になるかはお任せします。俺、外で煙草を吸ってるんで、決まったら教えてください」
 言いたいことだけ勝手に言い捨てると、カムイは表をテーブルに置いて立ち上がった。そして胸ポケットに入れている煙草を取り出しながら、エントランスの方に向かって行く。
「………どうしましょうかっ」
 カムイが完全に外に出るのを確認してから、全員テーブルに頭を突き合わせた。
「どうしたらいいですか。功刀さん」
「どうして私に聞くんですか」
 困惑しているのは、功刀も同じだった。
 カムイが誰かと同室でも構わないと言ってくれたのは、とてもありがたいことだ。彼の気さくであり、あまり細かいことを気にしない性格は、まさに海外で育ったゆえなのだろう。
 だが。
 それで誰が彼と一緒の部屋になるかが、とてもとてもとても、大きな問題なのだ。やはり彼はパリコレに出るような一流モデルであり、一般の人間に安易に想像できるような生活をしていないだろうと、勝手に思い込んでいる。
 一緒に食事には行っても、一緒の部屋で過ごすのはごめんこうむりたい。
 カムイが申し出てくれた以上は、彼を一人の部屋のままにおいておくわけにはいかない。
 それぞれの顔を見合わせ、誰もが沈黙する。
「砧さん、カムイと良く飲みに行っていますよね?」
「冗談じゃない。俺なんか、無理だよ。いびきうるせいし、カムイの安眠の邪魔するに決まってる」
 砧は大袈裟に顔の前で手を振って断る。
「では、服部くん……」
「勘弁してください、功刀さん。他のことならなんでもしますから……」
 首を垂れその上で両手を合わせる姿を見ていると、さすがに無茶は言えない。
「………やっぱりここは、功刀さんが……」
「どうして、私なんですか?」
「それはもちろん、カムイのマネージャーですし、一番カムイのことを知っているわけですし……」
「知りませんよ」
 功刀は吐き捨てるように言ってみるが、内心、自分にお鉢が回ってくるのは覚悟していた。
「いや、でもカムイと同等で話ができるのは功刀さんだけですし、ここはみんなを助けると思って、お願いします」
 スタッフ全員に頭を下げられたら、断るわけにもいかない。功刀は苦虫を潰したような表情で彼らを見るしかなかった。
 

「こういう部屋って、まさにシノワズリだよねえ。いい感じだなあ」
 客室もロビーや外観同様、朱塗りの家具が使われ、天井も高い。スタンダードタイプであっても、浴室も部屋もかなりの広さがある。
 そこに入って即、カムイは満足げに感想を漏らした。彼のあとで部屋に入った功刀は、無言のまま後ろ手に扉を閉める。
「ベッドのスプリングもなかなかだし。夜景も綺麗じゃない? ベランダ結構広いな。外、出てみようかな」
 カムイはカーテンを開き、窓を開けて外に出る。
「あー。すごいすごい。このベランダ、全部ぶち抜きになっているんだ。いいな。功刀さん、ちょっと出てきませんか?」
 窓から半身のみ部屋に戻し、功刀を誘う。邪気のない笑顔を向けられて、躊躇しながらもゆっくり部屋の中を進みベランダの外に出た。
 緑の人工芝を敷き詰められたベランダは、隣の部屋と朱塗りの柵で遮られているだけで、端までずっと続いているのがわかった。
 目の前には、ライトアップされたホテルの正門が闇の中に浮かび上がり、右手には台北市内のオレンジ色の光が綺麗だった。
 香港の百万ドルの夜景よりももっと穏やかで和やかに思える。
「ね、綺麗でしょう?」
 柵に手を置いて振り返ったカムイの白い肌が、柱の朱が反射し、ほんのり赤く染まって見えた。
「………そうですね」
 目の前にいる青年は、自分よりも一回りほども年下だ。その彼に何を緊張しているのかと、功刀は自分に言い聞かせる。
 荷物を置いたあと、士林夜市に出る。独特の雰囲気と熱気に包まれたそこは、深夜近くでも若者で賑わっていた。
 食事、ファッション、雑貨、果てはペットまで手に入るという。とりあえずはそぞろ歩きをしてみるが、カムイはあちこちの露店を除き、いつの間にか生果物のジュースを手にしていた。
「カムイ! お腹壊したらどうするんだ!」
「えー、平気ですよ。俺の胃、すごく強いから。何食べても当たらないっすよ。これ、かなりいけますよ。味見します?」
 生果物を使っていたのはわかるが、今ひとつ生水に信用が置けないところがある。砧だけは美味そうに飲むが、他のスタッフは誰も味見はしなかった。
 砧はそのジュースを飲む瞬間をすかさずカメラの中に収める。
 籠の中に入った子犬を見つけると、今度は何か店主と会話をして腕の中に抱き上げれば、そこを写す。特にセットも照明もなしに、カムイの素に近い姿を集めていく。
 次には屋台で料理を選び、それを地元の人と語らいながら食べ始める。
「カムイって北京語喋れるのか?」
「話せないはずですが……」
 しかし、彼の笑顔を見ていると、意思の疎通ができているように思えてくる。地元の人たちは誰もカムイのことを知らない。
 それでも、異国の人間を当たり前のように存在を受け入れられる、許容さと寛大さを持ち合わせている。
 暑さをものともせず、初日の撮影は終わる。
 ホテルに戻ると功刀は部屋にはすぐに戻らず、スタッフの部屋へ向かう。
 打ち合わせを済ませたのは、明け方近くになってからだった。
「さすがにもう寝ているだろうな」
 眼鏡を外し眉間を摘みながら功刀が言うと、「じゃあ、ここで仮眠取っていきますか?」との申し出があった。
「そうだな……とりあえず一度部屋に戻ってみて、鍵が閉まっていたらお世話になります」
 絨毯を敷き詰められた廊下を突き進み、自分の部屋の前で足を止める。ノックしようと手を上げたところですぐに下ろす。
 このまま帰ってしまっても、文句は言われないだろうと解釈し、体の向きを変えたところで扉が開く。
「……打ち合わせ、終わりました?」
 風呂上がりなのだろう、短い髪は濡れて立ち、バスローブを無造作に羽織っていた。さらにはだけられた胸元からは、体毛の薄い逞しい肌が見える。
 顔には細い銀縁の眼鏡を掛けていた。
「あ、ああ。すみません、寝ているところを起こしましたか?」
「ずっと本を読んでたんで、平気ですよ」
 そういう彼の手には文庫本がある。
 外見に似合わずというか、カムイは現在大学院で日本文学を勉強している。撮影の合間でも、寝ているか本を読んでいるかというぐらいの本好きだ。
「俺、勝手にこっちのベッドを使うことにしました」
 風呂側のベッドシーツが、人の形で盛り上がっていた。微かな煙草の香りがする。
 ふっと鼻を掠めるその香りに、羽鳥の顔が浮かぶ。彼は何をしているだろうかと思いながら、自分に背を向けてベッドに潜り込むカムイの背中を見つめた。


 翌日も、朝から晴天だった。
 コマーシャル撮影を中心に、ロケを行う。強い陽射しの中でもカムイは嫌な顔を一切見せず、撮影用に着せられた軍服に身を包み涼しげに微笑んでいた。
「プロだね。やっぱりいい顔をする」
 スタッフは口を揃えて頷く。
 功刀はこれまで仕事柄様々な役者やモデルを目にしているが、中でもやはりカムイは抜きん出ている。おまけに常にスタッフに気遣う心配りを見ていると、今後の彼の活躍がさらに期待できるように思える。
 やがて彼は海外に本拠を移し、世界へ羽ばたいていく。今はそのための準備期間なのだろう。功刀はそう思いながら、自分の担当モデルの姿を眺めていた。
 三日目もまた晴天に恵まれ、スタッフの望んだ絵を撮ることができた。CM撮影も写真集の方も、完璧な作品が出来あがることだろう。
 若干時間が押してすべての仕事を終えたときには、夜の十時を回っていた。
「もうホテルのレストラン閉まってるよなあ。どっか店知ってる奴いるか?]
 その問いに現地スタッフが美味しい店が仁愛路方面にあると言う。
「じゃあ、タクシーに分乗して行こう」
 仕事から解放された安心感で、すべての声が明るい。
 少し遅れて功刀が店に着いたときには、すでに酔っ払いの巣窟になり始めていた。
「功刀さん、こっち来てくださいよ」
 席を探していると、名前を呼ばれる。誰だろうかと顔を向けると、カムイが手を振っている。一瞬の躊躇をしつつも、今回の仕事を労いたくもあったので、あえて隣の席を選ぶ。
「お疲れ様。いい絵が撮れたみたいだ。出来を期待していていいよ」
「功刀さんも、そう思ってますか?」
 テーブルに肘を突いたカムイは、ビールグラスを手にする功刀の顔を下から覗き込むようにした。
「……もちろん。とても良かったと思うよ」
「それは、良かった」
 功刀の言葉に、カムイは満面の笑みを浮かべる。胸ポケットから煙草を取り出し、ゆっくり吸うカムイの横顔を功刀はぼんやりと眺める。この三日、一緒に過ごしてみて、少しカムイの姿が見えたように思う。
 他人に気遣う姿は、私生活でも同じだった。しかしそれを表には出さない。何もかもナチュラルにこなすのだ。
 微に入り細に入り、である。
 そんな姿に、ふと、カムイは誰かと過ごしたことがあるのではないかと思わされた。
 それも、家族ではない。恋人と、だ。
「なんです?」
 じっと見つめていた功刀の視線に、カムイが気づく。
「……いや、カムイには恋人がいるのかと思って……」
「恋人? また突然な質問ですね。マネージャーとしてのチェックですか?」
「まあ、そんなところ、かな」
「ふーん」
 煙草を銜えたまま、カムイはにやりと笑う。
「コージのことを可愛がっているようだが」
「何かって言うと食って掛かってくるのが可笑しいんで、つい構ってしまうんですよね。弟みたいな感じですね」
 やはりそうかと、功刀は納得する。
「はっきり恋人と呼べる存在は、今は、いないです」
「今は、ということは、かつてはいたということだろう?」
「ご想像にお任せします」
 それ以上の追及を避けるように、カムイは席を立って他のスタッフのところへ向かう。はしゃいで酒を飲む姿は、本来の年齢の彼の姿に戻る。
「功刀さん、お疲れ様でした」
 空いた席に砧がやってくる。
「お疲れ様。いい仕事ができましたね」
「本当に。思っていた以上にカムイはすごい奴でしたよ。これからが楽しみだ」
 まだ若手の部類に入る砧は、少し酔っているせいもあるだろうが、興奮気味に訴える。
「………ところで」
 そして周囲を気にしながら、声を潜めてくる。
「はい?」
「カムイと同室で、いかがでしたか?」
「べ、つに、特に何も」
 功刀は思わぬ質問に一瞬眉を動かしながらも平然と返す。
「良かった。俺たち、功刀さんに押しつけたはいいけど、もし何かあったらどうしようかと思ってたんスよ」
「何かあったら、とはどういう意味ですか?」
「え、いや、まあ。そのね。カムイって色々噂のある奴だから」
 慌てて砧は自分の言葉をフォローしようとするが、あまりに見え透いていた。
「どんな噂があるんですか?」
 声を低くして凄みを見せてみると、「内緒ですよ」と言って周囲を気にしながら、砧はそっと功刀の耳許に口を寄せた。
「この世界じゃ珍しいことじゃないけど、あいつ、ゲイらしいんですよ」
 どきん、と、功刀の心臓が強く鼓動して、背筋が冷たくなる。自分と羽鳥は付き合っているが、基本的に所内の人間はもちろん、対外的にも秘密の関係だ。
 知っている者は知っているかもしれないが、誰もが黙秘している。 
 そこにさらにカムイのことを言われて、もしや自分のことを見透かされているのではないかという、強迫観念に駆られた。
「それで、私に何か…?」
「気を悪くしないでくださいね。前々からカムイの奴、功刀さんのことが気に入っているらしいっていう噂があったんで、もしかして…って…」
 同室を押しつけておいて、今さらそんな話を持ち出すのは、何事だ。内心でひどく憤慨しながらも、功刀は自分のプライドにかけて表情を変えようとはしなかった。
「ご期待に添えなくて申し訳ありませんが、何もありませんでした。カムイはいつも本を読んでいましたし、私も仕事の後処理で、部屋にいてもほとんど会話はありませんでしたから」
 そう言い放つと、手元にあった酒を一息に飲み干す。すみませんと謝る砧には愛想笑いで返事をしつつ、腹の中は煮え繰りそうになっていた。
 表面上その怒りを出さず、ただにこやかに話しながら酒だけを飲んで行く。
 元々アルコールにはかなり強いが、寝不足や緊張感があったかもしれない。店を変える段になると、視界が揺れ、足元がふらついていた。
「二件目行きますが、功刀さんも……」
「私は仕事が残っているので、先に失礼します」
 誰かわからないが、目の前にスタッフがいるのはわかった。
「そうなんですか。残念だなあ」
 散々引き止められたが、それをやんわりと断って、一人で大通りへ向かう。タクシーを掴まえようと思うのだが、どうも足元がおぼつかない。
「………酔ったな……」
 近くの壁に寄りかかり、ため息をつく。意地を張ったりせず、誰かについてきてもらえば良かったか。頭を抱えていると、視線の先に人の足が見えた。
「大丈夫ですか?」
 聞き慣れた声がして、頭を上げる。揺れる視線の前には、整ったまるで彫刻のようにすっきりした男の顔があった。
「カムイ…どうして?」
「店にいたときから様子が変だったから、ついてきたんですよ。酔ったんでしょう。結構無茶な飲み方していましたもんね」
 すっと差し伸べられた手には、どこで買ったのか缶のポカリがあった。
「そこのコンビニで買ったんですよ。楽になるから、飲んだほうがいい。今、タクシー掴まえてきますね」
 カムイは足取り軽く通りの前まで走ると、すぐにタクシーを掴まえ、功刀の前まで戻ってきた。
「帰りますよ。歩けますか? 無理そうなら腕に掴まってください」
 伸ばされた手は、思っていたよりも大きかった。その手を掴んだ瞬間、忘れていた温もりが蘇る。不意に羽鳥を思い出して、体が熱くなった。
 

 部屋に戻ってから、功刀の酔いはさらにひどくなった。指先までだるくて、ベッドに辿り着くとそのまま沈み込む。
「功刀さん。着替えないと、皺になってしまいますよ」
「……あー…うん、眠いけど、風呂に入らなくちゃ……」
 自分で何をしようとしているかわからなかった。
 とりあえず立ち上がってみるものの、足がもつれ絨毯に崩れ落ちる。
「何やってんですか。無理しないで、酔いが覚めてからにした方がいいんじゃ……」
「嫌だ」
「嫌だって言ってもねえ……」
 しゃがんでいる功刀の前までやってきたカムイは、自分も跪いて視線の高さを合わせた。食い入るように見つめられたあとで、カムイはふっと笑う。
「………なんか、似てるね。功刀さん」
「誰が誰と?」
「内緒。でも、なんであの男があの人を選んだのか、わかるような気がする」
 カムイは一人で納得してしまう。
「一人で納得するな。風呂に入りたい。シャワーを浴びたい」
「だから、無理ですって。この状態じゃ」
 自分でも、ダダをこねている自覚はあったが、それを押し留める理性は働かない。功刀はカムイの腕に手を掛けた。
「だったら、カムイが手伝ってくれればいい」
「………何を言ってんですか、功刀さん」
 呆れ果てたカムイの声が、羽鳥の苦笑に変わる。背中に回った手が心地好い。
 抱き合ったのは、いつだっただろうか。一緒に暮らしていながら、あの男はいつまでも功刀に対してどこかよそよそしい。抱き合いながらも、功刀が少しでも嫌だと言えばそれ以上の無理強いはしない。
 それがいいのか悪いのか、今の功刀には判断できない。
「キス、してくれ」
 背の高い男に甘い声でせがむ。
「功刀さん、誰かと間違えているでしょう」「間違えていない。一緒に風呂に入って、それから一緒に寝よう」
 せがんでも与えられないキスを、自ら奪う。一瞬だけ逃げようとしながら、すぐに舌を絡めてくれる。
「……ったく、知らないよ。帰国してからどうなっても」
 カムイは苦笑混じりに言って後頭部を軽くかきながら、功刀の体を支えて浴室へ向かう。
 バスタブに湯を溜めている間、カムイは功刀のネクタイを取り、シャツのボタンをひとつずつ外していく。ズボンを脱がし下着まで剥ぎ取ると、バスタブに先に座らせた。
 カムイはそのあとで着ている物を脱ぎ捨てる。服を着ているときよりも逞しいその均整の取れた体を惜しげもなく功刀の前に晒す。
「……久しぶりだ」
 功刀はその胸にそっと手を伸ばす。カムイは功刀が自分以外の誰かを頭に思い浮かべているのを自覚しながら、その手をそのままにしておいた。
 向かい合った状態で、カムイは手を功刀の体に伸ばす。肌にかいた汗を流し、一日外にいて強張った足の筋肉を解してくれる。
「マッサージ、上手いんだ」
「一応体が資本の仕事をしていますから」
 一通り体を洗い終えると、カムイは功刀の体を抱え上げる。そしてバスタオルで軽く拭ってからその上にバスローブを掛けた。
 先に部屋へ移動し功刀のベッドカバーを外し、すぐに寝られるように準備する。
「功刀さん。もう大分酔いは覚めたでしょう? 服は俺がかけておくから、このまま寝ちゃってください」
 功刀はふらふら浴室から歩いてくると、すぐ近くにあるベッドの上に倒れ込む。
「ちょっと、そっちは俺のベッドだってば。貴方のベッドはこっち」
 カムイは大きなため息をつきながら、自分のベッドに寝転がっている功刀の前に立つ。
「ほら、功刀さんってば。俺の手、掴んで立ち上がってください」
 功刀の顔の前に、すっと手が伸ばされる。その手を功刀はぎゅっと手前に引いた。
「ちょ、っと…」
 ベッドに前のめりに倒れたカムイは、功刀に覆い被さる格好になった。
「一緒に寝ようと言ってるだろう?」
 どこまで何を考えているのだろうか。功刀は誘うような笑みを浮かべている。バスローブの前がはだけられ、すらりとした足がカムイの目前に晒される。さらに、思い切り煽るようにその足が肩に乗せられた。
「……なんだか、外見だけじゃなくて、その女王様ぶりまで似てるような気がしてくるよ」
 ここまでされて、据え膳食わぬは武士の恥。純粋な日本人ではないが、カムイは開き直って肩に乗せられた足を掴み、ゆっくり体を前に進めた。
「忘れてくれてもいいけど、俺だけを悪いことにするのはごめんだからね」
「そんなこと、しない」 
 甘い唇に、そっとキスをする。
 微かに割れた合間からその中に舌を忍ばせ、根元までを絡めていく。上から覆い被さるように功刀の頭を枕に押しつけ、貪るように吸い上げる。
「……あっ」
 唇を離すと、功刀の口から甘い吐息が零れ落ちた。はだけられた胸元に唇を這わせると、白いそこにくっきりと赤い痕が残る。軽く浮かぶ腰や、立ち上がってくる突起が、カムイを誘っているように思えた。