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花菱 & 上條 



 周囲を気にしながらタクシーを降りた上條千里は、胸元に差していた度の入っていない眼鏡を掛けて、ホテルのエントランスの中へ向かう。ロビーを抜け客室階へ上がるエレベーターへ乗り込むと、扉の閉まるぎりぎりに走ってくる人間があった。
「すみません」
 若い男は奥の壁に背中を預けた上條に会釈をして一旦ボタンの前に立つが、はっと何かに気づいたように振り返る。上條は男のぶしつけな視線ににこりと笑顔で返し、すぐに顔を横へ向けた。
 先に男が降り、上條はさらに上の階へ向かう。エグゼクティブフロアになっているその階に辿り着くと、絨毯の敷き詰められたゴシック調に飾られた廊下を進む。
「俺だって、わかったかな?」
 掛けていた眼鏡を外し、改めて胸元に掛け直す。そして今更ながらに少しだけ心配になった。だからといって、彼の後を追いかけて言い訳したり口止めしても仕方ない。すぐに気分を変え、目当ての部屋の呼び鈴を鳴らした。
 しばらく待っていると、中から鍵の開く音がする。そして扉が開き、そこにいる男の姿が見えた。
「千里」
 耳に馴染む心地好い高さの優しい声に呼ばれる名前が、上條の心に染み渡る。
「すみません。遅くなりました」
 少し肩を竦めた上條の体を、男の太い腕が部屋の中へ引き寄せる。背中の後ろで扉が閉まり、鍵の閉まる音はキスをしながら聞いた。
「大丈夫だったか?」
 甘いキスの挨拶のあとで、上條を待っていた男は確認してくる。額に下りた真っ直ぐの髪が、彼を実際の年齢よりも若く見せている。
 ネクタイは緩められ、シャツの襟下のボタンがふたつ外されていた。そこから覗く鎖骨の隆起が、妙に艶めいて見える。
「エレベーターで乗り合わせた人にはばれたようですが、他には……」
「そうか」
 男は安心したようにほっと息を吐いた。
「誰にばれても構わないが、千里に嫌な想いはさせたくないからな」
「……でも」
 その言葉を上條は否定する。
「どうやら、羽鳥さんにはばれているようです」
「羽鳥?」
 細い眉を寄せて男は怪訝な顔を見せる。
「この間、たまたま現場で居合わせたことがありましたよね? あのときにどうやら、隠れて会っていたところに見られていたようです」
「羽鳥さんか…」
 男は肩を揺らしながら笑う。
 笑うと目尻に小さな皺の寄る男の名前は、花菱智樹という。
 上條の所属するワタセエージェンシーとはライバル関係に当たる、阿部プロダクションに所属している。
 しかし、出会った当初、花菱は一部上場企業の法務部に在籍していた。上條が彼の会社のコマーシャルに出演したことがきっかけになり、今の関係が出来上がった。
「そういえば、お知り合いなんですよね?」
「ああ。大学のサークルの先輩だ」
 花菱は思い出し笑いをするように肩を揺らした。
「何が可笑しいんですか?」
「聞きたいか。学生時代の話を」
「ええ。ぜひ」
 花菱の腕の中で頭を上げると、慈しみの瞳を上條に向ける。後頭に回った細い指が、柔らかいウェーブのある髪をくしゃりと撫でつけた。
 優しい笑みが何を意味するのか。上條が次の言葉を紡ぐ前に、唇の前に指を立てられる。
「花菱さん……」
「あとでゆっくり聞かせてやるから、その前にまず、千里の体を味わせてくれないか?」 
 ゆっくり落ちてくる唇の問いに、上條は小さく頷くことで応じた。



「俺は羽鳥さんがいない隙をついて、功刀とつき合っていたんだ」
 ベッドの中で互いの肌に触れ合いながら、花菱は過去の話を語り始める。現在、功刀と羽鳥が付き合っていることは知っている。公然の秘密、というわけではないが、所内には二人の仲を知りながら黙っている人間は多い。
「俺が卒業するまでの、一年半ぐらいだけどな」
「じゃあ、二人はその後からずっと続いているんですか?」
「まさか」
 花菱はベッドサイドに置いていた煙草を手にすると、先端に火を点けてそれを隣の男の口元に向けた。うつ伏せになっていた上條は上半身を起き上がらせると、それを指の間で挟んで軽く煙を吸った。
「羽鳥さんという人は、見かけに寄らず押しの弱いタイプなんだよ。俺と付き合っていた功刀がまさかまだ自分のことを好きだとは予想もしていないから、同じ電報堂に就職したあとも、どう対処したらいいかわからなかったんだ」
 過去を思い出して花菱は肩を揺らして笑う。
「そういう風には見えませんけど」
「ワタセエージェンシーへの引き抜きの話が来たときも、功刀が行くなら羽鳥さんは行かないつもりだったらしいし、結局は焦れた功刀が自分からモーションを掛けたようだ」
「功刀さんって、かなり積極的な方なんですか?」
「ああ。千里に負けず劣らず、な。ポーカーフェイスはできないタイプだが」
 花菱の何気ない言葉に、一瞬上條はひやりとしながらも表情は変えない。
「でも今は、羽鳥さんの方が主導権を握っているように見えますよね」
「表向きはな」
 自分のマネージャーの、外見とは違う姿とは異なり、花菱は見えた通りの性格をしている。
 仕事で初めて会ったその日に声を掛けられ、それから続いた仕事の間ずっと口説かれ続けた。自分の何が彼の気に入ったか不思議だったが、功刀と付き合っていたという過去を知れば、なんとなく納得できるものもある。
 自分のことを好きな気持ちに嘘はないだろうが、おそらく心の底で無意識に功刀の姿を追っている。
 別にそれは不快ではなかった。上條自身、花菱を利用している部分がある。
「でも実際のところ、羽鳥が尻に敷かれているんじゃないかと思う。羽鳥さんが本気にならないと、あの二人の関係は今後も同じように危うい部分を持ち続けるだろうと俺は思ってる」
「何か、ご存知なんですか?」
 横顔を見つめる上條を振り返り、花菱は笑う。
「千里も気づいているんじゃないのか? 功刀の担当しているタレントのこと」
「…………え?」
 思わぬ名前に、上條は短い声を上げる。
 功刀の担当しているタレントといえば、カムイだ。実際の年齢よりも大人びていて、冷めた目を持つ彼の姿が、鮮明な形で瞼の裏に蘇る。
「――彼が、何か?」 
「今は何もないだろうけれど。今後の展開が楽しみだと思ってね」
 花菱はひとしきり笑ったあとで、体の向きを変える。そしてまだ完全に汗の引いていない白い肌に、そっと指を伸ばす。
 先ほどつけたばかりの痕を辿るように唇が貼ってくると、それだけで上條は甘い吐息を漏らした。
「お喋りはこれで終わりにしよう。せっかくの時間がもったいない」
 熱い吐息とともに告げられる言葉に、上條の体はすぐに高められていく。
 男の頭をしっかりと抱え、上條は快楽の海に自ら飛び込んでいった。